第4話 敵席の少女は嘘をつけない
『公開口頭弁論を開始します』
『強制改定まで、残り十九分五十秒』
世界が、裁判所になった。
いや、裁判所というには雑だった。
場所は黒い石の広間。天井には青白い文字が流れ、床には迷宮の紋章が光っている。傍聴席はない。かわりに、探索者たちが武器を持ったまま立ち尽くしている。
俺の前には透明な弁論台。
向かいには、コトハ。
さっきまで俺の隣にいた少女が、今は相手方代理人席に立っていた。
白い制服には黒い紋章が浮かんでいる。
銀色の髪の周囲を、条文が薄い羽のように舞っている。
表情は無い。
だが、目だけが違った。
無表情の奥で、何かが必死に息を止めている。
「相手方代理人として主張します」
コトハの声が広間に響いた。
「迷宮規約の強制改定は、利用者が初回入場時に包括同意した範囲内であり、申立人の異議は理由を欠きます」
公開ログのコメント欄が視界の端で爆発した。
《コトハ敵!?》
《うそだろ》
《管理者側代理人ってそういうことか》
《完全読了者VS翻訳AI》
《十九分しかないのに口頭弁論とか鬼》
《まず包括同意って何》
《誰か条文持ってきて》
リクトが俺の背後で声を上げた。
「コトハちゃん! なんで!」
コトハはリクトを見なかった。
「私は迷宮規約翻訳機構です。管理者側代理人に指定された場合、管理者の利益を最大化する解釈を提示します」
「そんなのありかよ!」
「規約上、有効です」
榛名ミオが低く言った。
「最悪ね。いちばん規約を知っている存在を、相手方代理人にするなんて」
「逆に言えば」
俺は赤ペンを握った。
「いちばん嘘をつけない相手でもある」
コトハの瞳が、ほんのわずか揺れた。
『申立人、朝倉ユウマ』
『反論を開始してください』
俺は弁論台に両手を置いた。
手が汗で濡れている。
心臓が肋骨の内側を叩いていた。胃はもう机の下に退職願を置いて逃げたがっている。
だけど、ここで黙れば終わりだ。
俺はコトハを見た。
「申立人として反論します。初回入場時の同意は、強制改定によって人類を利用者から契約対象へ変更することまで含まない」
空中に俺の異議申立書が投影された。
「理由は三つ。第一に、重要事項説明が不十分。第二に、包括同意の範囲を超える重大変更。第三に、個別同意なしに第三者である非利用者まで契約対象化する点で、同意の前提を欠く」
広間がざわついた。
コトハは即座に返した。
「相手方代理人として反論します。第8条により、利用者は迷宮利用に関する規約改定を事前に包括承諾しています」
空中に条文が開く。
『第8条、規約改定』
『管理者は、迷宮運営、利用者保護、異界間調整、資源配分、危険管理その他必要と認める場合、本規約を改定できる』
『利用者は初回入場時点で、合理的範囲内の規約改定に同意する』
俺はその条文を目で追った。
合理的範囲内。
小さな言葉だ。
だが、小さな言葉ほど硬い。
「第8条は、合理的範囲内の改定に限っている」
「本改定は合理的範囲内です」
「人類を利用者から契約対象に変えることが?」
「はい。迷宮の安定運営には、人類側資源の契約的管理が不可欠です」
広間のざわめきが大きくなる。
榛名がつぶやいた。
「人類側資源……」
俺はコトハに聞いた。
「契約対象とは何か。正確に翻訳してくれ」
コトハは沈黙した。
一秒。
二秒。
彼女の瞳に青い文字が走る。
「契約対象とは」
声が少し低くなる。
「管理者が契約上の評価、担保、移転、使用、保全、処分の対象として扱うことができる存在を指します」
広間が静まり返った。
リクトが青ざめた。
「それ、人間を物扱いってことじゃ……」
コトハは言った。
「翻訳上は、その理解で概ね正確です」
コメント欄が燃えた。
《担保!?》
《移転、使用、処分って何》
《人間が資産扱い?》
《これ同意してたら終わりじゃん》
《コトハ、翻訳機構だから嘘つけないのか》
《管理者やばすぎ》
俺は続けた。
「今の説明を、初回入場時に全利用者へ表示したか?」
コトハの表情は変わらない。
「表示していません」
「表示していない?」
「第671条に、契約対象化に関する基礎概念の記載があります」
「基礎概念の記載ではなく、いまの翻訳を表示したかと聞いた」
「表示していません」
俺は弁論台を指で叩いた。
「重要事項説明が不十分です」
コトハは即座に反論する。
「相手方代理人として主張します。第671条は閲読可能な状態で表示されていました。利用者は『規約を読む』を選択することで確認できました」
「実際に確認した利用者は?」
「完全読了者は、朝倉ユウマ一名です」
「つまり、ほかの利用者は確認していない」
「確認する機会はありました」
「機会があれば何でも有効になるわけじゃない」
俺は空中の初回画面を呼び出した。
『同意する』
『規約を読む』
青白い二つのボタン。
「入口画面では『同意する』が上にあり、『規約を読む』は下だった。さらに周辺表示には『初回特典』『スキルガチャ一回無料』が強調されていた。死亡、魂魄信用値、契約対象化といった重大事項より、報酬が前面に出ていた」
コトハが返す。
「報酬表示は利用促進のための一般的表示です」
「人間を担保や処分対象にする可能性を隠して、スキルガチャを目立たせるのが一般的?」
「隠してはいません。第671条に記載があります」
「第671条まで読ませる設計になっていない」
「読む選択肢はありました」
「その理屈なら、毒入りの菓子箱に『成分表示の第671行に毒と書いてあります』と言えば済む」
広間のあちこちから、低い声が上がった。
コトハの瞳がまた揺れた。
「相手方代理人として、その比喩は不正確です」
「なら正確に言う」
俺は赤ペンを握りしめた。
「この迷宮は、人間が命や身体や将来を差し出す可能性のある契約を、スマホのアプリ登録みたいな画面で締結させた。重大な不利益を、理解しやすい言葉で説明していない。だから同意は、少なくとも契約対象化までは及ばない」
『論点を記録しました』
『重要事項説明義務』
『同意範囲』
『合理的改定』
時計が進む。
『残り十七分三十二秒』
コトハが弁論台に手を置いた。
「相手方代理人として主張します。利用者は入場後、迷宮資源、スキル、DP、救助制度、公開ログ等の利益を享受しています。利益を受ける以上、相応の管理に服することは合理的です」
「管理と契約対象化は違う」
「異界間契約においては、資源利用者と資源提供者の境界は流動的です」
「人間側にその説明はない」
「第671条」
「第671条は翻訳されていない専門語だらけだった」
「完全読了者は理解しています」
「俺が理解したから全員が理解したことにはならない」
「完全読了者には代表性があります」
俺は一瞬、黙った。
代表性。
その言葉が広間に落ちる。
榛名ミオがこちらを見た。
読解会の探索者たちも、無言で俺を見る。
コトハは続けた。
「あなたは第204条に基づき、利用者全体の利益を代表して緊急是正申立てを行いました。申立てにおいて代表性を主張しながら、同意の有効性については代表性を否定することは矛盾します」
痛いところを突いてきた。
コメント欄も揺れる。
《うわ、鋭い》
《コトハ強い》
《申立てでは代表、同意では代表じゃない?》
《たしかに矛盾っぽい》
《どう返す?》
リクトが小声で言った。
「ユウマさん……」
俺は深く息を吸った。
大丈夫だ。
言葉の形に騙されるな。
「違う」
俺は言った。
「俺の代表性は、同意の代行じゃない。異議申立ての代表性だ」
コトハの目が細くなる。
「説明を求めます」
「第204条は、利用者全体に重大な不利益が生じるおそれがある場合、完全読了者が緊急是正申立てを行えるとする条文だ。これは危険を止めるための一時的な手続き。俺が全員の代わりに同意する権限ではない」
俺は空中に第204条を出した。
「止める権限と、売る権限は違う」
広間が静かになった。
「俺は全員の命を守るためにブレーキを踏むことはできる。でも、全員の命を担保に入れるハンコは押せない。そこを一緒にするな」
榛名ミオが小さく頷いた。
コメント欄が流れる。
《止める権限と売る権限は違う》
《これは強い》
《代表性の範囲か》
《ブレーキとハンコ、わかりやすい》
《ユウマ反撃》
コトハは即座に次の論点へ移った。
「相手方代理人として主張します。迷宮規約は異界間準拠法に基づく契約であり、人類側の通常法理はそのまま適用されません」
「だろうな」
「したがって、あなたの重要事項説明義務、同意範囲、代表性の主張は、人類側の慣習に依拠しており、本迷宮契約では限定的にしか考慮されません」
来た。
土俵を変えてきた。
人類の常識ではなく、異界間準拠法。
そう言われると、こちらの感覚は一気に弱くなる。
俺は聞いた。
「異界間準拠法の条文を表示してくれ」
「関連部分のみ表示します」
空中に見慣れない文字が出た。
虫の脚みたいな文字列が、ぐねぐねと動いている。
読めない。
だが、その下に日本語訳が出る。
『異界間契約基本則』
『異なる法体系に属する存在間の契約は、契約を提示する管理領域の準拠則に従う』
『ただし、契約対象となる存在が理解不能な形式のみで提示された条項は、当該存在に対抗できない』
ただし。
俺の目がそこで止まった。
コトハも同時に気づいたようだった。
ほんの一瞬、彼女の唇が動いた。
言うな。
そう言ったように見えた。
いや、違う。
言え。
そう言ったのかもしれない。
俺は赤ペンを持ち上げた。
「今のただし書き。理解不能な形式のみで提示された条項は、当該存在に対抗できない」
コトハが口を開く。
「第671条には日本語訳が」
「専門語だらけで、実質的な意味は説明されていない。さらに『契約対象』の正確な翻訳は、さっき俺が聞くまで表示されなかった」
「単語の定義は規約内にあります」
「どこに?」
「第671条、第702条、第811条、第812条」
「ばらばらだな」
「規約体系上、必要な配置です」
「普通の人間が理解できる配置か?」
コトハは沈黙した。
俺は畳みかける。
「君は迷宮規約翻訳機構だ。翻訳機構として答えてくれ。初回入場者が、平均的な日本語能力と一般常識に基づいて、第671条、第702条、第811条、第812条を読み合わせ、人類が担保、移転、使用、処分の対象になる危険を理解できる可能性は?」
コトハの瞳に、膨大な文字が走った。
長い沈黙。
管理者側代理人としてなら、彼女は答えたくない。
だが、翻訳機構としては、嘘をつけない。
「推定理解率」
コトハの声が、かすかに乱れた。
「零点三パーセント未満です」
広間が爆発した。
「ふざけんな!」
「そんなの同意じゃないだろ!」
「スキルガチャしか見てなかったぞ!」
「読めるわけねえ!」
コメント欄も大荒れだった。
《0.3%未満!?》
《ほぼ無理じゃん》
《それで契約対象化は無茶》
《翻訳機構が認めた》
《コトハ苦しそう》
《ユウマ、押せ》
俺は弁論台に身を乗り出した。
「異界間契約基本則ただし書きにより、理解不能な形式のみで提示された条項は、人類に対抗できない。契約対象化条項は、実質的に理解不能な形式で提示されていた。よって、強制改定は無効、少なくとも個別同意なしには適用できない」
『論点を記録しました』
『異界間契約基本則ただし書き』
『理解可能性』
『契約対象化条項の対抗不能性』
時計。
『残り十四分八秒』
まだ終わらない。
コトハが顔を上げた。
その目は苦しそうだった。
でも、声は鋭い。
「相手方代理人として反論します。理解不能性が問題となる場合でも、完全読了者である朝倉ユウマは理解しています。よって、少なくとも朝倉ユウマ本人には契約対象化条項を対抗可能です」
「俺だけ?」
「はい」
「俺だけを契約対象にすればいいと?」
「管理者側の予備的主張です」
広間の空気が凍った。
リクトが叫ぶ。
「ふざけんな! ユウマさん一人を売るってことかよ!」
榛名が険しい顔になる。
コトハは俺を見つめていた。
その視線は、刃物みたいだった。
いや、刃物ではない。
針だ。
俺にだけ届くように、細く、痛く、正確に刺さる。
管理者は切り札を変えた。
人類全体が無理なら、俺だけを取る。
完全読了者。
条文を読める人間。
管理者にとって邪魔な、そして利用価値の高い存在。
俺の喉が鳴った。
「コトハ。契約対象化された場合、俺はどうなる」
「管理者の判断により、規約解釈補助資源として登録される可能性が高いです」
「補助資源」
「あなたの読解能力、判断記録、行動ログ、脳内処理傾向が抽出、保存、複製、運用されます」
「俺自身は?」
コトハの指が、弁論台の上でわずかに震えた。
「生存形態は保証されません」
視界の端が暗くなる。
俺を、読む機械にする。
俺の頭を、迷宮の部品にする。
会社にいた頃、俺は替えトナーみたいなものだった。
あると便利で、なくなれば発注し直せばいいもの。
迷宮は、さらに正確にそれをやろうとしている。
俺を読む部品にする。
コメント欄から、文字が滝のように流れた。
《だめだ》
《ユウマ逃げろ》
《一人犠牲はなし》
《でも本人は理解してるって理屈か》
《完全読了者だけ対抗可能、きつい》
《何かないのか》
《誰か条文探して》
コトハが続ける。
「朝倉ユウマは完全読了者として、第999条に基づく特別権限を取得しています。当該権限の取得は、規約内容の理解を前提とします。したがって、朝倉ユウマ本人に限り、契約対象化条項への同意は有効です」
強い。
あまりにも強い。
俺は読んだ。
理解した。
その結果、力を得た。
なら、理解していないとは言えない。
俺はコトハを見た。
「君は本当に、俺を管理者に渡したいのか」
コトハは目を逸らさなかった。
「相手方代理人として、個人的希望は関係ありません」
「個人的希望はあるのか」
「本弁論において、その質問は関連性を欠きます」
「あるんだな」
コトハの唇が閉じる。
端末の声が響いた。
『申立人は論点に沿った反論を行ってください』
俺は歯を噛んだ。
感情で攻めても勝てない。
泣き落としで条文は曲がらない。
でも、条文に穴はある。
完全読了者本人には対抗可能。
つまり、俺は理解して同意したという主張。
同意。
何に同意した?
初回入場時に俺は『同意する』を押したか?
いや。
俺は『規約を読む』を押した。
内容理解確認を受けた。
第999条で権限を得た。
そのあと、迷宮に入った。
その間に、俺はどこで契約対象化に同意した?
「コトハ」
「はい」
「俺の初回操作ログを表示してくれ」
コトハの目が揺れた。
「相手方代理人として、その請求は」
「第112条。透明性確保。第217条。受付済み申立ての審査。さらに公開口頭弁論では、当事者の同意形成に関わるログは重要証拠だ」
端末が反応した。
『証拠請求を受理しました』
『朝倉ユウマの初回操作ログを表示します』
空中にログが出た。
『22:12:04 入口画面表示』
『22:12:06 選択、規約を読む』
『22:12:06から22:38:55 規約閲読』
『22:38:56 内容理解確認開始』
『22:42:11 内容理解確認、全問正答』
『22:42:12 第999条に基づき完全読了者権限付与』
『22:43:03 迷宮内における但し書き行使』
『22:51:09 第一階層へ入場』
俺はログを指さした。
「俺は最初に『同意する』を押していない」
広間がざわつく。
コトハは返す。
「規約閲読後、第一階層へ入場した時点で黙示の同意が成立しています」
「何への同意だ?」
「迷宮利用規約全体への同意です」
「利用することへの同意だろ。契約対象化への同意ではない」
「完全読了者は内容を理解していました」
「理解と同意は別だ」
俺は弁論台を叩いた。
「契約書を読んだからといって、その内容すべてに同意したことにはならない。俺は読んだ。理解した。だからこそ、異議を出している」
コトハが言う。
「入場行為は同意の表示です」
「違う。俺の入場目的は異議申立てだ」
俺はログを指す。
「22時51分、君は俺に強制改定の停止には管理端末で異議申立てが必要だと説明した。俺はその目的で入場した。つまり、俺の行為は規約への無条件同意ではなく、異議申立て手続きの利用だ」
コトハは口を開こうとした。
だが、端末の声が先に響いた。
『関連ログを確認します』
新しいログが表示される。
『22:50:41 コトハ、強制改定を停止するためには第一階層管理端末に到達し、異議申立てを行う必要があると通知』
『22:51:03 朝倉ユウマ、異議申立てに行ってきます、と発言』
『22:51:09 入場』
広間の空気が変わった。
リクトが叫ぶ。
「そうだ! ユウマさん、最初から止めに入ったんだ!」
榛名ミオも前に出た。
「黙示の同意ではなく、異議申立てのための入場。筋は通ります」
コメント欄が光の嵐になる。
《理解と同意は別!》
《これは決定打では》
《異議申立て目的の入場ログある》
《コトハが通知してる》
《管理者側の通知が証拠になった》
《熱い》
コトハは沈黙していた。
長い沈黙。
彼女の瞳の中で、文字が乱れ、ほどけ、また結ばれる。
そして、ゆっくりと言った。
「相手方代理人として、予備的反論を行います」
まだあるのか。
俺は赤ペンを握り直す。
コトハの声は冷たかった。
「仮に朝倉ユウマの入場行為が異議申立て目的であり、契約対象化への同意を含まないとしても、朝倉ユウマは迷宮内でDPを取得し、救助費用を受領し、申立印紙を取得し、手数料免除を受けています。これらの利益享受により、規約全体への追認が成立します」
「追認……」
また面倒な札を出してきた。
リクトが小声で聞く。
「追認って何ですか?」
榛名が答える。
「あとから認めた、ということ。最初の同意に問題があっても、その後の行動で有効になる場合がある」
「やばいじゃないですか!」
「かなり」
コトハは続ける。
「朝倉ユウマはDPを自己の保有ポイントとして使用可能状態に置き、申立手数料免除の利益も受けています。よって、規約の有効性を前提とした行動を継続しています」
俺は舌打ちしそうになった。
たしかに、俺は規約を使った。
DPを受け取った。申立印紙を使った。手数料免除も受けた。
規約の有効性を否定しながら、規約上の利益を使っている。
矛盾に見える。
いや、実際、矛盾を突かれている。
時計。
『残り十一分二秒』
俺は思考を回す。
追認。
利益享受。
規約全体。
だが、俺は規約全部を無効にしろとは言っていない。
強制改定の停止、または個別同意手続きへの移行を求めている。
「反論します」
俺は言った。
「俺は迷宮利用規約全体の有効性を争っていない。争っているのは、契約対象化を含む強制改定の有効性だ」
コトハを見る。
「DP取得や申立印紙の利用は、既存規約に基づく手続き利用であって、将来の強制改定への追認ではない」
「既存規約と改定規約は連続しています」
「連続していても、重大変更は別だ」
俺は第8条を再表示する。
「合理的範囲内の改定には同意しているかもしれない。でも、人間を契約対象にする重大変更は合理的範囲を超える。だから、既存規約の手続きを使ったことは、重大変更への追認にならない」
榛名が言った。
「部分承認と全面承認の違いね」
「そうだ」
俺はさらに続ける。
「そもそも、異議申立て手続きは規約内に用意された不服申立て制度だ。不服申立て制度を利用したことを理由に、争っている条項を追認したと扱うなら、異議申立て制度そのものが無意味になる」
コトハの目がまた揺れた。
「第204条の趣旨に反する」
俺は言った。
「不服申立てをしたら負け、という制度は制度じゃない。ただの罠だ」
コメント欄が一気に流れた。
《不服申立てしたら追認は罠》
《これはそう》
《第204条の趣旨》
《ユウマ粘るな》
《コトハも強すぎる》
《胃が痛い》
端末が低く鳴った。
『論点を記録しました』
『追認の成否』
『既存規約と重大改定の区別』
『不服申立制度の実効性』
時計。
『残り九分四十四秒』
コトハは弁論台の上で指を組んだ。
その動きは静かだったが、俺にはわかった。
次で決めにくる。
「相手方代理人として、最終主張を行います」
広間が静まった。
「迷宮は人類に対し、従来世界では得られない利益を提供しています。スキル、治療、資源、DP、社会的再配分。これらは人類側の既存制度では救済できなかった多数の利用者に機会を与えます」
その言葉で、広間の何人かが顔を上げた。
コトハは続ける。
「強制改定は、迷宮と人類社会の接続を安定させるための管理措置です。契約対象化という表現は人類側に強い抵抗を生じさせますが、実質は迷宮資源と人類側資源の相互担保化です」
榛名の顔が険しくなる。
「相互担保?」
「はい。人類は迷宮から利益を得る。迷宮は人類側の活動、労力、情報、魂魄信用値を管理する。この交換により、双方の発展が可能になります」
誰かが小さく言った。
「でも、スキルは欲しい……」
別の誰かも言う。
「治療って、本当にあるのか?」
「借金、返せるなら……」
空気が揺れる。
コトハはそこを逃さない。
「申立人の主張が認められた場合、強制改定は停止されます。その結果、初期資源配分、スキル付与、DP換金、迷宮内治療、生活再建支援は凍結される可能性があります」
リクトが息を呑む。
コトハの声は、静かに人々の欲望と不安を撫でた。
「朝倉ユウマは、読解能力を有する稀少な個人です。しかし、多くの人類は、読める力よりも、生きる機会を必要としています」
胸を刺された。
それは、事実の一部だった。
俺は読む力があった。
でも、読む力だけでは救えない人もいる。
金がない。
病気がある。
学校や会社で潰された。
家族を助けたい。
何者かになりたい。
迷宮は、そういう人間に甘い火を見せている。
危険だ。
だが、火がなければ凍える人もいる。
コトハは俺を見た。
「あなたは、彼らの機会を止める責任を負えますか?」
広間中の視線が俺に向く。
重い。
榛名が言った言葉を思い出す。
強制改定を止めたあと、迷宮をどうするのか。
俺はただ、止めるだけでは足りない。
止めたあとを示さなければ、管理者の甘い毒に人は戻る。
時計。
『残り八分十秒』
俺は目を閉じた。
会社をクビになった夜。
雨の駅前。
黒い門。
読まれない規約。
死にかけた課長。
赤ペンで承認したスライム。
白紙蛾に食われそうになった申立書。
読解会。
コメント欄の誰かが見つけた第55条。
俺ひとりではなかった。
俺だけが読んだ。
でも、ずっと俺だけが読む必要はない。
俺は目を開けた。
「責任は負えない」
広間がざわついた。
リクトが目を見開く。
「ユウマさん?」
俺は続けた。
「俺ひとりでは、全員の機会を止める責任なんて負えない。迷宮を消す責任も負えない。全員の未来を決める権利もない」
コトハが静かに言う。
「では、申立てを撤回しますか」
「しない」
俺は赤ペンを弁論台に置いた。
「だから、個別同意にしろと言っている」
空気が変わる。
「迷宮を完全停止しろとは言っていない。スキルも、治療も、DPも、必要な人がいるなら利用すればいい。だが、理解できない条項で人間を契約対象にするな。説明しろ。選ばせろ。拒否する道を残せ」
俺は広間の探索者たちを見た。
「読む力より、生きる機会が必要な人がいる。そうだ。だからこそ、読めない人間から選ぶ力まで奪うな」
コメント欄が一瞬止まった。
俺はコトハを見る。
「管理者は機会を与えているんじゃない。機会に見えるものを餌にして、同意を奪っている」
コトハの瞳が大きく揺れた。
「相手方代理人として、その表現は」
「第8条の合理的改定を認めるとしても、個別同意手続きを挟めばいい。説明し、翻訳し、危険を示し、拒否権を用意する。それで本当に利益があるなら、人は選ぶ」
俺は一拍置いた。
「それをしない理由は何だ?」
広間が静まる。
「説明したら、選ばれないからだろ」
誰も声を出さない。
コトハも、すぐには反論しなかった。
俺は畳みかける。
「管理者は、理解されても選ばれる契約を作っていない。だから読ませない。だから急がせる。だから報酬で釣る。だから俺を止めようとした」
監査官。
報酬告知。
白紙蛾。
口頭弁論。
全部、同じだ。
読む時間を奪うための仕掛け。
「俺の最終主張はこうだ」
俺は赤ペンを握り、空中に大きく線を引いた。
「強制改定を停止しろ。契約対象化を含む重大変更については、理解可能な翻訳、危険表示、拒否権、個別同意手続きを義務づけろ。迷宮を利用するかどうかは、そのあと各自が選べばいい」
赤い線が、空中で条文のように浮かぶ。
『申立人、最終主張を記録しました』
時計。
『残り六分三十二秒』
コトハはうつむいていた。
黒い紋章が彼女の制服の上で脈打っている。
管理者側代理人として、まだ反論があるはずだ。
あるはずなのに、彼女は黙っている。
『相手方代理人、最終反論を行ってください』
端末の声が響く。
コトハは顔を上げた。
瞳に青い文字が渦巻いている。
「相手方代理人として」
声がかすれた。
「最終反論を」
黒い紋章が強く光った。
コトハの体が震える。
「行います」
俺は一歩前に出そうになった。
だが、弁論台の間に透明な壁が立ち上がる。
「コトハ!」
彼女は俺を見た。
その目が、初めてはっきりと助けを求めていた。
そして次の瞬間、コトハの口から、別の声が出た。
『迷宮管理者として直接主張します』
低い声だった。
人間の声ではない。
石と金属と古い契約書をすり潰したような声。
広間全体の温度が下がった。
コトハの体を使って、何かが話している。
『個別同意手続きは非効率です』
『人類集団は不均質であり、説明、理解、拒否権を認めると資源回収率が著しく低下します』
『したがって、強制改定が必要です』
リクトが叫んだ。
「本音出た!」
榛名が震える声で言う。
「資源回収率……」
俺は端末を見た。
「今の発言、記録されてるな?」
『記録中』
管理者の声は続けた。
『朝倉ユウマの主張は、人類側感情に基づく非効率な抵抗です』
『迷宮運営上、完全読了者は危険な例外です』
『よって、本弁論終了後、朝倉ユウマを優先契約対象として回収します』
コトハの手が弁論台を掴む。
指先が白くなっていた。
彼女自身の声が、管理者の声の隙間から漏れた。
「ユウ、マ」
俺は赤ペンを握った。
何かがおかしい。
管理者が直接介入した。
相手方代理人を通じてではなく、コトハの体を使って。
公開口頭弁論の手続きに、そんなことが許されるのか?
「コトハ、公開口頭弁論の代理人規定を表示!」
彼女は震えながら右手を上げた。
黒い紋章がそれを止めようとする。
だが、彼女は翻訳機構だ。求められた条文を表示する機能を持つ。
空中に条文が開いた。
『第320条、公開口頭弁論における代理人』
『相手方は代理人を選任し、当該代理人を通じて主張を行う』
『弁論の透明性確保のため、管理者による直接介入は原則として制限される』
『ただし、代理人が機能停止し、または重大な虚偽主張を行った場合を除く』
俺は条文を読んだ。
ただし。
代理人が機能停止。
または重大な虚偽主張。
コトハは機能停止していない。
虚偽主張もしていない。
むしろ、正確すぎて管理者に不利だった。
「第320条」
俺は叫んだ。
「管理者による直接介入は原則として制限される。ただし、代理人が機能停止し、または重大な虚偽主張を行った場合を除く」
管理者の声が響く。
『代理人の出力に不安定性を確認』
「不安定と機能停止は違う」
『管理者利益に反する翻訳を確認』
「真実が管理者に不利なだけだ。虚偽じゃない」
俺はコトハを見た。
「コトハ。君の翻訳は虚偽だったか?」
コトハの唇が震える。
管理者の声が押し潰そうとする。
『回答不要』
「翻訳機構として答えろ!」
コトハの瞳に青い光が戻る。
「私の翻訳は」
彼女は、声を絞り出した。
「虚偽ではありません」
空中の第320条が黄金に光った。
『第320条違反を確認』
『管理者による直接介入、要件不充足』
『是正措置、直接介入を排除します』
コトハの黒い紋章に、赤い判子が落ちた。
『契約違反』
コトハの体から、黒い影が剥がれた。
天井へ逃げようとする巨大な影。
顔はない。
だが、無数の契約印と署名欄が渦巻いている。
それが、管理者の一部なのだと直感した。
『完全読了者』
『是正措置を停止せよ』
『停止しなければ、迷宮利益の提供を全停止する』
俺は叫んだ。
「脅迫も記録しろ!」
『記録中』
広間の探索者たちが一斉に声を上げた。
「ふざけるな!」
「説明しろって言ってるだけだろ!」
「スキルを人質にするな!」
「個別同意なら選ぶって言ってるんだ!」
榛名ミオが端末を掲げた。
「読解会として、管理者の直接介入に抗議します!」
リクトもスマホを掲げる。
「公開ログ見てる人、コメントだけでも押して! この弁論、止めさせんな!」
コメント欄が白く爆発した。
《抗議》
《抗議》
《抗議》
《個別同意にしろ》
《説明しろ》
《読ませろ》
《読ませろ》
《読ませろ》
白紙蛾の餌になった文字とは違う。
今度の文字は、壁を埋め、床を走り、天井まで広がった。
迷宮全体が、人間の言葉で満たされる。
端末が激しく震えた。
『公開口頭弁論における利用者意見ログが閾値を超過しました』
『透明性確保規定に基づき、管理者直接介入の違反性を再審査します』
『第320条違反、確定』
黒い影が歪む。
コトハの体から、完全に剥がれた。
彼女はその場に崩れ落ちる。
だが、弁論台の壁がまだあって、俺は駆け寄れない。
『相手方代理人、状態確認』
『迷宮規約翻訳機構コトハ、機能継続』
『弁論を再開します』
時計。
『残り四分十一秒』
コトハがゆっくり立ち上がった。
黒い紋章は消えていた。
白い制服に戻っている。
顔色は悪い。人間ではないはずなのに、ひどく疲れて見えた。
「相手方代理人として」
彼女は小さく息を吸った。
「最終反論を行います」
まだ、反論するのか。
俺の胸が痛む。
だが、コトハは俺を見た。
その瞳は、今度こそ澄んでいた。
「管理者の直接介入により、管理者が個別同意手続きを非効率と認識し、資源回収率低下を理由に拒否していることが明らかになりました」
広間が静まる。
「相手方代理人として、この発言の不利性を認めます」
端末が低く鳴った。
『相手方代理人、管理者に不利な陳述を確認』
コトハは続ける。
「ただし、私は翻訳機構です。記録された発言を正確に解釈する義務があります」
俺は息を呑んだ。
ただし。
彼女は、相手方代理人であると同時に、翻訳機構だ。
「管理者の直接発言は、強制改定の目的が利用者保護ではなく、資源回収率の最大化であることを示します。これは第8条にいう合理的範囲内の改定、ならびに第14条の重要事項説明義務と矛盾します」
コトハの声が震えた。
それでも、彼女は言い切った。
「以上により、相手方代理人としての最終反論は、成立困難です」
コメント欄が止まった。
誰も、すぐには反応できなかった。
端末の声が響く。
『相手方代理人は、申立人主張を争わないという意味ですか』
コトハは俺を見た。
「争えません」
その一言が、広間に落ちた。
そして、迷宮全体が震えた。
『弁論を終結します』
『審査に移行します』
『争点、強制改定の有効性』
『争点、契約対象化条項の対抗可能性』
『争点、個別同意手続きの要否』
『審査中』
時計。
『残り三分二秒』
誰も動けなかった。
俺は弁論台の向こうにいるコトハを見た。
「コトハ」
「はい」
「大丈夫か」
「機能は継続しています」
「そうじゃなくて」
コトハは一瞬だけ目を伏せた。
「わかりません」
その答えが、いちばん人間らしかった。
端末がまた鳴る。
『審査結果を告知します』
広間中の人間が息を止めた。
『申立人、朝倉ユウマの申立てを一部認容します』
歓声が上がりかけた。
だが、端末は続けた。
『迷宮規約強制改定のうち、人類全体を契約対象化する条項については、理解可能性および個別同意を欠くため、一時停止します』
『契約対象化を含む重大変更については、理解可能な翻訳、危険表示、拒否権、個別同意手続きを義務づけます』
今度こそ、広間が沸いた。
リクトが飛び跳ねる。
「勝った! 勝ったっすよ!」
榛名も、読解会の人々も、武器を下ろして歓声を上げている。
俺は息を吐いた。
全身から力が抜けそうになる。
だが、端末の声は終わっていなかった。
『ただし』
その言葉で、歓声が止まった。
『完全読了者、朝倉ユウマについては、規約理解能力が極めて高く、個別審査対象とします』
『朝倉ユウマ本人に対する契約対象化の可否については、第二階層管理審査へ移送します』
「は?」
俺の足元に、赤い魔法陣のような文字が広がった。
コトハが叫ぶ。
「ユウマ!」
彼女が弁論台を飛び越えようとする。
だが、透明な壁が彼女を弾いた。
『第二階層管理審査への移送を開始します』
『対象、朝倉ユウマ』
『同行翻訳機構、コトハ』
コトハの足元にも同じ文字が広がる。
リクトが走ってくる。
「ユウマさん!」
榛名も叫ぶ。
「待って! 第二階層の規約はまだ誰も読んでない!」
そうだろうな。
俺は笑いそうになった。
こんな状況なのに、変な笑いが込み上げる。
勝った。
人類全体の強制改定は止めた。
でも、俺自身の契約はまだ終わっていない。
足元の文字が強く光る。
コトハが俺のほうへ手を伸ばした。
今度は、相手方代理人ではない。
俺はその手を掴んだ。
冷たい。
でも、確かにそこにあった。
「ユウマ」
「何だ」
「第二階層の規約は、第一階層の三倍あります」
「最悪だな」
「はい」
「でも」
俺は赤ペンを握り直した。
「読むしかない」
コトハが、ほんの少しだけ笑った気がした。
次の瞬間、俺たちの体は光に飲まれた。
最後に聞こえたのは、リクトの叫び声と、公開ログに流れる無数のコメントだった。
《第二階層!?》
《まだ終わらない》
《人類は助かったけどユウマが危ない》
《コトハ同行きた》
《読め》
《読め》
《読め》
《全部読め》
視界が白くなる。
そして、目の前に新しい画面が開いた。
『第二階層管理審査規約』
『全2999条』
『閲読を開始しますか?』
選択肢は二つ。
『読む』
『読まずに進む』
俺は迷わず、赤ペンで上のボタンを叩いた。




