第三話:始まりのナイフ
「えぅっ!」
身体をガバッと起こすと、そこはいつもと変わらないお花畑だった。
「怖い夢でも見た? あおいちゃん」
目の前の男の子が、私の冷え切った頬をそっと優しく撫でる。
「その顔は……やっぱり覚えてないよね? 僕の名前」
私は彼の顔をじっと見つめ、記憶の濁流の中から必死に言葉を探した。
彼の瞳はとても優しくて、どこまでも温かくて――そして、ぞっとするほど冷たい。
「……か……」
「お、すごい。か、その次は?」
「…………」
「ううん、十分だよ、あおいちゃん」
彼は満足そうに目を細めると、私の頭をポンポンと大きな手で優しく撫でた。
「かずま。かずまだよ」
「か……ずま……」
「今日は天気もいいみたいだし、散歩でもしようか。なるべく、人が少ないところへね」
◇◇◇
彼に連れられてやってきたのは、街の喧騒から遠く離れた森林公園だった。
大きな池、澄んだ小川。木々の隙間から落ちる小さな滝の水しぶき。
胸の奥にこびりついていた不気味な黒いモヤが、清流に洗い流されていくように穏やかになっていく。
「きもち……いい……」
「あおいちゃんは、こういう静かな場所が好きだもんね」
「そう……なの……?」
小川の底まで見透かせるほど透明な水の中を、小さな魚たちが群れをなして軽やかに泳いでいく。時折吹き抜ける爽やかな風が肌を撫で、穏やかな時間が静かに流れていく。
けれど――その「静寂」が長くなればなるほど、私の頭の奥で嫌な雑音が湧き上がってくる。
「あ……ぅ……」
「どうしたの、あおいちゃん? 大丈夫だよ、ほら」
異変に気づいた彼が、優しく私を引き寄せて肩を抱いてくれる。
自分でも身体がガタガタと震えているのが分かった。
小川を優雅に泳ぐ小魚を目で追っていく。
その視線が、対岸の草むらに留まった。
鬱蒼と茂る草の陰に、大きな蜘蛛が巣を張り巡らせている。
そこへ、一匹の小さな羽虫が捕まり、羽をバタつかせた。
必死に逃げようと暴れる虫に、蜘蛛はゆっくりと、着実に間合いを詰め――一気に飛びかかると、白い糸で身動きが取れないようがんじがらめに縛り上げていく。
――あ。あの時と、いっしょだ。
『助けて!……誰か! 助けっ……!』
私、なにも悪いことなんてしていないのに。
白い部屋。冷たいベッド。手首と足首をきつくベルトで縛られて、動けないように拘束された感触。
『あおいちゃん、落ち着いて。大丈夫。今は暴れちゃダメだよ』
あの時も、男の子が優しい声をかけてくれていた。
けれど、その瞳は今にも泣き出しそうなほど悲しそうに揺れていた。
拒絶の恐怖で、身体の震えが一段と大きくなる。
「やだ……やだ……っ」
あの日々に戻るのは……あそこに戻されるのは、もう嫌……!
「あおいちゃん、落ち着いて。大丈夫だから」
「やだ! やだやだやだやだ!!」
ポツリ。
冷たい一滴が、私の足元を濡らす。
なんで……? さっきまであんなに晴れていたのに……。
きっと……私が悪い子だから……。
「やだ……やだっ……!」
その時だった。
「……え……?」
視界を覆い尽くすような、大きな黒い影。
「どう……して……」
真っ白なドレスの中央に、銀色に光るナイフが深く突き刺さっていた。
「ごめん!」
悲痛な叫びとともに、彼が握るナイフが胸の奥深くへと突き立てられる。
「どう……して……っ」
やがて雨は容赦なく激しさを増し、溢れ出た血が、大切な純白のレースを見る見るうちに真っ赤に染め上げていく。
「ごめん――」
彼は歯を喰いしばり、ナイフに全体重をかけてさらに押し込んできた。
「……かず……ま……」
遠のく意識の中で、私は最後の力を振り絞り、彼の名前を呼んだ。
「っ……!」
息を飲んだ彼の目から、大粒の涙が溢れ落ちるのが見えた。
……ううん、それは涙ではなくて、ただの雨だったのかもしれなかったけれど――。
◇◇◇
「あおいちゃん……っ、やっと僕の名前を……」
力なく倒れ込んだ彼女の華奢な身体を引き寄せ、僕はありったけの力を込めて抱きしめた。
冷たくなっていく彼女の体温を感じながら、真っ赤に染まった髪を撫でる。
「大丈夫。今回はまたダメだったかもしれないけど……次こそは、必ず」
そう。
トラウマに怯え、壊れてしまった君を殺して、やり直す。
これは、僕とあおいが本当の幸せを手に入れるための、始まりの物語なんだから。




