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第2話 異議申立てには印紙がいる

 黒い門をくぐった瞬間、雨の匂いが消えた。


 かわりに鼻へ入ってきたのは、石と鉄と、古い紙の匂いだった。


 俺は足を止めた。


 目の前には、巨大な地下通路が広がっている。

 壁も床も黒い石でできていて、ところどころに青白い文字が浮かんでいた。天井は高い。駅前から見えた門の大きさとは明らかに釣り合っていない。


 つまり、普通の空間ではない。


 まあ、さっき規約で狼を消した時点で、普通のほうが退職届を出している。


 背後を振り返ると、出口の門があった。

 だが、外の景色は見えない。雨の駅前ではなく、黒い鏡のような膜が揺れているだけだ。


「完全読了者、朝倉ユウマ」


 声がした。


 前を見ると、銀髪の少女が立っていた。


 コトハ。


 迷宮規約翻訳機構、と名乗った少女。

 外見は十代半ばくらい。銀色の髪は肩より少し長く、毛先が光の粒になってほどけている。白い制服のような服には、細かい文字が刺繍のように流れていた。


 その顔は無表情だが、完全に人形というわけでもない。


 こちらを観察する目つきに、妙な冷静さがある。

 人間を見ているというより、契約書の不備を見つけた法務部員の目だった。


「現在時刻、二十二時五十一分」


 コトハは淡々と言った。


「迷宮規約の強制改定まで、残り一時間八分五十九秒です」


「一時間ちょっとで、第一階層の管理端末まで行けってことか」


「はい」


「その管理端末はどこにある?」


 俺が聞くと、コトハは右手を上げた。


 空中に地図が開いた。

 黒い通路が迷路のように伸びている。その一番奥に、赤い点が点滅していた。


『第一階層管理端末』


 現在地からかなり遠い。


「徒歩でどれくらい?」


「最短経路で三十二分です」


「意外と間に合うな」


「ただし」


 出た。

 俺はもう、その言葉に反応する体になっていた。


「管理端末へのアクセスには、異議申立書、申立印紙、利用者本人の署名が必要です」


「……迷宮なのに?」


「迷宮ですが、契約型です」


「ダンジョン攻略に印紙がいるのか」


「はい」


 コトハはまばたきもせずに言った。


「異議申立てには印紙が必要です」


「そこは現実世界より現実的なんだな」


 俺は頭をかいた。


 足元に置いた段ボールは、駅前に残してきた。

 手にあるのは赤ペン一本だけ。会社で使っていた安物だ。先端に少しインクが固まっている。


 武器としては心細い。

 だが、これが俺の剣だと言われたら、少し納得してしまう。


「その異議申立書と印紙はどこに?」


「異議申立書は、第一階層受付窓口に設置されています」


「受付窓口」


「申立印紙は、未押印スライムから取得できます」


「未押印スライム」


「はい。第一階層に配置された低危険度魔物です。倒すと、一定確率で申立印紙を落とします」


「完全にゲームじゃないか」


「ゲームではありません」


 コトハは即答した。


「契約です」


「契約のほうが怖いんだよ」


 そのとき、通路の奥から悲鳴が聞こえた。


「うわああああ!」


 男の声。

 続いて、何かが跳ねる音。


 ぺたん。

 ぺたん。

 ぺたん。


 気の抜ける音なのに、近づいてくる速さは不気味だった。


 俺は赤ペンを握りしめた。


「コトハ。魔物か?」


「はい。未押印スライムです」


 通路の角から、半透明の塊が飛び出してきた。


 高さは六十センチくらい。

 丸い。ぷるぷるしている。体の中に、赤い判子のような核が浮かんでいる。


 そして、その前を一人の男が走っていた。


 さっき駅前で俺の肩を押した、派手な髪の配信者だ。

 自撮り棒は折れ、服は粘液まみれになっている。顔から余裕が消えていた。


「た、助けて! 誰か! これやばい! 酸、酸が!」


 未押印スライムが跳ねる。

 その体から飛び散った粘液が壁に当たり、じゅう、と音を立てて煙を上げた。


 酸か。


 チュートリアルの敵にしては、なかなか書類より悪質だ。


 配信者は俺を見るなり、目を見開いた。


「あっ、規約の人! 助けて! さっき魔物消してたじゃん!」


「攻撃したのか?」


「え?」


「お前から攻撃したのかって聞いてる」


「いや、だってスライムだし! 最初の敵なら倒せると思って蹴っただけで!」


 俺は空中に表示を呼び出した。


『第一階層、チュートリアル保護区域』

『出現魔物、未押印スライム』

『危険度、E』

『配置区域、適正』

『対象利用者、攻撃行為を開始済み』

『チュートリアル保護、解除』


 なるほど。


 第23条。

 自分から攻撃したら、保護は解除される。


 つまり、このスライムは規約違反をしていない。

 正しい場所で、正しい危険度で、攻撃を受けたから反撃している。


 俺は試しに言った。


「第八十九条。指定区域外に」


『該当なし』

『当該魔物は指定区域内に配置されています』

『但し書き行使は却下されました』


 空中の文字がぱしんと弾けた。


 胸の奥が冷える。


 万能ではない。


 当たり前だ。

 契約は魔法の杖ではない。条文に根拠がなければ使えない。


 配信者が叫んだ。


「ちょ、何で倒せないの!?」


「相手が違反してない」


「してるでしょ! 俺を襲ってる!」


「先に蹴ったんだろ」


「スライム相手に正論やめて!」


 未押印スライムが、配信者へ跳びかかった。


 俺はとっさに横へ走り、配信者の腕を引いた。

 粘液が床に落ちる。黒い石が白く煙を上げた。


「あっつ!」


 飛沫が俺の手の甲をかすめた。

 皮膚がひりつく。痛い。


 現実だ。

 痛みがある。

 ゲームではない。契約だ。契約のくせに酸を飛ばす。


「コトハ、こいつを倒す方法は?」


「通常攻撃、または迷宮アイテムの使用が推奨されます」


「通常攻撃って、俺が?」


「はい」


「赤ペンで?」


「はい」


「この迷宮、労災下りるか?」


「第17条により、原則として下りません」


「最悪だな!」


 未押印スライムがまた跳ねた。

 俺は配信者を突き飛ばし、自分も床へ転がる。


 赤ペンが床に落ちかけた。慌てて拾う。


 スライムの体内で、赤い核が揺れている。


 判子みたいな核。

 未押印スライム。

 倒すと印紙を落とす。


 名前が露骨すぎる。

 なら、弱点も契約書っぽいのではないか。


「コトハ。未押印スライムの説明」


 空中に小さな文章が出た。


『未押印スライム』

『第一階層に配置される低危険度魔物』

『押印済み状態になると活動を停止する』

『ただし、押印には利用者の明確な意思表示が必要』


「押印済みになると停止」


 俺は赤ペンを見た。


 押印。

 判子。

 意思表示。


「なるほど」


「何がなるほどなの!?」


 配信者が涙目で叫ぶ。


「たぶん、殴る必要はない」


「じゃあどうすんの!」


「承認する」


「会話の流れが怖い!」


 未押印スライムが大きく膨らんだ。

 次は広範囲に粘液を飛ばす気だ。


 俺は一歩前へ出た。


 怖い。

 足が震える。

 俺は戦闘訓練なんて受けていない。運動部ですらなかった。階段を三階分上がると息が切れる、一般的な書類読み人間だ。


 でも、これは敵を斬る戦いではない。


 手続きだ。


 なら、俺の領域だ。


「未押印スライム」


 俺は赤ペンのキャップを外した。


「お前の活動停止条件を確認した。押印済み状態になると活動を停止する。押印には利用者の明確な意思表示が必要」


 スライムが跳ねる。


 俺は赤ペンを振り上げた。


「承認する」


 スライムの核に、赤ペンの先端を突き立てた。


 ぐにゃり。


 気持ち悪い感触が手に伝わる。

 酸で指先が焼けるように痛む。

 だが、赤ペンの先端が核に触れた瞬間、空中に赤い丸印が浮かんだ。


『押印意思を確認』

『未押印スライム、押印済み状態へ移行します』


 スライムの体がぴたりと止まった。


 ぷるぷると震えたあと、ぺしゃん、と床に広がる。

 その中心から、金色の小さな札が一枚落ちた。


『申立印紙を取得しました』


 俺は息を吐いた。


 手の甲が痛い。

 赤ペンの先も少し溶けている。


 でも、生きている。


「すご……」


 配信者が床に座り込んだまま、俺を見上げていた。


「あんた、マジで何者?」


「元契約社員」


「元契約社員って、スライムを承認できる職業なの?」


「少なくとも、俺の前職よりは役に立ってる」


 そのとき、空中に別の表示が開いた。


『公益性のある規約違反是正および初回権限行使の記録として、完全読了者の行動ログを公開します』

『迷宮公開ログ、配信開始』


「は?」


 俺の視界の端に、半透明のコメント欄が出た。


《え、今の何?》

《規約の人だ》

《赤ペンでスライム承認したww》

《いや笑えん、普通に酸やばい》

《完全読了者って称号か?》

《この人さっき駅前で狼止めた人だよね》

《契約社員最強説》

《読まない奴から死ぬ、ガチだった》


 俺はコトハを見た。


「おい。配信って何だ」


「迷宮公開ログです」


「聞き方を変える。なぜ俺が配信されている」


「第112条により、完全読了者による規約違反の是正は、他利用者への注意喚起および迷宮運営の透明性確保のため、公開される場合があります」


「場合があります、の範囲が広すぎる」


「はい」


「はいじゃない」


 配信者が急に立ち上がった。


「え、公開ログ!? 俺も映ってる!? 待って、髪ぐちゃぐちゃなんだけど!」


「命より髪を気にするのか」


「配信者なんで!」


 こいつはこいつで、すごい職業倫理を持っている。


 俺は申立印紙を拾った。

 薄い金属板のような札で、表面には小さく『異議申立用』と刻まれている。


「コトハ。異議申立書は受付窓口だな」


「はい。この通路を直進し、二つ目の分岐を右です」


「行くぞ」


「了解しました」


 俺は歩き出した。


 配信者が慌ててついてくる。


「ちょ、俺も!」


「外へ戻ればいいだろ」


「戻れないんだよ! 門のところで、退場には初回説明の完了が必要って出て!」


「読んだか?」


「読んでない!」


「だろうな」


 コメント欄がざわつく。


《読んでない!じゃないんよ》

《この配信者、生存フラグ薄すぎ》

《規約の人、保護者になってて草》

《赤ペンニキ》

《但し書きニキ》

《略称どっちだ》


「名前は?」


 俺は歩きながら聞いた。


「え?」


「お前の名前」


「あ、俺、三並リクト。配信ではリクチャって名前で」


「三並。次から何か出ても蹴るな」


「はい」


「拾ったものを勝手に飲むな」


「飲まないよ!」


「宝箱を見つけても開ける前に表示を読め」


「はい!」


「同意ボタンは押すな」


「それはもう骨身にしみた!」


 コトハが俺の横を滑るように歩く。

 足音はしない。厳密には歩いているというより、地面から数センチ浮いている。


「完全読了者」


「ユウマでいい」


「では、ユウマ」


 少しだけ間があった。

 コトハの声は相変わらず平坦だが、名前を呼ぶときだけ、文字を確かめるような響きがあった。


「注意事項があります」


「何だ」


「但し書き行使権限は、違反の是正、損害回避、権利保全に限られます。通常戦闘、略奪、報酬の水増し、個人的な復讐には使用できません」


「さっきの課長への救助費用は?」


「規約上、正当な請求です」


「そうか」


「ただし、過大請求はできません」


「する気はない」


 少し考えてから、俺は付け加えた。


「たぶん」


「その回答は記録されます」


「やめろ」


 リクトが後ろで小さく笑った。

 元気が戻ってきたらしい。


 通路を進むと、空間が開けた。


 そこは、地下迷宮というより、古い役所のロビーだった。


 黒い石の床。

 高い天井。

 壁際には木製のカウンターが並んでいる。

 天井からは青白い番号札が浮かび、中央には案内板が立っていた。


『第一階層受付窓口』

『各種申請、届出、異議申立てはこちら』


 カウンターの奥には誰もいない。

 かわりに、羽ペンを持った骸骨が三体、椅子に座っていた。


 骸骨。


 書類仕事をさせられている骸骨。


 嫌な親近感がある。


『受付番号を発行してください』


 案内板に表示が出た。


 横にある機械から、紙の札が一枚出てくる。


 俺はそれを取った。


『受付番号、496番』


 ロビーの番号表示を見る。


『現在受付中、12番』


「終わった」


 俺は思わず言った。


「終わったんですか!?」


 リクトが青ざめる。


「役所で496番は終わりだ。世界が滅ぶより先に昼休みが来る」


「何その絶望の種類!」


 コトハが案内板を見た。


「通常受付の場合、現在の進行速度では約六時間四十二分後に呼出予定です」


「強制改定まで一時間切ってるんだよな?」


「はい。残り五十八分三秒です」


「じゃあ通常受付は無理だ」


 俺はロビーを見渡した。


 誰もいない。

 利用者はいない。

 骸骨の受付係は動かない。番号だけが律儀に進んでいく。いや、進んでいない。12番のままだ。


 案内板に細かい文字がある。


『お急ぎの方は優先窓口をご利用ください』

『ただし、優先窓口は、緊急性、公益性、または管理者側の瑕疵が認められる場合に限ります』


 俺は口元を押さえた。


 ただし。


 今日いちばん信頼できる言葉だ。


「コトハ。強制改定で人類が契約対象になることは、緊急性があるか?」


「あります」


「公益性は?」


「極めて高いと推定されます」


「管理者側の瑕疵は?」


「現時点では未確定です」


「でも、利用者に対して十分な説明なく、同意ボタンを先に出している。規約は長大で、死亡や魂魄信用値に関する重大条項が含まれる。さらに、強制改定の通知が完全読了者にしか届いていない」


 俺は案内板を見た。


「利用者への重要事項説明義務違反の疑いがある」


 コトハの瞳に、青い文字が流れた。


「論理構成を確認しました」


「使えるか?」


「第14条、重要事項の説明。第112条、公開ログ。第204条、緊急是正申立て。以上を根拠に、優先窓口申請が可能です」


「よし」


 俺は案内板に向き直った。


「第204条。利用者全体に重大な不利益が生じるおそれがあり、かつ通常手続きでは回復不能な損害が発生する場合、当該利用者または完全読了者は緊急是正申立てを行うことができる」


 空中に条文が開く。


『第204条の行使を受理しました』

『緊急性、確認』

『公益性、確認』

『優先窓口の利用を許可します』


 ロビーの奥で、閉まっていたシャッターが上がった。


『優先窓口』


 そのカウンターに、骸骨の受付係がひとり座っていた。


 他の骸骨よりも立派な眼鏡をかけている。

 眼鏡をかけた骸骨というのは不思議だ。目がないのに、目つきが悪い。


 俺たちが近づくと、骸骨が口を開いた。


「申請内容を述べよ」


 声は乾いた紙を破る音に似ていた。


「迷宮規約の強制改定に対する異議申立てです」


「異議申立書を提出せよ」


「用紙はどこに?」


 骸骨はカウンターの下から一枚の紙を出した。


『異議申立書』


 見た瞬間、頭痛がした。


 記入欄が細かい。

 申立人氏名、利用者番号、対象条項、異議の理由、損害内容、希望する是正措置、添付資料、署名欄。


 様式が重い。


 これを一時間以内に迷宮の奥へ持っていく。

 ファンタジーというより、行政手続きバトルだ。


「記入には黒色または青色の筆記具を用いよ」


 骸骨が言った。


 俺は赤ペンを見た。


「赤しかない」


「赤色での記入は受理されない」


「厳しい」


 リクトが慌ててポケットを探った。


「俺、ペンあるかも!」


 彼は折れた自撮り棒、ワイヤレスイヤホンのケース、エナジードリンクの空き缶、なぜか小袋のグミを取り出した。


「ペンは?」


「ない!」


「何でグミはあるんだ」


「配信用の差し入れで」


 コトハが言った。


「受付横の備品箱に筆記具があります」


「助かる」


 俺は備品箱を開けた。


 中には黒ペンが一本入っていた。

 ただし、鎖で箱につながれている。


 現実の役所にもよくあるやつだ。

 迷宮は妙なところだけ再現度が高い。


 俺は異議申立書を書きはじめた。


 申立人、朝倉ユウマ。

 利用者番号、空中表示から転記。

 対象条項、強制改定予定条項全般。

 異議の理由。


 文字を書く手が震えた。


 外では、たぶん日本中が大騒ぎになっている。

 駅前に残した段ボール。

 母への未返信メッセージ。

 失った仕事。

 怒鳴る課長。

 そして、配信されている俺。


 考えることが多すぎる。


 でも、書類は上から順に埋めるものだ。


 俺は息を吸い、書いた。


『利用者全体に対する重要事項説明が不十分であり、強制改定によって人類の法的地位が利用者から契約対象へ変更されることは、同意の範囲を著しく逸脱する。よって、当該改定の停止、または少なくとも個別同意手続きへの移行を求める』


 手が止まらなくなった。


 会社では、俺の書いた指摘はほとんど無視された。

 細かい。遅い。空気が読めない。

 そう言われて、赤を入れた契約書を何度も突き返された。


 だが今は、その細かさだけが武器だった。


 俺は署名欄まで書き終えた。


「印紙」


 申立印紙を貼る欄がある。

 さっき拾った金属札を置くと、紙に吸い込まれるように貼りついた。


『申立印紙、確認』


 骸骨の受付係が紙を見下ろした。


「受理には受付手数料が必要である」


「手数料?」


「500DP」


「さっき手に入れたDPは?」


 俺の保有ポイントが表示される。


『朝倉ユウマ、800DP』


 狼の是正協力報酬500DP。

 課長の救助費用300DP。


 合計800DP。


 手数料500DP。

 高い。だが払えない額ではない。


 俺が支払おうとしたとき、コトハが小さく言った。


「待ってください」


「何だ?」


「当該申立ては、利用者全体の利益に関する公益申立てです。第206条により、手数料免除を申請できます」


 骸骨の眼鏡が、ぎらりと光った。


「手数料免除申請には、別紙様式三号が必要である」


 俺は受付係を見た。


「別紙様式三号は?」


「通常窓口で配布している」


 番号表示は、まだ12番だった。


 リクトが天を仰いだ。


「終わったあああ!」


 コトハが淡々と言う。


「残り五十一分二十秒です」


 俺は骸骨を見た。


 骸骨は動かない。

 規則通りの顔をしている。骨だけなのに、規則通りの顔をしている。


 俺は異議申立書の注意書きを読んだ。

 末尾。小さい文字。いちばん嫌な場所。


『ただし、完全読了者が緊急是正申立てを行う場合、当該申立書内に手数料免除の意思表示を明記することで、別紙様式三号の提出に代えることができる』


「……あるじゃないか」


 俺は黒ペンを取り、余白に書き込んだ。


『本申立ては利用者全体の重大な不利益回避を目的とする緊急是正申立てであるため、第206条ただし書きに基づき、手数料免除を申請する』


 骸骨の眼鏡がさらに光った。


「余白記載は原則として認められない」


「ただし書きに、申立書内に明記するとある。欄の指定はない」


「む」


「それに、欄がないのは様式側の不備です。利用者に不利な様式不備を理由に免除申請を却下するのは、第14条の説明義務に反します」


 骸骨は黙った。


 ロビー全体が静かになる。


 コメント欄が爆発した。


《役所バトル始まった》

《骸骨職員に正論で殴る男》

《余白記載つよい》

《第206条ただし書き!》

《これ現実でも使える?》

《たぶん使えない》

《でも気持ちはわかる》


 骸骨の受付係が、ぎぎぎ、と首を傾けた。


「確認する」


 長い沈黙。


 そして。


『手数料免除申請を受理しました』

『受付手数料、0DP』


 リクトが拳を握った。


「勝った!」


「まだ受付だ」


「受付でこんな熱いことある!?」


 骸骨が異議申立書に判子を押した。


 どん。


『受付済』


「本申立書を第一階層管理端末へ提出せよ。制限時間内に提出されない場合、本受付は失効する」


「管理端末までは?」


 コトハが地図を更新した。


「ここから最短で二十六分です」


「残りは?」


「五十七分ではありません」


「わかってる。何分だ」


「四十九分五秒です」


「走るぞ」


 俺は異議申立書を丸めず、折らず、両手で持った。


 会社員時代に叩き込まれたことがある。

 重要書類は雑に扱うな。

 紙一枚で人の人生が変わる。


 いまは、紙一枚で人類の扱いが変わる。


 俺たちは優先窓口の横に開いた扉へ走った。


 通路は先ほどより狭い。

 壁の文字が流れる速度も速くなっている。

 まるで迷宮そのものが、俺たちを急かしているようだった。


 しばらく走ると、前方に三人の探索者がいた。


 大学生くらいの男女。

 剣を持った男、杖を持った女、盾を持った男。

 全員、妙に興奮した顔をしている。初回スキルでも得たのだろうか。


 剣の男が叫ぶ。


「おい、そこの奴! その書類、何だ?」


 俺は足を止めたくなかった。

 だが、三人は通路をふさいだ。


「どいてくれ。急いでる」


「完全読了者って、お前だろ?」


 剣の男の目がぎらつく。


「公開ログ見たぜ。規約で魔物を止められるんだろ? その権限、俺たちのパーティに使えよ」


「無理だ。規約違反がないと使えない」


「嘘つけ。独占する気だろ」


 盾の男が前へ出る。


「初回攻略は早い者勝ちなんだよ。俺たちはこのダンジョンで有名になる。お前の権限があれば、ボスも楽勝だ」


「だから、使えないと言ってる」


 杖の女が俺の手元を見た。


「その紙、もしかして特別クエスト?」


 まずい。


 彼らの視線が、異議申立書に集中した。


 俺は紙を胸に寄せた。


「これは人類全体に関わる申立書だ。通してくれ」


「人類全体?」


 剣の男が笑った。


「何それ。主人公気取り?」


 リクトが前に出た。


「おい、マジでやめとけ。この人いなかったら俺、さっき死んでたから」


「配信者か。お前も一緒にバズりたいだけだろ」


 剣の男が俺へ手を伸ばした。


「いいから貸せ」


 俺は一歩下がる。


 その瞬間、コトハの声が鋭くなった。


「警告。異議申立書への不当干渉は、第211条に抵触する可能性があります」


「うるせえよ、NPC」


 剣の男がコトハを払うように手を振った。

 手は空を切る。コトハの体は映像のように揺れただけだった。


 俺は条文を呼び出した。


「第211条。緊急是正申立てに対する妨害行為は、利用者全体の権利保全を阻害するものとして禁止される。ただし、当該申立てが虚偽または権限濫用である場合を除く」


『但し書き行使、準備可能』

『対象、申立妨害行為』


 剣の男が鼻で笑った。


「は? 俺たちはまだ何もしてないぜ?」


 そう。


 まだ手を出していない。

 妨害の意思はある。でも行為は未遂だ。

 条文で止めるには、根拠が弱い。


 こいつ、意外と頭が回るのか。


 あるいは、単に性格が悪いのか。


 次の瞬間、杖の女が小さく呪文を唱えた。


 床から蔓のような黒い紐が伸び、俺の足首に絡みつく。


「うわっ」


 転びかけた。

 異議申立書が手から離れそうになる。


『申立妨害行為を確認』

『第211条、行使可能』


 俺は歯を食いしばった。


「第211条、緊急是正申立てに対する妨害行為の禁止」


 条文が開く。

 赤く光ったのは「妨害行為」の部分。


『是正措置、拘束解除』

『追加措置、妨害者への警告付与』


 足首の紐が切れた。


 杖の女の頭上に、赤い札が浮かぶ。


『警告一回』


 女が悲鳴を上げた。


「何これ!」


 剣の男が舌打ちする。


「警告だけかよ!」


 彼は剣を抜いた。

 黒い刃に青白い光が走る。


 まずい。


 人間相手に、どこまで規約が効く?

 相手が直接攻撃してくれば妨害行為として止められるかもしれない。

 だが、こちらに怪我をさせる前に完全に無力化できる保証はない。


 俺の手には紙。

 武器は赤ペン。

 隣にはリクト。

 コトハは実体がない。


 剣の男が踏み込んだ。


 その瞬間、通路の奥から低い音が響いた。


 ずしん。


 ずしん。


 ずしん。


 全員が振り向く。


 暗闇の奥に、巨大な影が立っていた。


 人型。

 身長は二メートル半ほど。

 全身が黒い鎧で覆われている。胸には大きな印章が埋め込まれ、右手には分厚い石板を持っていた。


 コトハが珍しく、ほんの少しだけ目を細めた。


「第一階層監査官です」


「監査官?」


「管理端末前に配置される高危険度存在です。本来、この地点には出現しません」


 俺の背筋に冷たいものが走る。


「本来は?」


「はい」


 空中表示が開く。


『出現存在、第一階層監査官』

『危険度、C』

『配置区域、管理端末前』

『現在位置、受付連絡通路』

『警告、当該存在は指定区域外にいます』


 指定区域外。


 俺は異議申立書を抱え直した。


「第89条が使えるな」


「はい」


 だが、コトハの声はいつもより硬かった。


「ただし、注意してください。監査官は魔物ではなく、管理補助存在です」


「条文の対象外か?」


「第89条は魔物を対象とします。監査官には第302条、管理補助存在の配置義務が適用されます」


「条文番号を出してくれ」


 黒い鎧の監査官が、石板を掲げた。


 そこには、赤い文字が刻まれている。


『申立不備を確認』

『申立人の適格性に疑義あり』

『即時却下のため、申立書を回収する』


「勝手に不備にするな」


 俺は空中の第302条を読んだ。


『管理補助存在は、指定された区域および業務範囲内においてのみ利用者に干渉できる』

『ただし、重大な規約違反、申立不備、または管理者権限に基づく緊急回収が必要な場合を除く』


 まずい。


 相手は「申立不備」を理由にしている。

 ただし書きで例外を主張している。


 つまり、相手も条文を使っている。


 コトハが言った。


「ユウマ。監査官は管理者側の執行機関です。あなたの但し書き行使に対抗して、管理者側の例外規定を行使できます」


「条文バトルの相手ってことか」


「はい」


 リクトが青い顔で言った。


「なんか急にラスボスっぽいの来たんだけど!?」


「第一階層だぞ」


「第一階層でこれ!?」


 監査官が石板を振り下ろした。


 床に赤い線が走る。

 その線が、まっすぐ俺の持つ異議申立書へ向かってきた。


『申立書回収命令』


 紙が手から引っ張られる。


「くっ」


 俺は両手で押さえた。

 だが力が強い。紙が今にも破れそうになる。


 破れたら終わりだ。


 世界が契約対象になる。

 俺の人生どころか、人類全体が、誰かの契約書の備品になる。


 俺は歯を食いしばり、監査官の石板を見た。


 申立不備。

 申立人の適格性に疑義。

 即時却下。


 どこだ。

 どこに穴がある。


 相手の主張は、申立人の適格性だ。

 俺に申立てる資格がないと言っている。


 でも俺は完全読了者だ。第204条に基づき、緊急是正申立てが可能。

 受付は受理された。

 優先窓口で受理印も押された。


 つまり。


「受理済みだ」


 俺は言った。


 監査官の動きがわずかに止まる。


「この申立書は、優先窓口で受付済みの判子を受けている。受付済み申立てを、管理端末提出前に現場判断で即時却下する権限があるのか?」


 コトハの瞳に文字が走った。


「関連条文、第217条」


 空中に条文が開く。


『受付済みの緊急是正申立ては、管理端末または指定審査機構による審査を経なければ却下できない』

『ただし、申立書が偽造、変造、または申立人本人の意思に基づかない場合を除く』


「偽造でも変造でもない。俺本人の意思で書いた」


 俺は異議申立書を掲げた。


「第217条。受付済み申立ての審査前却下は禁止」


 条文が黄金に光った。


『第217条の行使を受理しました』

『監査官による即時却下権限、該当なし』

『申立書回収命令を無効化します』


 赤い線が消えた。


 監査官の石板に亀裂が入る。


 だが、監査官は倒れない。


 黒い兜の奥で、赤い光が灯った。


『追加審査』

『完全読了者の精神的安定性に疑義あり』

『強制面談を開始する』


「また別の理由を出してきたぞ!」


 リクトが叫ぶ。


 俺は思わず笑いそうになった。


 理由を変えて何度でも差し戻す。

 どこかで見たことのある手口だ。


 会社だ。


 契約書の指摘を出すたびに、別部署確認、上長確認、再検討、様式変更、押印漏れ。

 そうやって時間を溶かし、最後に「期限が過ぎたから無理」と言う。


 この監査官は、迷宮の中の久我原課長だ。


 だったら、対応は決まっている。


「コトハ。残り時間」


「四十三分二秒です」


「強制面談にかかる時間は?」


「標準で一時間です」


「露骨すぎる」


 俺は監査官を睨んだ。


「第204条の緊急是正申立て中に、標準一時間の面談を強制するのは、回復不能な損害を発生させる妨害行為だ。第211条に抵触する」


 監査官の赤い目が揺れた。


『強制面談は管理補助業務である』


「ただし、業務範囲内に限る。第302条だ」


『精神的安定性の確認は必要である』


「なら、管理端末到達後に指定審査機構が行えばいい。受付済み申立ての移送を妨げる理由にはならない」


 俺は一歩前へ出た。


 怖い。

 監査官はでかい。

 石板で殴られたら、たぶん俺の骨は骸骨受付係に親近感を抱く。


 でも、書類の上では引かない。


「第211条。緊急是正申立てに対する妨害行為の禁止」


 空中に条文が展開される。


 今度は大きい。

 通路全体に、青白い文字が走った。


『妨害行為を確認』

『対象、第一階層監査官』

『是正措置、強制面談命令の停止』

『追加措置、監査官を指定区域へ返還します』


 監査官の足元に赤い円が浮かぶ。


 黒い鎧がぎしぎしと軋んだ。


『異議』

『管理者権限に基づき』


「却下だ」


 俺は言った。


「異議があるなら、管理端末で審査しろ。こっちはそこに行く途中だ」


 赤い円が光った。


 監査官の体が、床へ沈みはじめる。

 黒い鎧の指が石を掴んだが、止まらない。


 最後に、兜の奥の赤い光が俺を見た。


『完全読了者』

『あなたの解釈は、管理者に不利益を与えます』


「契約は、片方だけが得するためのものじゃない」


 俺は返した。


「少なくとも、俺はそう読んだ」


 監査官は消えた。


 通路に静寂が戻る。


 剣の男たちは顔を真っ青にしていた。

 さっきまで俺の紙を奪おうとしていた手が、今はだらりと下がっている。


 俺は彼らを見た。


「まだ、その紙を貸せって言うか?」


 剣の男は首を横に振った。


「じゃあ、どいてくれ」


 三人は慌てて通路の端へ寄った。


 リクトが小声で言う。


「ユウマさん、今のめちゃくちゃかっこよかったっす」


「かっこよくはない。胃が痛い」


「胃痛で監査官倒した人、初めて見た」


 コメント欄も騒がしい。


《条文バトル熱すぎる》

《管理者側も但し書き使うの怖》

《完全読了者、ただのチートじゃないんだな》

《これ頭脳戦じゃん》

《異議があるなら管理端末で審査しろ、名言》

《胃痛系主人公》


 コトハが俺の横に並んだ。


「ユウマ」


「何だ」


「先ほどの解釈は、現時点で有効です。ただし、管理者は次回以降、別の根拠条文を用いる可能性があります」


「だろうな」


「恐怖を感じていますか?」


「感じてる」


「逃げますか?」


 俺は異議申立書を見た。


 受付済の判子。

 申立印紙。

 俺の署名。


 たった一枚の紙。


 でも、今の俺には、それが剣より重く感じられた。


「逃げたい」


「はい」


「でも、読んだからな」


 コトハが首を傾ける。


「読んだから?」


「読んでしまったら、知らなかったことにはできない」


 俺は歩き出した。


「行こう。管理端末まで」


 通路の奥で、赤い光が点滅している。

 そこが第一階層の終点だ。


 残り時間、四十一分。


 そのとき、空中に新しい通知が出た。


『管理者より全利用者へ告知』

『完全読了者、朝倉ユウマの保有する異議申立書を管理端末到達前に回収した利用者には、特別報酬を付与します』


 通路のあちこちで、ざわめきが起きた。


 遠くから足音。

 剣の音。

 誰かの歓声。


『特別報酬、上級スキル抽選券三枚』

『追加報酬、10000DP』


 リクトが顔をひきつらせた。


「ユウマさん」


「ああ」


 俺は赤ペンを握り直した。


 管理者は、俺を止める方法を変えた。

 魔物でも監査官でもなく、人間を使う気だ。


 誰も読まない。

 でも、報酬の数字は読む。


 通路の奥から、何十人もの探索者の足音が近づいてくる。


 コトハが静かに告げた。


「残り四十分五十二秒」


 俺は異議申立書を胸に抱えた。


 世界でいちばん面倒な書類提出は、ここからが本番だった。

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