第2潜 涙の過去とめんだこ1号の誕生 ①
新学期が始まってすぐのこと。
青々とした神津島の空に、どこまでも澄んだ潮風が吹き抜けるなか、菜月、凪、そして朱音の3人は、校舎の2階にある職員室の扉の前に立っていた。
これから自分たちが始めようとしている壮大な計画――「自分たちの手でROV(水中ドローン)を作り、誰も見たことのない深海の底を覗きに行く」という途方もない夢を形にするための、最初の公式な一歩を踏み出すためだ。
「あの、先生! 私たちに部活……というか、同好会を作らせてください!」
職員室のドアを勢いよく開け放った菜月が、勢いそのままに担任の化学教師の机に突撃する。
その後ろから、呆れたような、しかしどこか嬉しそうな顔をした凪が続き、朱音は少し気まずそうに、けれどしっかりと二人の後ろをついて入ってきた。
引き受けてくれた若い化学の先生は、突然の直訴に苦笑いを浮かべながらも、生徒たちの真剣な熱意に押されるようにうなずいた。
「正式な部活は、部員の人数や予算の都合上すぐには難しいけど、『同好会』なら手続きすれば通るよ。……まあ、何をする気だか知らないけれど、怪我だけはしないようにね」
顧問の先生からのその言葉に背中を押され、彼女たちのチームは「海洋調査同好会」として正式に認められた。
活動場所は校内ではなく、普段は漁具の倉庫としてしか使われていない、菜月の実家の裏手にある古いガレージだった。
潮風と古びたグリスの匂いが混ざり合うその場所は、一歩足を踏み入れれば無数の漁網や使い込まれた工具が転がっており、お世辞にも綺麗とは言えない。
しかし、都会の洗練されたラボとは違う、島育ちの彼女たちにとって最高に落ち着くその場所こそが、3人だけの秘密基地となった。
ROVの制作にかかる基本予算は、最低でも10万円。
しかし、塩ビ管の加工ミスや、耐圧テストで破損するリスク、防水パッキンの買い直し、さらには電子基板やモーターの予備まで考慮すれば、とても10万円では足りない。
「絶対に途中で予算不足で頓挫したくない。だから、余裕を持って『3人で20万円をアルバイトで稼ごう』!」
菜月のその力強い宣言のもと、3人の過酷で充実したアルバイト生活が幕を開けた。
神津島での高校生のアルバイト事情は、やはり本土とは違って選択肢が限られている。
それでも、幸いなことに、凪の叔父が経営する島内の老舗スーパーの惣菜・品出し部門と、菜月の知り合いの紹介で港近くの土産物店を紹介してもらい、3人は放課後や週末をフルに使って働き始めた。
レジ打ちや、重い段ボールの搬入作業、観光客向けのお土産の袋詰め、商品の賞味期限チェック。
普段はのんびりと島時間を楽しんでいた彼女たちにとって、立ちっぱなしの労働や、時には理不尽な客の対応に追われる日々は想像以上に過酷だった。
バイトから帰る夕暮れ時、自転車のペダルを漕ぐ足は鉛のように重く、ガレージの床に座り込むと「もう疲れたー……一歩も動けない……」とそのままコンクリートの上に大の字で倒れ込む日も少なくなかった。
それでも、ベッドのなかで天井を見上げながら、「今頃、あの深海の底ではどんな魚が泳いでいるんだろう」「私たちが作った機械が、まだ誰も見たことない光景を映し出してくれるんだ」と想像すると、不思議と体の奥から力が湧いてくる。
目標である『深海の底にいるかもしれない、まだ見ぬ深海魚を見る』という圧倒的なロマンがあるからこそ、3人は弱音を吐かずに歯を食いしばり、それぞれの持ち場で懸命に働き続けた。
---
バイトと並行して、ROVの具体的な設計作業も本格的にスタートした。
限られた時間の中で効率よく動くため、3人の役割分担は自然と決まっていった。
まず、必要な部品の洗い出しを担当するのは凪だった。
凪は、島内の図書室のパソコンやスマホを駆使し、国内外のDIY水中ドローンの製作ブログ、大学の研究論文、さらには工業用の防水規格に関する資料までくまなく読み込んでいていた。
「ただ塩ビ管を組めばいいわけじゃないのよ。水深が100メートル深くなれば、1平方センチメートルあたり約10キログラムの水圧がかかるの。
つまり、機体の大きさに比例して、桁違いの負荷がフレームや接合部にかかるわけ。だから、耐圧深度をどこに設定するかで、使う素材の厚みも変わってくるのよ」
凪がノートに書き出したリストは、理路整然としていて驚くほど緻密だった。
そのリストを元に、ガレージに眠っている使えそうな端材や、神津島漁業協同組合の漁協長である祖父の倉庫に突撃して調達するのは、顔の広い菜月の役目だった。
「じいちゃん! この漁具の固定に使ってた古くて頑丈なステンレスのボルト、余ってない!? あと、使わなくなった防水の配線ケーブルも!」
「おやおや、また何か変な企みをしてやがるな。……まったく、しょうがないやつだ、そこにある分だけ持ってきな!」
祖父と交渉し、時には特製の島寿司を餌に漁協の倉庫から使えそうな資材をごっそり調達してくる菜月の交渉力は、もはや職人技の域に達していた。
そして、集まったパーツの寸法や構造を正確に計算し、一冊のノートに美しい手書きの設計図として落とし込んでいくのは朱音だった。
朱音は定規とコンパスを使い、幾何学的な正確さで機体の内部構造を描き出していく。
その眼差しは真剣そのもので、まるで本物の船舶エンジニアのようなオーラを放っていた。
朱音が描き上げた設計図の表紙には、誇らしげに、そして少し愛情を込めた丸文字でこう書かれていた。
――『めんだこ1号』
設計図が完成すると、3人はガレージに作業台を広げ、できるところから少しずつ機体を組み上げていった。
近くの金物屋で調達してきた肉厚な塩ビ管を、ノコギリを使ってギコギコと正確な長さに切り出し、専用の強力な塩ビ用接着剤でしっかりと固定していく。
内部の精密なカメラや基板を海水から守るための透明なアクリル気密ケースを作り、水中で機体を前後左右、そして上下に自在に推進させるための防水小型モーター(スラスタ)を配置する。
さらに、わずかな隙間からも海水が浸入しないよう、シリコンシーラントをヘラで隙間なく塗り込み、幾重にも防水コーキングを施していく。
手探りながらも、お互いに「そこ、ズレてない?」「もっとしっかり接着剤塗りなよ!」と声を掛け合いながら、一つひとつのパーツが確実に組み上げられていく。
不格好ながらも、自分たちの手で少しずつ「機械」の形になっていくその姿を眺めながら、ガレージの中で、
「うわ、これめっちゃワクワクするね……! ちゃんとプロペラ回ったら、もう本物の潜水艦じゃん!」
「ほんとだね、なんか秘密基地の工作レベルを超えてきた気がする!」
と3人で顔を見合わせてはしゃぎ合った。
夕暮れの光がガレージの窓から差し込み、工具の光る金属音と彼女たちの笑い声が心地よく響き渡っていた。
---
そうしてバイトとROVづくりに明け暮れること、およそ3ヶ月。
季節は初夏から本格的なジリジリとした暑さを迎える7月に入っていた。
毎月の給料日、貯金箱の代わりとして使っている錆びたお菓子の空き缶をパカリと空けるたびに、中身は驚くほどのスピードで重みを増していった。
蓋を開けて札束と硬貨を数えた日、3人は思わずその場で飛び上がって叫んでしまった。
なんと、目標だった20万円を大きく突き抜け、手元には30万円もの資金が溜まっていたのだ。
高校生のアルバイトとしては異例の金額だった。連日の過酷な立ち仕事の疲れも、この瞬間ばかりはすべて吹き飛んでしまった。
「これだけあれば、欲しかったあのパーツも、失敗したときの予備だって余裕で買えるよ!」
しかし、ここで一つ、彼女たちの前に大きな壁が立ち塞がった。
ネットでどれだけ夜を徹して探しても見つからない、あるいは島内の金物屋では到底扱っていない、さらには海外からの取り寄せで桁違いに高額な、「高耐圧の特殊アクリルドームポート」と「水中専用の微調整スラスタ(小型モーター)コントローラー」が、どうしても国内の通常ルートでは入手できなかったのだ。
「これがないと、水深数百メートルの水圧に耐えられないし、機体の向きやスピードをミリ単位で精密にコントロールできないよ……どうしよう、詰んじゃった?」
頭を抱え、ガレージの床にガックリと崩れ落ちる菜月に、作業台の端で資料をめくっていた凪が、ふと顔を上げて言った。
「……だったらさ、ネットや島の中だけで探すのをやめて、直接買いに行っちゃえばいいんじゃない? 本土の、秋葉原のジャンクショップ街とかさ。こういう工業用や特殊な電子パーツの掘り出し物が眠ってそうな場所って言ったら、やっぱり東京でしょ」
凪のその何気ない一言から、夏休みを利用した「秋葉原ジャンクパーツ遠征」の計画が急浮上した。
「やった! 東京だ! どうせ東京に行くなら、お金もこれだけ貯まったことだし、秋葉原だけじゃなくて、渋谷や原宿にも行って、パンケーキ食べたり服買ったりして思いっきり遊びに行こうよ!」
菜月は両手をパッと広げ、満面の笑みで目を輝かせた。
しかし、その楽しげな提案を聞いた瞬間、朱音はふっと視線を足元へと落とし、小さく肩を縮こまらせた。
笑顔がスッと消え、顔色にわずかに影が差す。
「……東京、か。うん、そうだね……」
心なしか声のトーンが低く、どこか浮かない顔で自分の指先をギュッと握りしめる朱音。
凪はそんな彼女の小さな異変を鋭く察知し、心配そうに細い眉をひそめながら、じっとその横顔を見つめていた。
「ねえ、朱音。どうかしたの? なんだか顔色が優れないみたいだけど……何か気になることでもあった?」
凪が作業の手を止め、まっすぐに朱音の目を覗き込みながら静かに尋ねる。
不意を突かれたように朱音は肩をビクッと震わせ、慌ててぶんぶんと両手を横に振った。
「う、ううん……! なんでもないの! ちょっと、旅の計画のことで考え事をしていただけだから……本当に、心配しないで!」
作り笑いを浮かべてそう答える朱音だったが、その声の震えや、落ち着きなく揺れる瞳は、どう見ても「なんでもなくない」様子を雄弁に物語っていた。
(――やっぱり、何かあるわね)
凪は心のなかでそう呟きながらも、これ以上無理に聞き出すのはよそうと思い、追及するのをやめたのだった。
毎日18:50に更新中!続きが気になる!と思ってくださったら、ページ下部の【☆☆☆☆☆】をポチッと押して応援していただけると励みになります!




