第1潜 多幸湾の朝と小さな海底ロマン ②
周囲の輪に入れず、なんとなく気まずそうにうつむいている朱音の様子に気づき、菜月は迷わずトコトコと机へと歩寄った。
そして、ひょいと首を傾げてその画面を覗き込む。
「ねえ、さっきの新入生代表あいさつ、めちゃくちゃカッコよかったよね! 本土から引っ越してきたの?」
「っ……!」
朱音が心臓を跳ねさせたようにビクッと肩を震わせ、慌ててスマホの画面を手のひらで隠そうとする。
その瞳には、まるで怯えた小動物のような警戒色が浮かんでいた。
しかし、毎朝の素潜りで鍛え上げられた菜月の動体視力は、その画面の端っこに映っていた奇妙な生き物をしっかりと捉えていた。
「あ、それ……なんか変な魚! でも、すっごくキモかわいいね!」
朱音は、菜月の底抜けに人懐っこい笑顔と、まったく悪びれないまっすぐな瞳を見つめると、ほんの少しだけ警戒を解いて、おそるおそる指を離した。
画面に映っていたのは、細長い3本の脚のようなヒレで海底にピタッと立ち、じっと一点を見つめる、なんともシュールで愛嬌のある深海魚だった。
「これ……三脚魚──イトヒキイワシよ。学名はバスプテロイス……」
「へえー! 三脚魚! これ、神津島の海にもいるの?」
「ううん、浅瀬にはいないわよ。もっとずっと深い場所……水深数百メートルの太陽の光すら届かない真っ暗な海底にしかいないもの」
「へえー、深いところかぁ。じゃあさ、そういう深いところにいる魚って、他にはどんなのがいるの? 神津島の近くの海にもいたりする?」
「このあたりの深海なら、アコウダイとか、あとはメダイやユメカサゴなんかも生息しているはずよ。でも、もっと深くまで行けば、私たちの知らない世界が広がってるわ」
「深海魚かぁ……なんだかすごくロマンあるよね! 私、こういうの見るのすごく好きなんだ。生で見てみたいな、こういう可愛いやつ!」
朱音は小さくやれやれと首を振りながらも、どこか嬉しそうにメガネの位置を直した。
「無理よ。私たちが直接そんなところに行くには、最先端の有人潜水艦でもチャーターしない限り、絶対に不可能なんだから」
「へえ、潜水艦かぁ。乗ったことないなぁ」
「そういう問題じゃないわよ。乗れるわけないでしょ、高校生が個人的にチャーターできる金額じゃないもの」
そこに、ちょうど隣の席だった凪が、椅子を少し後ろに引いて横を向きながら、二人の会話に割り込んできた。
「ねえ菜月、さっきから何ひとりで盛り上がって……って、なにそれ、魚?」
「聞いてよ凪ちゃん! 朱音ちゃんが見せてくれたこの魚、めっちゃ可愛くない? でも、潜水艦に乗らないと見られないんだってさ」
凪は腕を組み、ふーんと顎に手を当てて、朱音のスマホ画面を覗き込んだ。
「ふーん……直接見るならそうかもしれないけどさ。別に人間が生身で乗らなくても、カメラを積んだリモコンで動く小型の潜水艦とかだったら、見れるんじゃない?」
その凪の軽い一言が、菜月の胸のなかにポッと小さな、しかし猛烈に熱い火を灯した。
「リモコンの潜水艦……!」
「ちょ、菜月、そんな真面目な顔しないでよ。今の適当に言っただけだからね?」
「いや、待って凪ちゃん、それめちゃくちゃ面白くない!? ロボットだよ? 自分の手で操縦して、誰も見たことない海の底を覗きに行くんだよ! そういうの、自分で作ったりできないかなぁ」
朱音はあきれたようにため息をついた。
「素人がそんな簡単に作れるわけないでしょ。水圧だってものすごいんだから、ちょっとやそっとじゃ潰れちゃうわよ……たぶん」
「作れるよ! 作れないなら、作れる方法を探せばいいじゃん!」
菜月の目が、ワクワクと好奇心でギラギラと輝き始めていた。
その様子を間近で見ながら、凪は「また始まったよ……」と苦笑いを浮かべるのだった。
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放課後。
せっかく本土から引っ越してきたばかりの朱音をそのまま帰すわけにはいかないと、菜月は「ねえ、せっかくの初日だし村の中を案内するよ!」と、半ば強引に朱音の腕を引っ張って教室を飛び出した(凪も「まったく、しょうがないなぁ」と言いながら呆れつつも、結局はついてきてくれた)。
西側の集落の細い路地を歩きながら、菜月はまるで名物ガイドのようにペラペラと喋り続ける。
「ほら、ここのラーメン屋さん、結構おいしいんだよ! あと、ちょっと行くとハンバーガー屋さんもあってさ。あ、でも島内だとさっきのスーパーがメインだから、コンビニとかは無いんだよねー。不便だけど、それが逆に落ち着くっていうかさ!」
「……コンビニ、本当に一軒もないの?」
朱音は小さくまばたきをしながら、少し驚いたように聞き返す。
「うん、ないよ! だから夜食とか食べたくなったら買い置きしとくしかないの。あ、でもそのぶん星がめちゃくちゃ綺麗に見えるんだからね!」
「……そっか。なんだか、時間の流れが本土とは全然違うみたい……」
朱音はふっと肩の力を抜き、どこか新鮮なものを見るような目で周囲の家並みを見渡した。
「でね、ここが前浜海岸! 砂が真っ白ですっごくキレイでしょ? 夏になったら、みんなでここに泳ぎに来ようよ!」
どこまでも明るい菜月のペースに巻き込まれながら、朱音も少しずつ緊張がほぐれていき、小さな笑みをこぼすようになっていた。
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その日の夜。
村の中程にある自宅の自室のベッドの上。
窓を少しだけ開けておくと、夜の静けさの中に、遠くからかすかに波の音がサラサラと心地よく響いてくる。
天井を見上げながら、菜月の脳裏からは昼間に聞いた「リモコンの潜水艦」という言葉がどうしても離れなくなっていた。
「リモコンの潜水艦かぁ……そんな都合よく売ってるのかなぁ」
気になって仕方のなくなった菜月は、枕元からスマホを手に取り、布団の中で検索窓に指を滑らせた。
『リモコン 潜水艦』
画面にヒットしたのは、おもちゃコーナーの隅っこに転がっていそうな、黄色や青色をしたプラスチック製の子供向けオモチャばかりだった。
お風呂場で遊ぶにはちょうどいいかもしれないけれど、こんなチープな代物で、神津島の荒々しい沖合の深い海に行けるわけがない。
「これじゃあ、深海に行くのはやっぱり無理だよね……」
ため息をつき、画面を閉じようとしたその時、検索結果の端っこに、見慣れない三文字がひっそりと引っかかった。
『ROV』
――ROV。遠隔操作型の無人潜水機。
好奇心を抑えきれず、菜月は思わずその文字をタップした。
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