第一話:崩れる世界の足音
「どう……して……」
真っ白なドレスの中央に、銀色に光るナイフが深く突き刺さっていた。
ぽつり、と彼女の頬に冷たい雨粒が滴り落ちる。やがて雨は容赦なく激しさを増し、彼女が大切にしていた純白のレースを、見る見るうちに真っ赤に染め上げていった。
「ごめん!」
悲痛な叫びが、雨音に混ざる。
「どう……して……」
「ごめん――」
視界が急速に黒く染まり、冷たい闇へと落ちていく。
◇◇◇
「ここは――」
気がつくと、私はいつものお花畑の真ん中に座っていた。
眠っていたのだろうか。それとも、長い夢を見ていたのだろうか。それすらも、よくわからない。
ただ、胸の奥のほうに、まだツンと冷たい刃を突き立てられているような、奇妙な違和感だけが残っている。不安になって自分のドレスを見下ろしてみたけれど、そこにはシミ一つない、お気に入りの真っ白なレースがふんわりと広がっているだけだった。
「――あおいちゃん」
私の名前を呼ぶ、優しくて、少し低い声。
びくっと肩を揺らして振り返ると、そこには男の子が立っていた。
彼は穏やかで、優しい微笑みを浮かべている。けれど、その瞳の奥が、ほんの少しだけ悲しそうに揺れているように見えた。
「どうしたの? そんなに震えて。また怖い夢でも見た?」
彼がゆっくりと近づき、私の前に膝をつく。
差し出された大きな、温かい手が、私の冷え切った頬をそっと包み込んだ。その手の温もりに触れた瞬間、さっきまで胸を支配していた正体不明の恐怖が、嘘のように溶けて消えていく。
「……誰……なの?」
私がぽつりと訊ねると、彼は頬に添えていた手を滑らせ、そのまま前のめりに派手な音を立ててずっこけた。
「……あのねぇ、あおいちゃん」
彼はよっこらしょと起き上がると、呆れたように、でも愛おしそうに眉を下げた。
「昨日も来てるし、毎日会ってるんだから、いい加減名前くらい覚えて欲しいなぁ」
そう言って、私の頭をポンポンと大きな手で優しく撫でる。
「かずま。かずまだよ?」
「……かずま……」
その名前が耳に届いた瞬間、頭の霧が少しだけ晴れたような不思議な感覚があった。だけど、それ以上のことははっきりと思い出せない。
「そう、かずま。今日は何か甘いものでも食べに行こうって、約束したでしょ?」
「あまいもの……甘いもの!」
そう言われると、そんな約束をした気がしてくるから不思議だ。
「なんでも食べていいからさ。機嫌直して。ね?」
「……なんでも?」
「そう、なんでも」
「じゃあ、イチゴが乗ってるのがいい……」
想像しただけで、さっきまで重かった胸が、風船みたいにふわりと軽くなるのを感じた。
「分かった。じゃあ特大のパフェがあるお店に行こうか。食べに行こう、あおいちゃん」
「……うん!」
◇◇◇
私は彼に手を引かれるまま、少しだけ人通りの多い街へと歩いていった。
すれ違う人たちの視線に少しだけ心臓がトゲトゲしたけれど、かずまの手が温かいから、なんとか歩くことができた。
通りから少し急な階段を登った場所に、彼の言うお洒落なカフェがあった。
注文を終えて席でそわそわと待っていると、目の前に運ばれてきたのは、これでもかというほど大きなイチゴが敷き詰められた、夢のようなパフェだった。
「わぁ……!」
私が思わず感嘆の声を漏らすと、彼はテーブルに頬杖をつきながら、私の顔をじっと見つめてニコリと微笑んだ。
その笑顔がとても優しくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「あれ……?」
ふと気がつくと、私の前にはパフェがあるのに、彼の手元には何も運ばれてきていない。
「……食べないの?」
「パフェは魅力的だけど、どうしようかな。じゃあ、僕はカウンターでアイスコーヒーでも頼んでこようかな。ちょっと待っててくれる? 先に食べてていいからね」
彼は席から立ち上がると、愛おしそうに私の頭をもう一度撫でて、店の奥にあるレジカウンターの方へと歩いていった。
「……んっ」
スプーンをイチゴとクリームに突き刺し、そっと口に運ぶ。
その瞬間、濃厚な甘みと爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、体中がとろけてしまいそうになるほど美味しかった。
「おいしぃ……あまい……」
イチゴは驚くほど大きくて、みずみずしい。嬉しくなって、テーブルの下で思わず足をパタパタとバタつかせてしまう。
「……あれ」
スプーンを動かしながら、ふと顔を上げる。彼の帰りが、少し遅い。お店の奥は、いつの間にかたくさんの人で混み合っているように見えた。どうしたんだろう――。
ふと、急に周りから雑音が聞こえだした。
ガヤガヤとした店内の話し声が、まるで耳元で直接囁かれているように、妙にハッキリと鼓膜を震わせる。
なんだろう……? 私の食べ方が、変だったのかな?
隣の席の人が、私の手元を見てクスクス笑っている気がした。
このドレスが、派手すぎるのかな……?
フリルやレースが、急に重苦しい足枷のように思えてくる。
もしかして……このパフェ、本当は私のじゃなかったのかな……。間違えて、誰かのものを食べちゃったの……?
一度膨らんだ不安は、泥水のように一気にあたまの中を浸食していく。
冷たい汗が背中を伝う。
助けを求めてレジの方を見るけれど、人の壁に阻まれて彼の姿は見えない。
男の子……
どこ、行ったの……?
周りの客の声が、キィキィと不快な金属音のように耳の中で大きく響きだすと、もうそれ以外は何も聞こえなくなった。
視界の端に映る他人の顔が、みんな私を嘲笑っているように歪んで見える。
「いや……いやいや……」
なんで……なんでみんな私を見るの?
私、何も悪いことしていないのに。
あの子は……私を連れてきてくれた、あの男の子はどこへ行ったの?
怖い、怖い、怖い。
「いやっ! いやぁ!」
私は堪えきれなくなって、勢いよく席を立つと、食べかけのパフェを置き去りにしてお店の外へと走りだした。
頭の中は周囲の人々の幻聴でいっぱいで、目の前の景色がぐにゃりと万華鏡のように歪みだす。
「助けて……助けて……!」
喉が張り裂けそうなほど恐怖しているのに、声が出ない。誰にも聞こえないような小さな喘ぎ声で、私はただ、あの温かい手を求めて求めた。
店を出て、あの少し急な階段に差し掛かった、その時だった。
私の無防備な背中に、ドンッ、と硬い衝撃が走った。
「あ――」
私の身体は、一瞬だけふわリと宙に舞い、
次の瞬間には、重力に引かれるままコンクリートの階段を激しく転がるように落ちていった。
痛い……。痛い、痛い……。
骨が軋む音と一緒に、視界が真っ暗に染まっていく。
遠のいていく意識の中で、私は消え入りそうな心で手を伸ばした。
どうして……。
あの男の子は、どこへ行ってしまったの……?




