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第3話 報酬を読まない奴も死ぬ

『管理者より全利用者へ告知』

『完全読了者、朝倉ユウマの保有する異議申立書を管理端末到達前に回収した利用者には、特別報酬を付与します』

『特別報酬、上級スキル抽選券三枚』

『追加報酬、10000DP』


 その通知が空中に出た瞬間、迷宮の空気が変わった。


 さっきまで黒い石の通路に響いていたのは、俺たち三人の足音だけだった。

 今は違う。


 遠くから、走る音がする。


 ひとつではない。

 十でもない。


 ばらばらの靴音。剣の鞘が鳴る音。誰かの笑い声。息を切らした叫び声。

 迷宮の奥で、欲望が群れになって走り出した音だった。


「一万DPって、そんなにすごいんですか?」


 リクトが引きつった声で聞いた。


「さっきの救助費用が三百DPだった」


「三十三人分の救助費用!」


「換算が嫌だな」


「上級スキル抽選券三枚もやばいっす。さっき公開ログのコメントで、初回ガチャでもらえるのは普通スキル一個って言ってました。上級って、たぶん人生変わります」


「人生が変わる報酬で、人類の人生を売りにきたわけか」


 俺は異議申立書を胸に抱え直した。


 紙一枚。

 受付済の判子が押された、ただの紙。


 だがこの紙は今、上級スキル抽選券三枚と一万DPより価値がある。

 少なくとも、管理者はそう判断した。


 つまり、これは効く。


 俺の足が少し震えた。


 怖いからではない。

 いや、怖い。めちゃくちゃ怖い。

 だが、それだけではなかった。


 会社では、俺が書いた指摘はいつも邪魔者扱いだった。

 細かい、遅い、空気を読め。

 契約書に赤を入れても、会議では「まあ今回はこのまま進めよう」で終わった。


 でも今は違う。


 俺の書いた異議申立書を、世界が奪いにきている。


 価値があるものだけが、奪われる。


「ユウマ」


 コトハが言った。


「残り四十分二十秒です。現在の速度なら、管理端末まで二十一分で到達できます」


「追っ手を振り切れれば、だろ」


「はい」


 コトハの横顔は相変わらず無表情だった。

 だが、瞳の中の青い文字はいつもより速く流れている。


「全利用者への報酬告知後、周辺利用者の移動方向が変化しました。十七名がこちらへ接近中です」


「十七名……」


 リクトが小さく呻いた。


「俺、最初の配信で『初動が命』とか言って入ったんすよ」


「そうだな」


「命の意味が違いました」


「次からは言葉を大事にしろ」


「はい……」


 通路の先から、最初の集団が見えた。


 五人組。

 全員、武器を持っている。


 先頭の男は、両手に短剣を持っていた。

 後ろには弓を構えた女、槍を持った学生風の男、金属バットを持ったサラリーマン、そしてスマホを掲げた中年女性。


 最後の人だけ武器が情報発信だった。現代の迷宮は殺意の持ち物検査が雑だ。


「いた!」


 短剣の男が叫んだ。


「完全読了者だ!」


「紙を取れ!」


「破いてもいいのか?」


「回収って書いてあったから、たぶん紙さえ持ってけばいい!」


「上級スキル三枚!」


 五人が走ってくる。


 俺は息を吸った。


「止まれ!」


 声が通路に響いた。


 自分でも驚くほど大きな声だった。


 五人の足が一瞬だけ鈍る。


「その報酬告知、全文を読んだか?」


 短剣の男が眉をひそめた。


「は?」


「読んだかって聞いてる」


「報酬は一万DPと上級スキル抽選券三枚だろ!」


「それは概要だ」


 俺は空中を指さした。


「コトハ。管理者告知の詳細条項を表示できるか」


「可能です」


 空中に、さっきの告知が開いた。

 ただし、今度は折りたたまれていた細かい文章まで展開される。


『特別回収報酬に関する臨時規定』

『第1項、本告知に基づき異議申立書の回収を試みる利用者は、当該時点より臨時回収業務受託者として扱われる』

『第2項、臨時回収業務受託者は、回収対象物および申立人の生命、身体、財産に対し、必要かつ相当な注意義務を負う』

『第3項、回収対象物の毀損、改ざん、紛失、または申立人の生命身体に対する過度な侵害が発生した場合、報酬請求権は失効する』

『第4項、前項の場合、管理者は違約罰を請求できる』


 五人の顔色が変わった。


 俺は続けた。


「お前たちは報酬を受けるために俺の紙を奪おうとしている。その時点で、臨時回収業務受託者だ。つまり、管理者側の仕事を請け負った扱いになる」


「だから何だよ!」


 短剣の男が叫ぶ。


「申立人である俺の身体や申立書を傷つけたら、報酬は消える。さらに違約罰が来る」


「はったりだ!」


「そう思うなら、同意して攻撃すればいい」


 俺は彼らを見た。


「読まない奴から死ぬって、もう見ただろ」


 五人の足が止まった。


 コメント欄が視界の端で流れる。


《うわ、報酬にも規約あるのか》

《管理者えぐい》

《受託者扱いは草》

《草じゃない、怖い》

《報酬だけ見て契約したら終わるやつ》

《やっぱ読むの大事だわ》


 金属バットのサラリーマンが、青い顔で言った。


「ま、待て。違約罰っていくらだ?」


 コトハが淡々と答えた。


「算定式によりますが、申立書を毀損した場合、最低一万二千DPです」


「報酬より高いじゃねえか!」


「はい」


「はいじゃねえ!」


 槍の学生が後ずさる。


「俺、やめる」


「俺も。上級スキルは欲しいけど、借金スタートは嫌だ」


 中年女性がスマホを俺に向けたまま言った。


「じゃあ、あなたを傷つけずに紙だけ取ればいいのね?」


「紙を奪う過程で俺の身体に過度な侵害があれば失効する。さらに、緊急是正申立てに対する妨害行為として第211条の対象にもなる」


「面倒くさい男ね」


「俺も自分でそう思う」


 短剣の男だけが歯を剥いた。


「うるせえ。俺はもう普通の生活に戻れねえんだよ。スキルがあれば変われるんだ」


 彼は短剣を構え直した。


「ちょっと切るくらいなら過度じゃねえだろ!」


 その瞬間、彼の頭上に赤い表示が出た。


『警告』

『臨時回収業務受託者による申立人への傷害予告を確認』

『報酬請求権、停止審査中』


「は?」


 短剣の男が空中表示を見上げた。


『注意義務違反のおそれ』

『次回違反時、報酬請求権を失効します』


 リクトがぽつりと言った。


「言っただけで警告出るんすね」


「業務中の傷害予告だからな」


「業務中の傷害予告って言葉、人生で初めて聞きました」


 短剣の男は震えた。

 怒りか、恐怖か、どちらかわからない。


 だが、彼は短剣を下ろした。


「くそ……!」


 五人は通路の端へ避けた。


 俺は走り出す。


 リクトもついてくる。

 コトハは俺の横を滑るように移動する。


 すれ違いざま、中年女性が小声で言った。


「ねえ、完全読了者さん」


「何ですか」


「その告知の全文、みんなに見えるように出しておきなさいよ。じゃないと、読めない人がまた来るわ」


 俺は一瞬だけ彼女を見た。


 スマホを掲げている。

 配信しているらしい。だが目は真剣だった。


「コトハ。告知全文を公開ログに固定できるか」


「可能です。第112条、注意喚起目的の公開に該当します」


「やってくれ」


『管理者告知の詳細条項を公開ログに固定します』


 コメント欄がまた揺れた。


《固定きた》

《ありがとう》

《これ読まないで突っ込む奴まだいるぞ》

《読め、マジで読め》

《上級スキルに釣られて違約罰は地獄》

《完全読了者、敵にも説明してて偉い》

《いや説明しないと自分が危ないから合理的》


 合理的。

 そうだ。俺は優しいから説明しているわけではない。

 敵が規約を知らずに突っ込んでくると、こちらも危ないからだ。


 読め。

 読んで、理解して、それでも来るなら来い。


 そのほうが話が早い。


 通路を曲がると、床の模様が変わった。

 黒い石の上に、細い白線が何本も引かれている。まるで陸上競技場のレーンだ。


「コトハ、ここは?」


「移送通路です。管理端末へ向かう物品搬送に使用されます」


「安全か?」


「通常は安全です」


「通常は、か」


 俺は足を止めた。


 通路の奥に、一人の男が立っていた。


 さっきのような素人の集団ではない。


 背が高く、細い。

 黒いフード付きのコートを着て、手には武器を持っていない。

 そのかわり、指先で銀色のコインを弾いていた。


 年齢は二十代後半くらい。

 顔には笑みがあるが、目が笑っていない。


「やあ。完全読了者」


 男は穏やかに言った。


「朝倉ユウマさん、だったね」


「誰だ」


「鬼頭ジュン。会社員ではない。探索者でも、まだない。強いて言えば、機会を待っていた人間かな」


「通してくれ。急いでる」


「もちろん。僕は暴力が嫌いだ」


 鬼頭は両手を広げた。


「君の紙を破るつもりもない。君を殴るつもりもない。臨時回収業務受託者にもなっていない。報酬告知にはまだ応じていない」


 俺の眉が動いた。


 こいつ、読んでいる。


「でも、君が勝手に転んで、勝手に紙を落とすことはあるかもしれない」


 鬼頭がコインを弾いた。


 銀色のコインが床に落ちる。


 ちん、と軽い音。


 次の瞬間、足元の白線が光った。


「ユウマ!」


 コトハの声が飛ぶ。


 床が滑った。


 いや、床そのものが高速で後ろへ流れた。

 足を取られる。体が宙へ浮く。異議申立書が手から離れかける。


「うおっ!」


 リクトが俺の背中にぶつかった。

 二人まとめて転びそうになる。


 俺はとっさに紙を胸と腕の間に挟み、右手で壁の突起を掴んだ。


 指が痛い。

 爪が割れそうになる。


 鬼頭は笑った。


「おっと。大丈夫かい? 僕は何もしていないよ。床が滑っただけだ」


「コトハ、表示!」


『移送通路』

『状態、臨時高速搬送モード』

『起動者、鬼頭ジュン』

『対象、通路全体』


「通路全体を動かすスキルか」


「初回スキルだよ」


 鬼頭がコインをつまむ。


「名前は〈搬送起動〉。物品移送用の床を動かせる。便利だろう?」


「利用者を転倒させるのは危険だ」


「僕は床を動かしただけだ。君が立っていたのは君の責任だろう?」


 こいつは、ただ報酬に釣られた人間ではない。

 条文の隙間を見ている。


 俺が使うのと同じように。


 ただし、使い方が逆だ。


「第211条は使えるか?」


 俺が聞くと、コトハが即答した。


「申立妨害の意図は推定可能ですが、鬼頭ジュンは現時点で報酬告知に応じておらず、申立書への直接干渉も未遂です。行使成功率は低いです」


「だろうな」


 床がまた動く。

 今度は横方向だ。


 俺は壁に肩をぶつけた。

 リクトが派手に転がる。


「痛ってえ!」


「リクト、紙には触るな!」


「触れないっす! 自分の人生にも触れてない感じっす!」


「意味はわからんが耐えろ!」


 鬼頭は通路の先で涼しい顔をしている。


「完全読了者。君はすごい。規約を読む力がある。でも、ひとつ勘違いしている」


「何を」


「契約は、正しい人間の味方じゃない。読める人間の味方だ」


 鬼頭が笑った。


「僕も読むよ」


 床がさらに速くなる。

 壁に掴まっている指が限界に近い。


 このままでは、異議申立書を守れても進めない。

 残り時間が溶けていく。


「コトハ。移送通路の規定」


「表示します」


 空中に条文が開く。

 床の揺れで文字がぶれる。目で追うのがきつい。


『第54条、移送通路の利用』

『移送通路は、物品、申請書類、管理補助存在その他の搬送に用いる』

『利用者は通路内の表示に従い、安全に留意しなければならない』

『ただし、管理者または起動者は、搬送モードを作動させる場合、事前に危険表示を行うものとする』


 危険表示。


 俺は床を見た。

 白線は光っている。だが、起動前に警告は出なかった。


「鬼頭」


 俺は壁にしがみついたまま言った。


「起動前の危険表示はどこだ?」


 鬼頭の笑みがわずかに止まった。


「何?」


「第54条。搬送モードを作動させる場合、起動者は事前に危険表示を行うものとする」


「それは管理者向けの規定だろう」


「条文には管理者または起動者とある。お前は起動者だ」


 鬼頭が舌打ちした。


「細かいな」


「それしか能がないんで」


 俺は赤ペンを口にくわえ、左手で壁を掴んだまま右手を上げた。


「第54条ただし書き。危険表示義務違反」


『但し書き行使を受理しました』

『起動者、鬼頭ジュン』

『違反内容、搬送モード作動前の危険表示不履行』

『是正措置、搬送モードを停止します』


 床の光が消えた。


 通路が止まる。


 俺はその場に膝をついた。

 指がじんじんする。額から汗が落ちた。


 リクトが床に仰向けになっている。


「地面が止まってる……地面ってありがたい……」


「立て」


「地面に感謝してからでいいですか」


「二秒だけな」


 鬼頭は肩をすくめた。


「やるね」


「もう一度起動するなら、危険表示を出せ」


「出したら?」


「俺たちは避ける」


「そうなるね」


 鬼頭は少しだけ笑った。


「今回は退くよ。君の読みは見られた」


「何が目的だ」


「言っただろう。機会を待っていた。世界が変わるなら、変わる側に立ちたい。君が世界を止める側なのか、それとも変える側なのか、見にきただけだ」


「迷惑な見学だな」


「見学にもリスクは必要さ」


 鬼頭の頭上に、赤い表示が出た。


『危険表示義務違反』

『違約罰、200DP』


 鬼頭は表示を見上げ、苦笑した。


「授業料としては安い」


 そして、通路の横道へ消えた。


 リクトが起き上がる。


「あの人、絶対また出ますよね」


「出るだろうな」


「味方ですか? 敵ですか?」


「読める奴は、どっちにもなる」


 コトハが言った。


「残り三十四分十秒です」


「急ぐぞ」


 俺たちは再び走った。


 息が上がる。

 足が重い。

 異議申立書を抱える腕がしびれてきた。


 だが、止まるわけにはいかない。


 公開ログのコメントは、もう完全に祭りになっていた。


《鬼頭ジュン、何者だ》

《敵だけど頭いい》

《危険表示義務違反は笑う》

《いや実際大事》

《地面に感謝するリクト好き》

《完全読了者、初回から対人戦やらされすぎ》

《管理者、性格悪すぎる》


 その中に、妙なコメントが混じった。


《申立書、保全写し作ったほうがよくない?》

《第55条に文書保全あるって誰か言ってた》

《紙食い系の敵が出る可能性ある》

《迷宮規約まとめwiki、今作ってる》

《第55条見て!》


「コトハ」


「はい」


「第55条を表示」


『第55条、申請書類の保全』

『受付済みの申請書類について、滅失、毀損、汚損、その他提出困難となるおそれがある場合、申立人は保全写しの作成を求めることができる』

『ただし、保全写しは原本と同一内容であり、かつ作成時点における申立人の意思が確認できる場合に限り、原本に準じて扱う』


 俺は走りながら目を見開いた。


「これ、使えるな」


「はい。ただし、保全写しの作成には申立人の意思表示と、内容確認が必要です」


「今できるか?」


「可能です」


 俺はリクトを見た。


「カメラは使えるか?」


「スマホなら生きてます!」


「この申立書を撮影してくれ。表、裏、受付印、署名欄。全部だ。ピンぼけしたら泣くぞ」


「人類の書類撮影、責任重すぎる!」


 リクトは走りながらスマホを構えた。

 俺は少し速度を落とし、異議申立書を開く。


 紙を走りながら撮影する。

 馬鹿みたいな作業だが、今はこれが命綱だ。


「ブレてる!」


「俺も揺れてる!」


「止まったら追いつかれる!」


「じゃあリクト、お前がうまくなれ!」


「要求が体育会系!」


 コトハが横から言った。


「私が画像安定補正を行います」


「できるのか!」


「公開ログの視認性向上機能です」


「最初から言ってください!」


「聞かれませんでした」


 リクトが叫ぶ。


「この子、AIあるあるの嫌なところ持ってる!」


 数秒後、空中に申立書の複写が浮かんだ。


『保全写し候補を作成しました』

『申立人の意思確認が必要です』


 俺は息を切らしながら言った。


「朝倉ユウマは、本申立書の滅失、毀損、汚損その他提出困難となるおそれに備え、第55条に基づき保全写しの作成を求める」


『意思確認』

『保全写しを作成しました』

『原本に準じる効力、仮付与』


 胸の奥が少し軽くなった。


 これで紙を失っても終わりではない。

 もちろん、原本があるに越したことはないが、最悪の一撃は避けられる。


 コメント欄が沸いた。


《保全写しきたああ》

《ナイス第55条》

《wiki班仕事した》

《リクト撮影係で初貢献》

《ユウマ一人じゃなくなってきたな》

《みんなで規約読むの熱い》


 みんなで規約を読む。


 変な言葉だ。


 だが、悪くない。


 誰も読まなかった利用規約を、今は何万人かわからない人間が読んでいる。

 コメント欄の向こうで、顔も知らない誰かが条文を探している。

 俺だけではない。


 読めば、戦える。


 その考えが浮かんだ瞬間、通路の灯りが消えた。


 完全な暗闇。


「うわっ!」


 リクトが俺にぶつかった。


「止まるな!」


「見えないっす!」


 黒い石の壁に、白い文字だけが浮かび上がる。


『文書保全を確認』

『管理者判断により、申立書の保全効力を検査します』


「検査?」


 コトハの声が硬くなる。


「警告。文書捕食性存在が接近しています」


「何だそれ」


「紙を食べる魔物です」


「出たよ、コメント欄の予言」


 暗闇の奥で、羽音がした。


 ぱた、ぱた、ぱた。


 小さい。

 だが数が多い。


 白い点が闇の中に浮かぶ。

 それは蛾だった。


 真っ白な蛾。

 羽に小さな文字がびっしりと書かれている。

 群れになって、こちらへ飛んでくる。


『白紙蛾』

『危険度、D』

『書類、紙片、記録媒体の文字情報を捕食する』

『配置区域、文書保管庫』

『現在位置、管理端末連絡路』

『警告、当該魔物は指定区域外にいます』


 指定区域外。


 だが、群れはすでに近い。

 俺の手元の異議申立書へ、白い羽が殺到する。


「第89条!」


 俺は叫んだ。


「指定区域外に出現した魔物の攻撃は規約違反として扱う!」


『但し書き行使を受理しました』

『対象、白紙蛾群』


 空中に条文が展開される。


 しかし、白紙蛾は止まらなかった。


 赤い判子が何匹かに落ちる。

 数匹が光になって消える。


 だが、群れは多すぎる。


「一括停止できないのか!」


「白紙蛾は群体ですが、個体ごとに違反処理が必要です」


「融通が利かない!」


「規約です」


 白紙蛾が申立書の端に触れた。


 じゅっ、という音。

 紙の端から、文字が一文字消えた。


 俺の血の気が引く。


 原本が食われる。


 保全写しはある。

 だが、原本が消えれば相手はまた何か言ってくる。

 仮付与。原本に準じる。

 その言葉には、まだ争う余地がある。


「リクト、上着!」


「はい!」


 リクトはすぐに自分のパーカーを脱いだ。

 俺は申立書を挟むように包む。


 白紙蛾がパーカーに群がる。

 布に書類の匂いが移っているのか、羽がばたばたと震える。


 コトハが言った。


「白紙蛾は文字情報に反応します。無地の布では長時間防げません」


「文字情報……」


 俺は周囲を見た。


 壁に浮かぶ条文。

 床に流れる表示。

 白紙蛾の羽の文字。

 迷宮は文字だらけだ。


 こいつらが文字を食うなら。


「餌をずらす」


 俺は赤ペンを握った。


「コトハ。公開ログのコメントをこの通路の壁に表示できるか」


「可能ですが、視認性が」


「大きく、全部だ。意味がある文章じゃなくていい。文字ならいい」


「了解しました」


 次の瞬間、通路の壁一面にコメントが流れた。


《ユウマ走れ》

《蛾きもい》

《第89条がんばれ》

《白紙蛾、文字食うの怖すぎ》

《リクトのパーカー犠牲》

《誰か第55条の続き読んで》

《胃痛系主人公、書類守れ》

《赤ペンニキ生きて》

《利用規約を読め》

《利用規約を読め》

《利用規約を読め》


 壁が文字の洪水になった。


 白紙蛾の群れが一斉に揺れる。


 申立書から、壁へ。


 文字の多いほうへ、白い群れが流れていく。


「効いた!」


 リクトが叫ぶ。


「コメント欄が餌になってる!」


「言い方」


「でも事実っす!」


 白紙蛾は壁のコメントを食いはじめた。

 文字が消え、また流れ、また食われる。


 奇妙な光景だった。

 迷宮の怪物が、人間たちのコメントを食べている。


 その間に、俺たちは走った。


 だが、すべての蛾が壁に向かったわけではない。

 数十匹がまだこちらを追ってくる。


 俺は足を止めずに叫ぶ。


「第89条、指定区域外出現! 違反処理を継続!」


『是正措置、順次適用』


 赤い判子が空中から落ちる。


 どん。

 どん。

 どん。


 白紙蛾が一匹ずつ消える。


 だが、最後の一匹が、俺の胸元へ飛び込んできた。


 パーカーの隙間。

 申立書の署名欄。


 白い羽が触れた。


「させるか!」


 俺は赤ペンを突き出した。


 ペン先が白紙蛾を貫く。

 羽に赤いインクが広がる。


 その瞬間、白紙蛾がぴたりと止まった。


『文字情報を検出』

『赤字修正記録』


 白紙蛾の羽に、俺の赤ペンの線が残っている。


 赤字。

 修正。

 校正。


 白紙蛾が震えた。


『捕食不能』

『当該文字情報は修正中です』


 俺は思わず目を見開いた。


「修正中の文字は食えないのか」


 コトハが答える。


「第63条により、修正中または確認中の書類は文書捕食対象から一時除外されます」


「それを先に」


「聞かれませんでした」


「お前、いつか議事録に泣かすぞ」


 俺は申立書を開き、署名欄の横に赤ペンで小さくチェックを入れた。


『修正中』

『文書捕食対象から一時除外』


 申立書全体が薄い赤い膜に包まれた。


 白紙蛾の群れが、こちらへの興味を失う。

 壁のコメントへ戻っていった。


 リクトが息を切らしながら言う。


「赤ペン、最強じゃないっすか」


「普通は書類に赤を入れると怒られる」


「この迷宮、前職より赤ペンに理解ありますね」


「前職と比べるな。迷宮に失礼だ」


 コトハが淡々と告げる。


「残り二十七分三秒。管理端末まで十二分です」


 俺たちは白紙蛾の群れを抜けた。


 暗闇の先に、赤い光が見える。


 管理端末。


 近い。


 だが、近づくほど通路は広くなっていった。

 最後の広間に出た瞬間、俺は足を止めた。


 広間には、すでに人がいた。


 十人。

 二十人。

 三十人以上。


 報酬目当ての探索者たちが、管理端末へ続く大扉の前に集まっていた。


 さっきの集団とは違う。

 彼らは告知全文を読んだのだろう。

 剣を抜いている者は少ない。だが、通路をふさぐように立っている。


 暴力ではなく、占拠。


 申立書を奪うのではなく、進ませない。


 中央にいる若い女が、一歩前へ出た。

 短く切った黒髪。鋭い目。手には分厚い規約表示を開いた端末を持っている。


「朝倉ユウマさん」


 女は言った。


「私は榛名ミオ。臨時読解会の代表です」


「読解会?」


「あなたの公開ログを見て、周辺の利用者で条文を共有しました。報酬を受けるにしても、規約を読まずに動くのは危険ですから」


 俺は警戒した。


 また、読める奴だ。


「そこを通してくれ。時間がない」


「通す前に、確認したいことがあります」


「今じゃないと駄目か」


「今でなければ意味がありません」


 榛名ミオは端末を掲げた。


「あなたの異議申立ては、本当に利用者全体の利益になるんですか?」


 広間が静かになった。


 リクトが声を荒げる。


「何言ってんだよ! 人類が契約対象になるんだぞ!」


「それは彼とコトハさんの説明です。管理者の強制改定が危険なのはわかります。でも、改定を止めた場合、初回スキル、迷宮資源、DP、治療技術、それらも失われる可能性がある」


 榛名は俺を見た。


「現実で詰んでいた人間にとって、迷宮はチャンスかもしれない。借金を返せる。病気を治せる。会社や学校で潰された人が、ここで変われるかもしれない。あなたは、それを止めようとしている」


 その言葉は、胸に刺さった。


 俺自身、会社をクビになった夜にこの迷宮へ来た。

 もし何も知らなければ、俺だって思ったかもしれない。


 ここなら変われる。

 スキルがあれば、見返せる。

 人生をやり直せる。


 報酬に走った人間たちを、簡単に笑えない。


 榛名は続ける。


「だから私たちは、あなたの申立書を読む権利を求めます。内容が納得できるなら通します。納得できないなら、管理端末への提出を一時差し止めます」


「差し止める権利はない」


「あります。第208条」


 空中に条文が開いた。


『第208条、共同利用者による確認請求』

『緊急是正申立てが利用者全体に重大な影響を及ぼす場合、共同利用者は申立内容の確認を求めることができる』

『ただし、当該確認請求は申立手続きの不当な遅延を目的としてはならない』


 榛名ミオは、俺がいつも使う言葉を使った。


「ただし、遅延目的ではありません。確認目的です」


 俺は歯を食いしばった。


 正しい。


 少なくとも、完全に間違ってはいない。


 管理者の言い分を鵜呑みにするのも危険だが、俺の言い分だけで全員を動かすのも危険だ。


 契約は、片方だけが得するためのものではない。


 さっき監査官に言った言葉が、自分に返ってきた。


 コトハが小さく告げる。


「残り二十四分四十秒です」


 申立書を読ませれば時間を失う。

 拒めば、榛名たちは通さない。

 第211条で妨害として排除することはできるかもしれない。だが、正当な確認請求にまで力を使えば、それは権限濫用になる。


 どうする。


 俺は申立書を見た。


 保全写し。

 公開ログ。

 コメント欄。

 読解会。


 ひとりで抱えるから、時間がかかる。


 なら。


「リクト」


「はい」


「保全写しを公開ログに出せるか」


「えっ、申立書を全部ですか?」


「個人情報部分は伏せる。俺の利用者番号と署名は黒塗り。本文と理由だけ公開する」


 コトハが言った。


「第112条および第55条に基づき、公益目的の部分公開は可能です。ただし、申立人本人の同意が必要です」


「同意する」


『異議申立書の一部公開を開始します』


 空中に、俺の申立書が大きく映し出された。


 広間にいる探索者たちが顔を上げる。

 公開ログのコメント欄も、一瞬だけ静かになった。


 俺は言った。


「読んでくれ」


 榛名ミオの目がわずかに開く。


「いいんですか」


「確認請求なんだろ。だったら読め。ただし、時間がない。三分だ」


「三分で読めと?」


「読解会なんだろ」


 榛名は少し笑った。


「いいでしょう」


 広間にいる人間たちが、申立書を読みはじめた。


 妙な光景だった。


 ついさっきまで俺から紙を奪おうとしていた利用者たちが、今は黙って文字を読んでいる。

 剣を持った男も、杖を持った女も、盾を抱えた学生も、配信者も、主婦らしき女性も。

 全員が空中の文章を読んでいる。


 迷宮の中で、集団読書会。


 敵意が、文字の前で少しだけ静かになる。


 榛名が読み終え、顔を上げた。


「あなたの申立ては、迷宮の完全停止を求めていないんですね」


「そうだ」


 俺は頷いた。


「強制改定の停止、または個別同意手続きへの移行を求めている。迷宮そのものを消せとは書いていない」


「利用者が正しく説明を受け、自分で選ぶべきだと」


「読んで、理解して、それでも入るなら本人の選択だ」


 榛名は周囲を見た。


「読解会としては、この申立てに反対しません」


 広間の空気が揺れた。


 中には不満そうな者もいる。

 だが、榛名は続けた。


「少なくとも、強制改定の停止は必要です。利用者が契約対象になる条項は危険すぎる」


 彼女は道を空けた。


「通ってください」


 俺は短く頭を下げた。


「助かる」


 リクトが小声で言う。


「ユウマさん、今のめっちゃ主人公でした」


「ただの文書公開だ」


「文書公開で道が開くの、ユウマさんくらいっすよ」


 俺たちは大扉へ向かった。


 そのとき、背後から榛名の声がした。


「朝倉さん」


 俺は振り返る。


「強制改定を止めたあと、迷宮をどうするのか。そこまで考えてください」


「俺が?」


「あなたはもう、ただの完全読了者じゃありません。みんながあなたの解釈を見ています」


 俺は返事ができなかった。


 背中に、見えない重みが乗った気がした。


 契約書を読むだけなら簡単だ。

 いや、簡単ではないが、責任は文章の範囲に収まる。


 だが、誰かの未来を止める。

 誰かの希望を変える。

 そこまで読まなければならないなら、俺の目は足りるのか。


 コトハが言った。


「残り二十一分十二秒です」


 考えるのは、あとだ。


 大扉の前に立つ。


 扉は黒い金属でできていた。

 表面には、巨大な印章が刻まれている。


『第一階層管理端末』

『申請書類提出口』


 ようやく着いた。


 俺は異議申立書を取り出した。

 赤い膜がまだ薄く光っている。

 白紙蛾に少しかじられた端が痛々しいが、本文は無事だ。


 提出口が開く。


 俺は紙を差し込もうとした。


 その瞬間、コトハが俺の腕を掴んだ。


 初めてだった。


 彼女の手は、冷たかった。


「待ってください」


「何だ」


「提出前確認があります」


「またか」


「はい。異議申立ての正式受理後、審査方式が決定されます」


「それは聞いてない」


「聞かれませんでした」


「その返し、今は本当にやめろ」


 俺は提出口の横に出た細かい文字を読んだ。


『緊急是正申立てが受理された場合、管理者は審査方式を選択する』

『書面審査、端末審査、公開口頭弁論、代理人対論、その他管理者が相当と認める方式』

『ただし、完全読了者による申立ての場合、透明性確保のため公開口頭弁論を原則とする』


 公開口頭弁論。


 嫌な予感がした。


「コトハ。公開口頭弁論って何をする」


「申立人と相手方代理人が、条文解釈および事実関係について争います」


「相手方代理人?」


「管理者側の代理人です」


 俺は申立書を見た。


 ここまで来て、まだ終わりではない。

 むしろ、ここからが本番。


 だが、提出しなければ強制改定は止まらない。


 俺は息を吸った。


「やるしかない」


 異議申立書を提出口に差し込んだ。


 紙が吸い込まれる。


 大扉の印章が黄金に光った。


『緊急是正申立書を受領しました』

『申立人、朝倉ユウマ』

『申立内容、迷宮規約強制改定の停止または個別同意手続きへの移行』

『受付済印、確認』

『申立印紙、確認』

『保全写し、確認』

『提出期限内到達、確認』


 広間に歓声が上がった。


 リクトが拳を突き上げる。


「やった!」


 榛名たち読解会も、ほっとしたように息を吐いている。


 俺も、一瞬だけ肩の力を抜いた。


 だが、端末の表示は終わらなかった。


『審査方式を決定します』

『本件は利用者全体への影響が極めて重大であるため、公開口頭弁論を実施します』

『制限時間、強制改定実施まで』

『残り二十ぷん四秒』


 俺の胃が縮んだ。


「二十分で弁論?」


 コトハが答えない。


 俺は彼女を見た。


 コトハの顔が、初めて少しだけこわばっていた。


『申立人側代理、朝倉ユウマ本人』

『相手方、迷宮管理者』

『相手方代理人を選定します』


 大扉の前に、銀色の光が集まる。


 コトハの体が、その光に包まれた。


「コトハ?」


 彼女は俺を見た。


 瞳の中で、青い文字が乱れている。


『相手方代理人、迷宮規約翻訳機構』

『個体名、コトハ』


 広間が静まり返った。


 リクトが呆然と呟く。


「え……?」


 コトハの白い制服に、黒い紋章が浮かび上がる。

 さっきまで俺の横にいた少女が、ゆっくりと大扉の向こう側へ移動した。


 俺と彼女の間に、透明な弁論台が二つ現れる。


 申立人席。

 相手方代理人席。


 コトハは相手方代理人席に立った。


 無表情に戻ろうとしている。

 でも、戻りきれていない。


「ユウマ」


 彼女は静かに言った。


「私は、管理者側代理人として、あなたの申立てを棄却する義務があります」


 喉が乾いた。


「拒否できないのか」


「できません。私は迷宮規約翻訳機構です。管理者の条文解釈を提示するために作られています」


「でも、ここまで俺を手伝った」


「はい」


「なら」


「それも、私の機能の範囲内でした」


 コトハは目を伏せた。


「しかし、弁論が開始された場合、私は相手方代理人として最善の反論を行います」


 空中に、巨大な時計が出た。


『公開口頭弁論を開始します』

『強制改定まで、残り十九分五十秒』


 広間中の公開ログが、自動的に拡大された。

 外の世界も見ている。

 迷宮内の利用者も見ている。

 読解会も、報酬目当ての探索者も、鬼頭ジュンも、たぶんどこかで見ている。


 そして俺の前には、コトハ。


 俺に条文を教え、道を示し、名前を呼んだ少女。


 彼女が今、俺の申立てを潰すために立っている。


 コトハは顔を上げた。


 銀色の髪が、条文の光を受けて冷たく輝く。


「相手方代理人として主張します」


 彼女の声は、もう管理者側の声だった。


「迷宮規約の強制改定は、利用者が初回入場時に包括同意した範囲内であり、申立人の異議は理由を欠きます」


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 俺は赤ペンを握った。


 手汗で滑る。

 心臓がうるさい。

 逃げたい。

 今すぐ逃げたい。


 でも、俺は読んだ。


 読んでしまった。


 知らなかったことにはできない。


「申立人、朝倉ユウマ」


 端末の声が響く。


「反論を開始してください」


 俺はコトハを見た。


「わかった」


 そして、世界でいちばん面倒な口喧嘩が始まった。

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