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第1話 読まない奴から死ぬ

「朝倉くん。君には、契約書を読むしか能がない」


 それが、俺に向けられた最後の評価だった。


 午後七時三十二分。

 東城管理ソリューションズ株式会社、第七会議室。

 蛍光灯は白く、空気はぬるく、机の上には薄っぺらい紙束が置かれている。


 退職合意書。


 つまり、俺の首を切るための紙だ。


 向かい側には、久我原課長が座っていた。

 脂ぎった額。高そうに見えるが妙に安っぽい腕時計。相手が黙るまで大きい声を出せば勝ちだと思っている種類の人間。


「今月いっぱいで契約終了。会社としては、まあ、温情ある対応をしたつもりだよ」


「温情ですか」


「そう。普通なら今日で終わりだ。なのに有休消化も認めてやる。ありがたいと思いなさい」


 久我原課長はボールペンを俺の前へ滑らせた。


「ほら、ここにサイン」


 俺は紙束に目を落とした。


 退職日。

 退職理由。

 秘密保持。

 会社貸与品の返却。

 残業代、賞与、慰謝料その他すべての請求権を放棄するものとする。


「……」


 俺は一行目から読みはじめた。


「おい」


 久我原課長の声が低くなる。


「何をしてる」


「読んでます」


「読まなくていい。一般的な書式だ」


「一般的な書式に、未払い残業代の放棄条項は入りません」


「屁理屈を言うな」


「あと、ここの競業避止義務。三年間、同業他社への就職禁止になってますけど、地域も職種も限定されていません。契約社員にこれは重すぎます」


「だからそういうところだよ、朝倉くん」


 課長は机を指で叩いた。


 とん、とん、とん。


「君は空気が読めない。文章ばかり読む。みんなが前へ進もうとしているときに、君だけが立ち止まって細かい文字を眺めている。だから使えない」


 会議室のガラス壁の向こうで、同僚たちがちらちらとこちらを見ていた。

 誰も助けない。

 誰も口を出さない。

 まあ、当然だ。俺だって誰かを助ける余裕なんて、ここ一年ほど持っていなかった。


 朝倉ユウマ、二十四歳。

 雇用形態、契約社員。

 業務内容、雑用と契約書チェックと怒鳴られ係。


 会社にとって俺は、コピー機の横に置かれた替えトナーみたいなものだった。あると便利だが、なくなれば発注し直せばいい。


「サインしないなら、退職手続きが遅れるぞ」


「この内容ではサインできません」


「君ねえ」


「少なくとも、未払い分の精算と、競業避止義務の削除を」


「黙れ!」


 課長の声が会議室に跳ねた。

 ガラスの向こうで誰かが肩をすくめる。


「契約書を読むしか能がないくせに、最後まで会社に楯突くのか!」


 その言葉は、なぜか妙にすっきりと胸に入った。


 契約書を読むしか能がない。


 たしかにそうかもしれない。


 小さいころから、俺は説明書を読むのが好きだった。

 ゲームの説明書、家電の保証書、ネットサービスの利用規約。誰も読まない小さな文字の中に、世界の本音が隠れている気がした。


 人は口では親切なことを言う。

 広告は都合のいい夢を見せる。

 だが、最後の最後、責任を取る段になれば、すべては文章に戻る。


 だから俺は読む。


 読んで、考えて、見落とさないようにする。


 それの何が悪い。


「わかりました」


 俺はペンを置いた。


「この合意書にはサインしません。契約終了の通知は受け取ります。貸与品は本日返却します。未払い残業代については、後日、記録をまとめて請求します」


 課長の顔が赤黒くなる。


「君、そんな態度で次があると思うなよ」


「次があるかはわかりません。でも、読まずにサインするよりはましです」


 俺は立ち上がった。


 段ボール一箱分の私物を抱え、会社を出たときには、雨が降りはじめていた。


 五月の夜の雨は冷たい。

 ビル街の光が濡れたアスファルトに伸びて、誰かがこぼした絵の具みたいに滲んでいる。


 スマホには母からのメッセージが来ていた。


『仕事、無理しすぎないでね』


 俺は返信欄を開き、閉じた。


 無理しない仕事は、今日なくなった。


 貯金は三十六万円。

 家賃、七万八千円。

 奨学金の返済、月一万六千円。

 カードの引き落とし、たぶん来週。


 数字が頭の中を整列して、俺を静かに追い詰めてくる。


 契約終了。

 人生も終了。


 そんな雑な見出しが、頭の中の週刊誌に踊った。


 東都駅西口に着いたとき、雨はさらに強くなっていた。

 人の流れが、駅前広場の手前で不自然に止まっている。


「何だ、あれ」


「撮れ撮れ!」


「やば、映画の撮影?」


「いや、ニュース見ろ。全国で出てるって!」


 群衆の声に混じって、スマホのシャッター音が雨音を刺す。


 俺は段ボールを抱えたまま、人垣の隙間から広場を覗いた。


 そこに、門があった。


 黒い。


 ただ黒いのではない。

 夜よりも深い黒。見ていると目の奥を吸われるような黒だ。


 高さは三メートルほど。駅前の時計塔の下に、石造りのアーチがぽつんと立っている。石の表面には、見たことのない文字が流れていた。文字というより、濡れた虫の群れが這っているみたいだった。


 その門の中央に、青白い画面が浮かんでいる。


『迷宮利用規約に同意しますか?』


 俺は足を止めた。


 利用規約。


 その四文字だけが、やけに鮮明に見えた。


 画面の下には二つのボタンがある。


『同意する』

『規約を読む』


 周囲の人間は興奮していた。


「ダンジョンだって!」


「初回特典あるぞ!」


「スキルガチャ一回無料!?」


「ライブ配信していいのかな」


「俺、入るわ。こういうの初動が命だろ」


 大学生らしき男が、笑いながら『同意する』を押した。


 画面が光る。

 彼の体が粒子になり、黒い門の中へ吸い込まれた。


 群衆がどよめく。


「消えた!」


「本物じゃん!」


「うおお、俺も!」


 ひとりが押すと、次々に押した。

 サラリーマン。学生。配信者らしき女。スーツ姿の中年男性。買い物帰りの男。みんな笑い、叫び、スマホを掲げながら『同意する』を選ぶ。


 誰も『規約を読む』を押さない。


 俺は段ボールを足元に置いた。


「……いや、読むだろ」


 自分でも呆れるくらい小さな声だった。


 俺は画面に近づいた。


 雨は門の周囲だけ避けるように落ちていない。アーチの内側は乾いていて、妙に静かだった。


 俺が『規約を読む』を押すと、空中に文字が展開された。


『迷宮利用規約』


 第1条、定義。

 第2条、利用資格。

 第3条、迷宮内における自己責任。

 第4条、損害および死亡時の扱い。


「死亡時の扱い?」


 声が漏れた。


 周囲では、まだ人々が『同意する』を押し続けている。


「すみません、どいてくれません?」


 派手な髪の青年が俺の肩を押した。

 スマホを自撮り棒につけ、配信しているらしい。


「いま歴史的瞬間なんで。規約とか読んでる場合じゃないっしょ」


「死亡時の扱いが書いてありますよ」


「ゲームでも出るでしょ、そういうの。演出演出」


 彼は笑って『同意する』を押した。


 消えた。


 俺は、ため息をついて続きを読んだ。


 第17条、迷宮内で発生した負傷、精神的損害、財産的損害、社会的信用の低下、その他一切の損害について、迷宮管理者は原則として責任を負わない。

 ただし、管理者側の規約違反または安全管理義務違反がある場合を除く。


 ただし。


 俺の目がそこで止まった。


 ただし書きだ。


 契約書でいちばん大事なのは、多くの場合、本文ではない。

 末尾に小さく置かれた「ただし」だ。


 原則をひっくり返す小さな刃。

 責任の所在を変える隠し扉。

 読む人間だけが通れる裏道。


 第23条、初回利用者は第一階層到達から十分間、チュートリアル保護区域に指定される。

 ただし、利用者が自ら攻撃行為を開始した場合、この保護は解除される。


 第44条、迷宮内で取得した物品の所有権は、取得者に帰属する。

 ただし、当該物品が未解除の封印、担保、留保、または第三者の権利表示を伴う場合を除く。


 第89条、魔物による攻撃は迷宮活動上の通常危険に含まれる。

 ただし、当該魔物が指定区域外に出現した場合、または管理表示と異なる危険度を示した場合は、規約違反として扱う。


 俺は読み続けた。


 人が消えていく。

 歓声が上がる。

 ニュース速報の音がそこかしこで鳴る。


 全国各地に謎の門が出現。

 内部は未知の迷宮か。

 政府は情報収集中。

 不用意に近づかないよう呼びかけ。


 遅い。


 もう何百人も入っている。


 俺は第100条を越えた。

 第200条。

 第350条。


 文章は長く、固く、ところどころに意味不明な単語が混じっていた。

 魂魄信用値。

 異界間準拠法。

 階層主占有権。

 生存不能時の肉体返還優先順位。


 普通なら投げ出す。

 たぶん、俺も普通の夜なら投げ出していた。


 だが今日は、会社をクビになった夜だった。


 俺には行く場所がなかった。

 失う仕事もなかった。

 そして何より、読まずに同意する人間たちを見ていると、胃の奥がぞわぞわした。


 読め。

 せめて読め。

 命を預けるなら、最初のページくらい読め。


 そんなことを思いながら、俺は第700条に到達した。


 周囲の人間はもう少ない。

 警察官が規制線を張りはじめている。記者らしき人間もいる。雨の中継車が到着し、アナウンサーが深刻そうな顔で門を指していた。


「君、何をしてる!」


 警察官が俺に近づいてきた。


「危険だから離れなさい!」


「規約を読んでます」


「規約?」


「迷宮利用規約です。かなり危ないことが書いてあります」


「そんなものを読んでいる場合じゃない!」


 その言葉を聞いて、俺は少し笑ってしまった。


 読んでいる場合じゃない。


 会社でも言われた。

 周囲の人にも言われた。

 警察官にも言われた。


 みんな、読むより先に動きたがる。

 ボタンを押し、扉を開け、あとから怒る。


 俺は第900条を越えた。


 画面の文字が急に小さくなる。

 最後のほうほど、文章はさらに入り組んでいた。悪質な保険約款でもここまでやらない。


 第997条、完全読了の定義。

 第998条、内容理解確認。

 第999条、特別権限。


 俺の心臓が、どん、と鳴った。


 第999条。


 本規約を第1条から第999条まで連続して閲読し、かつ内容理解確認において所定の基準を満たした利用者を、完全読了者とする。

 完全読了者には、迷宮内における各条項の但し書きを行使する権限を付与する。

 ただし、当該権限の行使は、規約違反の是正、損害回避、権利保全、その他迷宮管理者が相当と認める範囲に限る。


 空中に、新しい画面が出た。


『内容理解確認を開始しますか?』


 選択肢は二つ。


『開始する』

『同意して入場する』


「最後にまた雑な誘導をするなよ……」


 俺は『開始する』を押した。


 第一問。


『チュートリアル保護区域において、利用者が自ら攻撃行為を開始した場合、保護はどうなるか』


「解除される」


 第二問。


『指定区域外に出現した魔物の攻撃は、通常危険に含まれるか』


「含まれない。規約違反として扱う」


 第三問。

 第四問。

 第五問。


 問題は全部で三十問あった。

 ひっかけもある。条文番号を覚えていないと答えにくいものもある。

 だが、俺は答えた。


 仕事でさんざんやってきたことだ。

 読み、覚え、矛盾を見つけ、責任の位置を探す。


 そして最後の一問。


『本規約において、完全読了者に付与される特別権限は何か』


 俺は画面を見つめた。


「但し書きの行使権限」


 青白い画面が、黄金に変わった。


 雨音が消えた。


 駅前広場にいた人々が、一斉にこちらを振り向く。


『内容理解確認、全問正答』

『完全読了者を確認しました』

『利用者名、朝倉ユウマ』

『権限、但し書き行使者を付与します』


 鐘のような音が鳴った。


 次の瞬間、黒い門から悲鳴が聞こえた。


「助けてくれえええええ!」


 聞き覚えのある声だった。


 久我原課長。


 俺の元上司が、黒い門の向こうから転がるように飛び出してきた。


 いや、飛び出そうとしていた。


 門の内側と外側の境目で、彼の体は見えない膜にぶつかったように止まっている。半分だけこちら側に出かけて、半分は迷宮に残されている。


 その背後に、巨大な犬がいた。


 犬、というには牙が長すぎる。

 狼、というには目が多すぎる。

 黒い毛皮の上に、骨の鎧のようなものをまとっている。六つの目がぎょろぎょろと動き、久我原課長の足を狙って牙を剥いていた。


「朝倉! 朝倉じゃないか!」


 課長は俺を見て、顔をぐしゃぐしゃにした。


「助けろ! 早く助けろ!」


 さっきまで俺の次を潰そうとしていた男が、迷宮の入口でじたばたしている。


 俺は空中の表示を見た。


『第一階層、チュートリアル保護区域』

『出現魔物、骨鎧狼』

『危険度、D』

『警告、当該魔物は指定区域外にいます』


 指定区域外。


 第89条だ。


 俺の口の中が乾いた。

 心臓が速い。足は震えている。


 そりゃそうだ。

 俺は戦士じゃない。元契約社員だ。

 剣もない。魔法もない。腕力だって平均以下。


 でも、読んだ。


 俺だけは読んだ。


 骨鎧狼が、課長の足へ噛みつこうとした。


「第八十九条」


 俺は言った。


 声が震えた。

 それでも、言った。


「魔物による攻撃は迷宮活動上の通常危険に含まれる。ただし、当該魔物が指定区域外に出現した場合、規約違反として扱う」


 空中に、巨大な文字が展開された。


 第89条。


 青白い条文の中で「ただし」の部分だけが赤く光る。


『但し書き行使を受理しました』


 骨鎧狼の動きが止まった。


 牙が課長の足首まであと三センチの場所で、ぴたりと止まる。六つの目がぎょろぎょろと俺を見た。


『違反内容、指定区域外出現』

『是正措置、攻撃停止』

『追加措置、違約罰の算定を開始します』


「は?」


 俺が間抜けな声を出した直後、空中から赤い判子が落ちてきた。


 どん。


 骨鎧狼の額に押された。


『契約違反』


 骨鎧狼が、きゃん、と情けない声を出した。

 その体が光の粒になり、消えていく。


『違約罰として、骨鎧狼の保有迷宮ポイントを徴収しました』

『完全読了者、朝倉ユウマに是正協力報酬を付与します』

『500DPを獲得しました』


 周囲が静まり返った。


 警察官も、記者も、配信者も、スマホを構えた群衆も、誰も声を出さない。


 門の前に、俺と久我原課長だけがいた。


 課長は尻もちをつき、震える手で俺のズボンの裾をつかんだ。


「た、助かった……朝倉、よくやった。お前、やればできるじゃないか」


 俺は自分の手を見た。


 何も持っていない。

 それなのに、魔物は止まった。

 消えた。

 規約が、世界に干渉した。


 頭の奥で、何かがかちりとはまる。


 契約書を読むしか能がない。


 その言葉が、もう一度聞こえた。


 けれど今度は、少し違って聞こえた。


 契約書を読むしか能がない。

 なら、契約でできた世界では、俺がいちばん強いのではないか。


 課長が涙目で笑った。


「なあ朝倉。俺たち、会社の仲間だよな?」


「元、です」


「細かいことを言うな。とにかく助けたんだから、これで水に流して」


「第37条」


 俺は空中の規約を呼び出した。


 課長の顔が固まる。


「え?」


「迷宮内外において、利用者が第三者の救助、危険回避、損害軽減その他の利益を受けた場合、当該第三者は相当額の救助費用を請求できる。ただし、完全読了者が規約違反を是正した場合、請求額は迷宮管理者の算定に従う」


『救助費用を算定します』

『対象、久我原マサト』

『救助内容、指定区域外魔物からの生命保全』

『請求可能額、300DP』


 課長の顔が、今度は青くなった。


「お、おい。冗談だろ。部下から金を取るのか?」


「元、です」


「朝倉!」


「それと」


 俺は課長が門に入る前に押したであろう画面を指さした。


「同意してますよね?」


 課長の口がぱくぱく動く。


「読んでないなら」


 俺は、ほんの少しだけ笑った。


「負けても文句は言えませんよ」


『救助費用300DPの支払いが完了しました』

『朝倉ユウマの保有迷宮ポイント、800DP』


 課長が叫んだ。


「ふざけるなああああ!」


 その声を、群衆のどよめきが飲み込んだ。


「今の見たか?」


「規約で魔物倒した?」


「完全読了者って何?」


「配信、配信回せ!」


 スマホがこちらへ向けられる。

 記者が走ってくる。

 警察官が無線に叫ぶ。


 その騒ぎの中心で、黒い門が静かに震えた。


 そして、俺だけに聞こえる声がした。


『完全読了者、朝倉ユウマ』


 少女の声だった。

 冷たく、澄んでいて、どこか眠そうな声。


『あなたは、本迷宮群における最初の例外です』


 門の奥に、銀色の髪が見えた。


 黒い迷宮の闇の中に、ひとりの少女が立っている。

 白い制服のような服。ガラス玉みたいな瞳。人間離れした整った顔。彼女の周りには、無数の条文が雪のように舞っていた。


『私は迷宮規約翻訳機構、個体名コトハ』


 少女は無表情のまま、俺に告げた。


『あなたには、管理者より追加通知があります』


「追加通知?」


『はい』


 コトハと名乗った少女は、少しだけ首を傾けた。


『本日二十三時五十九分をもって、日本国内の全利用者に対し、迷宮規約の強制改定が実施されます』


 俺は眉をひそめた。


「強制改定?」


『改定後、人類は迷宮の利用者ではなく、契約対象として扱われます』


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


 利用者ではなく、契約対象。


 つまり、人間のほうが商品になる。


 コトハは淡々と続けた。


『完全読了者、朝倉ユウマ。改定を停止するためには、第一階層の管理端末に到達し、異議申立てを行う必要があります』


「待て。俺はただの契約社員で」


『元、です』


 コトハが言った。


 俺は黙った。


『あなた以外に、第999条を読了した人間はいません』


 雨の音が戻ってきた。

 群衆の声が戻ってきた。

 課長の怒鳴り声も、記者の叫びも、スマホの通知音も、全部戻ってきた。


 けれど俺の目は、門の奥から離れなかった。


 黒い迷宮。

 銀髪の少女。

 空中に舞う、無数の条文。


 人生が終わった日だと思っていた。


 契約を切られ、職を失い、雨の中を帰るだけの夜だと思っていた。


 だが、どうやら違うらしい。


 世界そのものが、いま巨大な契約書になった。

 そして、その最後の一行まで読んだ人間は、俺だけだ。


 俺は足元の段ボールを見た。

 中には会社から持ち帰った私物が入っている。安物のマグカップ、読み古した契約実務の本、赤ペン、付箋、クリップ。


 俺は赤ペンだけを抜き取った。


 課長が叫ぶ。


「朝倉! どこへ行く気だ!」


 俺は黒い門を見た。


 門の奥で、コトハが待っている。


「異議申立てに行ってきます」


 そして俺は、世界でいちばん長い利用規約の中へ足を踏み入れた。

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