第1潜 多幸湾の朝と小さな海底ロマン ①
──神津島の春は、どこまでも透き通った青から始まる。
島のエントランスである東側の多幸湾。
その波打際はまるで精巧に磨き上げられたガラス細工のように太陽の光を反射してきらめき、白く乾いた砂浜の向こうでは、黒潮の豊かな恵みを受けた海が、朝の光を浴びてエメラルドグリーンから群青色へと何重もの鮮やかなグラデーションを描いていた。
波が引くたびに、海底の白砂がサラサラと音を立て、まるで生き物のように光の網目を揺らしている。
頭上に広がる空は雲一つなく、水平線の彼方までどこまでも高く、どこまでも深い青を湛えている。
東京から遠く離れたこの島特有の、人工的なノイズの一切ない澄み切った大気。
春の陽気を含んだ潮風が、白砂の浜辺を軽やかに撫で、少し色褪せた瓦屋根の集落を吹き抜けていく。
ザプン、と静寂を破るように鮮やかな水飛沫が弾けた。
真新しいウェットスーツに身を包んだ海野菜月が、頭上にシュノーケルをグッと力強く押し上げながら、海面から勢いよく顔を出す。水滴が弾け飛び、黒髪のショートヘアが太陽の光を浴びてきらりと光った。
「ふーーっ! きっもちいーーっ!」
肺の腑の底から新鮮な空気を吸い込み、菜月は思わず満面の笑みを浮かべて両手を大きく広げた。
水底のサンゴ礁を縫うようにスイスイと泳ぐルリスズメダイの群れ、海藻のあいだを悠然と横切る鮮やかなアオブダイ。
息を吸い込むたびに、潮風と冷たく澄んだ海水の匂いが胸の奥まで満たされていく。
島で生まれ育った菜月にとって、この多幸湾の海はただの景色ではなく、庭であり、遊び場であり、毎日の呼吸そのものだった。
どれだけ眺めていても、どれだけ潜っていても、この海の美しさに飽きたことなど一度もない。
海底の砂紋が光を受けて揺らめく様子や、ふと通り過ぎる潮の冷たささえ、すべてが愛おしい。
毎日のように海に潜ってきた菜月は、このあたりの海の生き物は大体知り尽くしていたつもりだった。まだ誰も見たことのない秘密の場所なんてない、そう思っていた。この時はまだ。
「――って、のんびりウェットスーツ着て海に浸かってる場合じゃないわよ!」
静寂を引き裂くように、岸壁の上から甲高い、切迫詰まった声が降ってきた。
自転車で島を横断するアップダウンの激しい山道を全速力で駆け抜け、息を切らせながら多幸湾の岸壁にたどり着いた波多野凪が、両手を膝について荒い息を吐きながら声を張り上げた。
制服のブレザーのボタンが一つ外れ、乱れた前髪の隙間から険しい視線が向けられている。
そもそも、今朝方のことだ。
同じく村に住む幼馴染の凪は、入学式を控えた朝、一抹の不安を覚えて菜月の家を訪ねていたのだ。
そこで菜月の母親から「あの子なら今朝早く、丸島まで行ったわよ」と聞き、「え? 今日、入学式ですよ!?」と聞き返すと、母親は「あら、そういえばそうだったわね」と呑気に笑っていた。
「まったく、このマイペースっぷりは親子揃って遺伝なのだろうか……」と心の中でやれやれと盛大にため息をつきつつ、「私、丸島まで菜月を呼びに行ってきます」と飛び出してきたのだった。
母親からは「わるいけどお願いね」と見送られてここまでやってきたというわけだ。
菜月が海中から見上げると、そこには真新しい紺色のブレザーに身を包んだ凪が、ぴかぴかのローファーのつま先でトントンとコンクリートの地面を苛立たしげに鳴らしている。
胸元には、誇らしげに結ばれた真新しいリボンが、島特有の潮風にパタパタと忙しなく揺れていた。
「凪ちゃん! おはよう!」
「おはようじゃないわよ、菜月! 入学式の日まで、ここまで来て海に潜ってるんじゃないわよ! 全く、いくら今日が高校の初日だからって、のんびりしすぎにもほどがあるでしょ! 式に遅刻でもしたら、一生消えない笑えない黒歴史になるんだからね!」
「はーい、今上がるからそんなに怒らないの! 海の神様にご挨拶してたの!」
「海の神様も、あわてて走ってきた新入生見て呆れてるわよ!」
菜月は名残惜しそうにシュノーケルを外し、濡れたウェットスーツのままバシャバシャと海から這い上がると、多幸湾の近くにある祖父の作業小屋へと駆け込んだ。
小屋のなかのシャワーでサッと潮を洗い流し、タオルで乱暴に髪を拭きながら、慌てて真新しい制服へと着替えて飛び出してくる。
「おそい! あと40分しかないわよ!」
「40分あれば十分だよ!」
凪とともに自転車のペダルを力強く踏み込み、村の中心にある高校へと急な坂道を一気に下っていく。
タイヤがアスファルトを鳴らし、春の風が耳元を通り過ぎていく。
なんとかギリギリで時間に間に合った二人の目の前には、「都立神津高等学校」の立派な校門と、見事に咲き誇る満開の桜の木が出迎えていた。
桜のピンク色の花びらが春風に舞い散るなか、息を弾ませながら慌てて校舎の中へと駆け込む。
しかし、慌てて教室のドアをガラリと開けたものの、教室には誰ひとりとして生徒の姿がなかった。
「あれ……? 誰もいない?」
「もしかして、もうみんな体育館に移動しちゃったんじゃ……!」
都立神津高等学校の体育館。
パイプ椅子が規則正しく並ぶこぢんまりとした会場の片隅に、どうにか滑り込んだ二人。
そして全校生徒が見守るなか、厳かに入学式が執り行われた。
今年の入学生はわずか18名。
クラスはもちろん、1年A組の「1クラス」だけだ。
式典の最中、新入生代表として壇上に立ったのは、凛とした佇まいの少女――潮見朱音だった。
整えられた黒髪と、どこか冷ややかな、しかし芯の通った瞳が印象的だった。
「ねえ、あの新入生代表の挨拶してるのって、さっき教室で一人で静かにしてた娘だよ」
「なんでも、今回の入試の成績がダントツトップだったらしいわよ」
「え、マジで? なんでわざわざこんな島の高校に来たんだろうね」
そんな周囲の生徒たちのヒソヒソとした囁き声が、菜月の耳にもかすかに届いてきた。
近年はリモートワークの普及や、島全体が「星空保護区」に認定されたことをきっかけにした移住ブームのおかげで、全校生徒の顔ぶれも昔に比べれば、だいぶ賑やかになってきている。
それでも、式典のあとに戻った教室のなかに漂う空気はどこかアットホームで、見知った顔ぶれが多いぶん、過度な緊張感よりも「これから新しい毎日が始まるんだ」というワクワクした期待感が満ちていた。
ホームルームの時間になり、担任の先生に促されて一人ずつ簡単な自己紹介をしていくことになった。
「はいっ! 海野菜月です! 趣味は泳ぐことで、今日も朝から海に潜ってきたんだけど、すっごくキレイな魚がいっぱいで、それでね――」
張り切って話し始めた菜月のトークがどんどんディープな方向へ暴走しかけたその時、隣の席に座っていた凪が慌てて「コラ、自己紹介で魚の話を延々とするんじゃないの!」とピシャリと制止に入り、教室からクスクスと笑い声が漏れた。
そのあとの凪は「波多野凪です。普通にインドア派ですが、よろしくお願いします」とそつなくまとめ、最後に順番が回ってきた朱音は、静かに立ち上がると「潮見朱音です。……よろしくお願いします」と、必要最低限の言葉だけでペコリと頭を下げて席に座った。
その声にはどこか棘というか、周囲を寄せ付けない硬質な響きがあった。
ホームルームが終わり、真新しい教科書をドサッと机に放り出した生徒たちが、さっそく思い思いのグループを作ってワイワイと雑談を始めている。
そんな賑やかな教室の片隅、一番窓際の席で、ひとりポツンとスマホの画面を見つめている女子生徒がいた。
先ほど新入生代表の挨拶をしていた、潮見朱音その人だ。
この春、本土から家族と共にあてまなく、しかし確かな静けさを求めてやってきた移住組のひとりだった。
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