第二話:仮面の裏側
目覚めると、私はいつものお花畑で横たわっていた。
「……あおいちゃん、あおいちゃん」
身体を優しく揺さぶられて、まぶたを開ける。目の前には、心配そうにこちらを覗き込む男の子の顔があった。
なんだろう……。胸の奥のほうに、冷たくて不快なモヤモヤが重く残っている。
「またそんな顔で僕を見つめて。まだ僕の名前、覚えられない?」
私がきょとんとしたまま見つめ返すと、彼は仕方ないなぁというように頭を掻き、困ったように笑ってみせた。
「かずまだよ。かずま」
「……かずま……」
「そう。いい加減覚えてほしいんだけどな。毎日毎日、こうやって会ってるんだからさ」
毎日会っている、と言われると、そんな気もするし、まったく違う気もする。頭の中にもやがかかったようで、何も思い出せない。
「きっと、まだ人が多いところは駄目なんだね。……無理させちゃってごめんね」
何のことを言っているんだろう。
人混みは苦手な気がするけれど、どうしてそんな話になるのかが分からない。
「あ……の……」
「あおいちゃんは、本当になんにも覚えてないんだから」
彼は愛おしそうに目を細めると、大きな手で私の頭を優しく撫でてくれた。
ポツリ。
冷たい一滴が、私の頬を叩く。
見上げると、青かったはずの空にあっという間に黒い雨雲が広がり、灰色の世界に変えていく。
ゴロゴロッ……。
地鳴りのような雷鳴。嫌な音が耳の奥を刺す。
手足の先から、ガタガタと震えが止まらなくなる。私のその様子を見たかずまは、迷わず私の手を強く握りしめた。
「ここじゃ濡れちゃうよ。風邪を引いたら大変だ。僕の部屋に行こうか」
「…………」
「心配しなくて大丈夫。あおいちゃんも、何度も来てる場所だから」
彼に手を引かれるまま、私はこじんまりとした小さな部屋へとお邪魔した。
記憶の引き出しには何もないはずなのに、彼の言う通り、不思議と肌に馴染む感覚がある。懐かしいような、それでいてどこか息苦しいような、妙な安心感。
「本が……いっぱい……」
「そうだね。でも、あおいちゃんはもう全部読んじゃったんだけどね」
部屋の壁際に並んだ本棚を、私は好奇心と違和感を抱えながら見回した。
「まあ、座って。温かい紅茶でも淹れるからさ」
彼は手際よくお湯を沸かし、紅茶のカップを並べた。どこからか取り出した小さな皿には、色彩豊かなお菓子が添えられている。
「おいしい……かも……」
甘く香ばしい紅茶の湯気と、口の中でホロホロと解けるマカロン。その甘みが喉を通るたびに、引き攣っていた心が少しずつ解けていくのが分かった。
「どう? ちょっとは落ち着いた?」
「うん……」
ズズッ、と静かに紅茶を啜り、ふと視線を上げると――天井の梁に、太く頑丈そうなロープがしっかりと結びつけられているのが目に入った。
「あれ……なに……?」
「ああ、これ? この家、洗濯物を干すベランダがないからさ。部屋干し用に張ってあるんだよ」
「かずまくんは……なんでもできるんだね……」
「そんなことないよ。元々はあおいちゃんに色々と教えてもらったんだから」
「私……なにもできないから……」
「あおいちゃんが何もできないなら、僕が全部やってあげる。……ね、それで問題ないでしょ?」
彼はそう言って、柔らかく微笑んだ。
その笑顔はどこまでも温かくて、胸の奥がキュッと小さく痛む。
けれど――それと同時に、胸の底から真っ黒な罪悪感がフツフツと湧き上がってきた。
こんなに優しくしてくれるのに。私を大切にしてくれるのに。
私は何も覚えていない。何も返せない。役立たずで、ただの荷物でしかない。
「ううん……私なんて……」
私なんて、いない方がいい
「あおいちゃん?」
何もできない。役に立たない。何も覚えていられない。
「私なんて……っ!」
頭の中の声が、自分の記憶を削り取るようにガンガンと響き渡る。息がうまく吸えない。心臓が嫌なリズムで跳ね上がる。パニックの波が頭を飲み込んでいく。
「私なんて……死んじゃえばいいんだ……っ!」
『ガシャンッ!!』
激しい破壊音が狭い部屋に響き渡った。
彼の手から滑り落ちた陶器の皿が、床の上で粉々に砕け散っている。
ヒッ、と短い悲鳴が喉の奥で詰まった。
全身の毛穴が開き、冷や汗が一気に吹き出す。
な……に? 私、怒らせた? どうしよう、どうしよう――!
「死ぬ……? それはないよ、あおい……」
ゆっくりと振り向いた彼の顔から、さっきまでの「聖者」のような優しさが跡形もなく消え去っていた。
瞳の奥の光が完全に途絶え、ただ黒く澱んだ穴のように私を射抜いている。
「いや……嫌……嫌ぁ!!」
その表情の恐怖に耐えかねて、私は椅子を倒しながら立ち上がった。視界がグラグラと大きく揺れる。
「いやだ……嫌ぁ! た……助け――」
ドアに向かって足を踏み出した瞬間、背後から地鳴りのような足音が迫ってきた。速い。私の逃げるスピードなんて、最初から比べものにならない。
「ぐっ……!? えぅ……っ」
首元に、冷たくて硬いザラついた感触が、狂暴な力で巻きつく。
――ロープ。
ギチギチと皮膚が擦れる不快な音とともに、首が強く強く絞め上げられる。
「カハッ……が……っ、ふ……」
視界の端が急速に赤く染まり、次いで黒い斑点が広がっていく。酸素を求めて肺が引き攣るけれど、空気は一ミリも通らない。首骨がみしりと嫌な悲鳴を上げた。
「死にたい?」
耳元で聞こえる、ゾッとするほど穏やかで冷徹な囁き声。
「死にたいの?」
「ぐあ……っ……が……ッ」
爪を立てて首のロープを外そうとするけれど、指にはもう力が入らない。
視界が完全に闇に落ちる寸前、私の頬に、ポタリと温かい涙のようなものが落ちてきた気がした。




