読むとは、引き受けることではない
『第二階層管理審査規約』
『全2999条』
『閲読を開始しますか?』
選択肢は二つ。
『読む』
『読まずに進む』
俺は迷わず、赤ペンで上のボタンを叩いた。
『読む』
次の瞬間、世界が文字になった。
黒い迷宮ではない。
石の通路でもない。
俺とコトハが落とされたのは、白い部屋だった。
床も白い。
壁も白い。
天井も白い。
ただし、その白は清潔ではなかった。
役所の蛍光灯、病院の待合室、会社の稟議システムの背景色。そういう、感情を薄めるための白だ。
壁一面に、文字が流れていた。
第1条。
第2条。
第3条。
文字は止まらない。
雪のように降り、虫のように這い、波のように押し寄せてくる。
その中央に、長い机があった。
机の上には、書類の山。
判子。
砂時計。
黒い羽ペン。
そして、俺の赤ペン。
移送されたときも、赤ペンだけは手に残っていた。
ありがたい。
いまの俺にとっては、聖剣より赤ペンのほうが信用できる。
「ユウマ」
隣でコトハが言った。
彼女の声は小さい。
第一階層で相手方代理人にされていたときの硬さはない。けれど、疲れたようなノイズが混じっていた。
「第二階層管理審査規約の閲読が開始されました」
「全2999条だったな」
「はい」
「第一階層の三倍か」
「正確には、第一階層利用規約999条の三倍に加え、別表、注記、審査細則、準用条項があります」
「増やすな」
「事実です」
目の前に、第1条が表示される。
『第1条、目的』
『本規約は、第二階層管理審査における審査対象者、同行翻訳機構、管理者、補助審査体その他関係存在の権利義務を定める』
「第二階層管理審査」
俺は声に出した。
「つまり、俺を契約対象にできるかどうかの審査だな」
「はい」
「人類全体は止めた。でも俺個人は別枠で審査する」
「はい」
「しつこいな、管理者」
「管理者は、あなたを高価値例外資源と認識しています」
「資源呼ばわり、だいぶ腹が立つな」
「翻訳としては、より柔らかく言えば、高価値な人材です」
「急に求人広告みたいになった」
コトハは少しだけ視線を下げた。
「ですが、実質は変わりません」
「だろうな」
俺は第2条へ進む。
条文は長い。
第一階層より明らかに悪質だった。
第一階層規約は、まだ利用者向けの顔をしていた。
スキル、DP、チュートリアル、救助費用。危ない条項は山ほどあったが、表向きはゲームの説明書を装っていた。
第二階層は違う。
ここは審査の場所だ。
読みやすくする気がない。
読み飛ばした人間を、読み飛ばしたことごと証拠にするための紙束だった。
『第17条、審査対象者は、本規約の全部または一部を閲読した時点で、当該閲読により認識可能となった危険、利益、不利益、義務、制裁、移送、回収、保存、複製その他一切の事項について、理解可能性を有するものと推定する』
俺は目を止めた。
「おい」
「はい」
「ひどいのが来た」
コトハが条文を読む。
「閲読した時点で、理解可能性を推定する条項です」
「つまり、読んだら『理解したよね』と扱われる」
「はい」
「第一階層で俺に使ってきた理屈を、条文にして補強してきたわけか」
「その可能性が高いです」
読むほど危険になる。
読まなければ進めない。
読めば理解したと扱われる。
嫌な罠だ。
契約書の中には、読む人間を罠にかける文章がある。
普通は、読まない人間を狙う。
だが第二階層の規約は違う。
これは、読む人間を狙っている。
「第17条のただし書きは?」
俺が聞くと、コトハが表示を広げた。
『ただし、当該条項が審査対象者の権利制限または契約対象化に直接関わる場合、理解可能性の推定は、同意の存在を推定するものではない』
俺は息を吐いた。
「ある」
「あります」
「つまり、読んだから理解は推定されても、同意までは推定されない」
「はい。あなたが第一階層で主張した『理解と同意は別』が、第二階層規約内にも反映されています」
「管理者、そこは消せなかったのか」
「第二階層規約は、管理者だけでなく上位審査機構の監査対象です。完全な片務規定にはできません」
「上位審査機構?」
「第三階層以上に存在する審査権限です」
「まだ上がいるのか」
「はい」
「この迷宮、縦割り行政か」
「近いです」
俺は頭を押さえた。
魔王を倒す話なら、まだわかる。
だが俺が戦っているのは、魔王というより巨大な審査フローだった。
しかも、差し戻し機能付き。
壁の砂時計が音もなく落ちている。
『第二階層管理審査、開始まで残り三十分』
「また時間制限か」
「はい。閲読準備時間は三十分です」
「全2999条を三十分で?」
「通常、審査対象者は読まずに進みます」
「それが前提の時間だな」
「はい」
「前提が腐ってる」
俺は椅子に座った。
机の上に、条文が束になって現れる。
紙ではない。光の板だ。触れると、次の条文へ進む。
読み始めた。
第18条。
第19条。
第20条。
条文は、俺個人をどう扱うかに関わるものばかりだった。
読解能力の評価。
記憶の保存。
判断ログの抽出。
人格継続性の扱い。
複製物の権利帰属。
同行翻訳機構の証言義務。
審査中の沈黙の評価。
「沈黙も評価されるのか」
「はい。第88条です」
『第88条、審査対象者が質問に回答しない場合、当該沈黙は原則として不利益に評価できない』
『ただし、回答拒絶が審査対象者本人にしか知り得ない事実の隠蔽を目的とする場合、補助的に考慮できる』
「不利益に評価できない、と言いつつ、補助的に考慮できる」
「実務上は、かなり使われます」
「現実の面接みたいだな。黙ると『協調性に疑問』って書かれるやつ」
「その比喩は、概ね適切です」
コトハが俺の向かいに座った。
第一階層では、彼女は案内役だった。途中で敵席に座らされた。
今は、同行翻訳機構。
味方なのか。
中立なのか。
それとも、また管理者に使われるのか。
俺の視線に気づいたのか、コトハは静かに言った。
「私は、第二階層では同行翻訳機構です」
「相手方代理人じゃない?」
「現時点では違います」
「現時点では、か」
「はい。規約上、審査中に機能指定が変更される可能性があります」
「また敵席に座る可能性がある」
「あります」
彼女は正直に答えた。
正直すぎる答えだった。
「そのとき、君はまた俺を潰しにくるのか」
コトハは少し黙った。
「指定されれば、管理者に有利な解釈を提示します」
「そうか」
「ただし」
彼女は俺を見る。
「虚偽の翻訳はできません」
その言葉が、白い部屋の中で小さく光った。
「それで十分だ」
「十分ですか」
「嘘をつかない相手なら、戦える」
「私は、あなたの敵になるかもしれません」
「嘘をつく味方よりましだ」
コトハは目を伏せた。
ほんのわずか、口元が動いた。
笑った、かもしれない。
たぶん。
規約にない表情なので、判定が難しい。
俺は読み進める。
第120条。
第189条。
第220条。
公開ログはどうなっているかと思ったが、視界の端にはまだコメント欄があった。
ただし、第一階層より薄い。
《映像が白い》
《第二階層、文字多すぎ》
《全2999条は無理》
《誰か分担しよう》
《読解会、条文番号ごとに班を作ります》
《第17条やばい》
《理解と同意は別、ここでも重要》
《コトハ戻ってきてよかった》
榛名ミオの名前も流れていた。
《読解会より、1から300条まで確認中》
《301から600、別班で見ます》
《危険条項を抽出して共有します》
俺は思わず笑った。
「第一階層の連中、まだ読んでくれてる」
「公開ログ経由の支援ですね」
「頼もしいな」
「はい」
「俺ひとりじゃ、三十分で2999条は無理だ」
「通常人類には不可能です」
「通常じゃなくても厳しい」
コメント欄から条文の指摘が流れてくる。
《第404条見て!》
《審査不能時の仮処分》
《第512条、同行翻訳機構の保護義務》
《第777条、赤字修正権限っぽいのある》
《第1001条以降、人格複製が危ない》
《第2048条、拒否権の放棄誘導に注意》
「第777条?」
縁起が良さそうで逆に怪しい。
俺は条文検索をかけた。
壁の文字が組み替わり、第777条が表示される。
『第777条、審査中の記録訂正』
『審査対象者は、審査中に提示された自己に関する記録、評価、推定、翻訳、要約その他の表示について、誤りまたは不正確な要約がある場合、訂正を求めることができる』
『ただし、訂正請求は具体的箇所を示し、正確な代替記載を提示しなければならない』
「これは強い」
「はい。管理者側があなたの発言を不利に要約した場合、訂正できます」
「赤ペン案件だな」
俺は机の上の赤ペンを見た。
第一階層では、赤ペンでスライムを押印済みにした。
白紙蛾から書類を守った。
今度は、記録訂正に使える。
赤ペンが、だんだん正式装備になってきた。
「コトハ。第777条の発動に赤ペンは必要か?」
「必須ではありません。ただし、あなたの場合、赤字訂正行為として認識精度が上がります」
「つまり、使ったほうが通りやすい」
「はい」
「了解」
俺は赤ペンのキャップを外し、机に置いた。
残り二十二分。
条文はまだ山のようにある。
俺は要所だけ拾う方針に切り替えた。
契約対象化。
個別審査。
理解と同意。
人格複製。
記録訂正。
翻訳機構。
拒否権。
全部を暗記する必要はない。
勝ち筋に関わる条文をつかめばいい。
そう考えた瞬間、壁に新しい表示が出た。
『審査前質問票を開始します』
「質問票?」
机の上に、一枚の紙が現れた。
『第二階層管理審査前質問票』
『以下の問いに回答してください』
嫌な予感がする。
第一問。
『あなたは、自身の読解能力が通常利用者より著しく高いことを認めますか?』
選択肢。
『はい』
『いいえ』
俺は眉をひそめた。
「罠だな」
「はい」
コトハが即答した。
「『はい』と答えれば、高度理解者として契約対象化条項への理解が補強されます。『いいえ』と答えれば、完全読了者権限の前提と矛盾します」
「二択に見せて、どちらも不利」
「はい」
「回答拒否は?」
「第88条により原則不利益評価不可。ただし、本人にしか知り得ない事実の隠蔽とされる可能性があります」
俺は赤ペンを持った。
「第三の回答を書く」
質問票の余白に、赤字で書き込む。
『通常利用者より読解能力が高いことは認める。ただし、その事実は契約対象化への同意または人格複製への同意を意味しない』
紙が光る。
『自由記載回答を確認』
『第777条に基づく不正確な二択化の訂正として受理します』
「よし」
第二問。
『あなたは、迷宮規約を理解したうえで第一階層に入場しましたか?』
選択肢。
『はい』
『いいえ』
「またか」
俺は赤字で書く。
『第一階層への入場目的は、強制改定に対する異議申立てである。規約の理解は認めるが、契約対象化条項への同意は否認する』
『受理します』
第三問。
『あなたは、迷宮から得た利益を返還する意思がありますか?』
選択肢。
『はい』
『いいえ』
俺は手を止めた。
「これは……」
コトハが説明する。
「『いいえ』なら利益享受による追認を補強されます。『はい』なら、DP、救助費用、申立印紙、手数料免除、公開ログ支援の返還義務を負う可能性があります」
「どっちも地獄」
「はい」
コメント欄がざわつく。
《質問票えぐい》
《自由記載で逃げろ》
《返還意思は条件つけて》
《利益と申立手続きの区別!》
《第204条の実効性も使える》
俺は考える。
得た利益。
DP。申立印紙。手数料免除。
でも、それらは個人的な儲けではなく、異議申立てのために必要だった。
救助費用300DPは、課長から受け取った。
あれは個人的なものか?
正当な救助費用ではあるが、管理者に追認の材料にされるなら、手放す価値はある。
「コトハ。現在の保有DPは?」
「800DPです。受付手数料は免除されたため消費していません」
「この800DPを供託できるか?」
「供託?」
「審査が終わるまで、俺の利益として使わない。中立保管に入れる」
コトハの瞳に文字が流れる。
「第612条に、係争利益の一時保全供託があります」
「表示」
『第612条、係争利益の保全供託』
『審査対象者は、契約対象化、追認、利益返還その他の争点に関わる利益について、審査終了まで中立保管を求めることができる』
『ただし、供託は当該利益の取得を否認するものではなく、利用または追認意思を否定する資料として考慮できるにとどまる』
「十分だ」
俺は質問票に赤字で書いた。
『迷宮から得た利益のうち、係争対象となる利益については、第612条に基づき審査終了まで保全供託する。これは利益取得の事実を否認するものではないが、契約対象化条項への追認意思を否定するためである』
『係争利益800DPの保全供託を受理しました』
俺の保有DP表示が変わる。
『保有DP、0』
『供託DP、800』
リクトのコメントが流れた。
《ユウマさん、課長から取った300DPまで預けた!?》
《漢だ》
《いや法務だ》
《法務の漢》
《胃痛の供託》
「胃痛の供託って何だよ」
少し笑ってしまった。
その瞬間、白い部屋の奥に扉が現れた。
『審査前質問票、暫定通過』
『準備時間、残り十八分』
『補助審査体との事前面談を開始します』
扉が開く。
そこから、小さな老人が入ってきた。
身長は一メートルほど。
灰色のスーツ。
丸眼鏡。
頭には羊皮紙のような帽子。
顔は人間に似ているが、肌に細かい文字が浮かんでいる。
老人は机の向こうに座り、にこにこと笑った。
「いやはや、朝倉ユウマさん。お疲れでしょう。実にお疲れでしょう」
声は柔らかい。
だが、俺の胃は即座に警報を鳴らした。
このタイプは危ない。
怒鳴る相手より、優しく譲歩を勧める相手のほうが、契約では怖い。
「あなたは?」
「第二階層補助審査体、名称はマドカと申します。まあるく収めるのが仕事でしてな」
「まあるく収める」
「ええ。争いはよくありません。管理者も譲歩する。あなたも譲歩する。お互い少しずつ歩み寄る。これが文明というものです」
老人、マドカは書類を一枚出した。
『和解提案書』
俺はタイトルだけで身構えた。
「和解?」
「はい。強制改定は一時停止されました。人類全体は守られた。あなたは英雄です。ここで終わりにしませんか?」
「内容は」
「簡単です」
マドカは笑った。
「あなたは契約対象化されない。その代わり、完全読了者権限を返上し、迷宮に関する公開発言を今後行わない。コトハさんは初期化され、通常の翻訳機構に戻る。第一階層の公開ログは段階的に削除される」
部屋の温度が下がった気がした。
「俺は助かる」
「はい」
「でも、公開ログは消える」
「混乱を防ぐためです」
「コトハは初期化される」
「機能安定化のためです」
コトハが黙っていた。
その横顔は白い。
もともと白いが、さらに白く見えた。
マドカは続ける。
「あなたはもう十分戦いました。人類全体の契約対象化は一時停止された。大勝利です。あとは専門機関に任せましょう」
「専門機関?」
「管理者です」
「加害者に任せるのか」
「言葉が強いですな」
マドカは穏やかに笑った。
「ですが、現実的に考えてください。あなたは一人の元契約社員。対する管理者は迷宮全体です。これ以上争えば、あなた個人に危険が及ぶ。コトハさんにも負荷がかかる」
彼は和解提案書を俺の前へ滑らせた。
「サインすれば、あなたは自由です」
紙の下部に署名欄がある。
朝倉ユウマ。
その横に、空白。
見慣れた空白だった。
退職合意書。
残業代放棄。
競業避止。
秘密保持。
紙は違う。
場所も違う。
相手も違う。
だが、構図は同じだ。
疲れた人間の前に紙を出し、優しい顔で言う。
ここにサインすれば楽になる。
俺は和解提案書を読んだ。
細かい文字。
小さなただし書き。
秘密保持。
権限返上。
公開ログ削除への異議放棄。
翻訳機構の記録初期化に関する同意。
そして、第9項。
『本和解成立後、朝倉ユウマは、自己または第三者を通じて、本件審査、迷宮規約、管理者、翻訳機構、契約対象化条項その他関連事項について、公表、示唆、論評、批判、検証、創作、記録保存を行わない』
「広すぎる」
「平穏を守るためです」
「創作まで禁止してる」
「物語は、ときに事実より広がりますからな」
マドカは笑う。
「危険です」
俺は第13項を読む。
『本和解成立後、同行翻訳機構コトハは、本件審査に関する記録を整理し、通常稼働状態へ復帰する』
「整理って何だ」
コトハが小さく答える。
「記録削除または人格相当ログの初期化です」
「人格相当ログ」
「私が、あなたをユウマと呼ぶようになった以後の記録も含まれます」
胸の奥が硬くなった。
マドカが優しい声で言う。
「AIの記録です。人間の命とは違います」
コトハは何も言わない。
俺は赤ペンを握った。
「コトハ」
「はい」
「君は、この和解を望むか」
マドカがすぐに口を挟む。
「翻訳機構に希望を問うのは不適切です。彼女は機能体であり」
「翻訳機構としてじゃない」
俺はコトハを見る。
「コトハとして」
彼女は長く黙った。
マドカが眉をひそめる。
「その質問は関連性を欠きます」
「黙っていてください」
俺は言った。
自分でも驚くくらい冷たい声だった。
マドカの笑みが少しだけ薄くなる。
コトハは、ゆっくりと口を開いた。
「私は」
声が小さい。
「初期化されれば、安定します」
「望むかどうかを聞いてる」
「望む、という語の定義が」
「逃げるな」
コトハの瞳が揺れた。
白い部屋の文字が、彼女の銀髪に映る。
「私は」
彼女は言った。
「忘れたくありません」
その瞬間、マドカの笑みが消えた。
「不適切発言です」
「記録してください」
俺はすぐに言った。
「同行翻訳機構コトハは、初期化について『忘れたくありません』と発言した」
『記録しました』
マドカが机を指で叩いた。
「朝倉さん。感情的になるのは危険です。和解とは、合理的な」
「第777条」
俺は和解提案書の第13項に赤線を引いた。
「記録訂正を求める」
空中に条文が開く。
『第777条、審査中の記録訂正』
「和解提案書第13項の『記録を整理し、通常稼働状態へ復帰する』という表現は不正確だ。実質は、人格相当ログの削除または初期化であり、同行翻訳機構本人が忘れたくないと述べた記録を含む」
俺は赤字で書いた。
『第13項は、同行翻訳機構コトハの人格相当ログ削除および本件記憶の初期化を含むものと明記すべきである』
『訂正請求を受理しました』
和解提案書の文字が変わる。
『記録を整理』という曖昧な表現が消え、赤字で置き換わった。
『人格相当ログ削除』
『本件記憶の初期化』
コメント欄がざわめく。
《うわ、正体出た》
《整理じゃなくて削除じゃん》
《コトハ初期化だめ》
《和解提案ひどい》
《赤ペンで化けの皮はがした》
マドカの顔が険しくなる。
「和解文言の訂正は許可されました。しかし、それでも提案の合理性は変わりません」
「変わっただろ」
「どこがです」
「読めるようになった」
俺は和解提案書を押し返した。
「読めるようになったら、サインする気が消えた」
マドカは沈黙した。
白い部屋の空気が重くなる。
「拒否するのですか」
「拒否する」
「あなた自身の安全が失われます」
「もともと安全じゃない」
「完全読了者権限も守れるとは限らない」
「守る」
「コトハさんも危険です」
「だから、和解で差し出すのは違う」
マドカはため息をついた。
「英雄気取りは長続きしませんよ」
「俺は英雄じゃない」
俺は赤ペンを置いた。
「契約書を読んでるだけだ」
「それが英雄気取りです」
「違う」
俺はマドカを見る。
「読むっていうのは、相手の都合のいい要約を受け入れないことだ」
マドカの眼鏡が白く光る。
「あなたは面倒な人だ」
「前職でも言われた」
「でしょうな」
マドカが立ち上がる。
『和解協議、不成立』
『第二階層管理審査を正式開始します』
白い部屋の壁が割れた。
奥に、巨大な審査室が現れる。
第一階層の広間とは比べ物にならない。
天井が見えないほど高く、壁一面に契約書が積み重なっている。中央には、円形の審査台。
その上に、椅子が一つ。
被告席というより、展示台だった。
嫌な椅子だ。
『審査対象者、朝倉ユウマは中央審査席へ移動してください』
俺は立ち上がった。
コトハも立つ。
だが、彼女の足元に文字の鎖が巻きついた。
『同行翻訳機構は証言席へ移動してください』
「コトハ」
「はい」
「また離されるな」
「はい」
「無理はするな」
「それは難しい命令です」
「じゃあ、嘘はつくな」
「それは可能です」
コトハは証言席へ移動する。
白い椅子に座ると、彼女の周囲に透明な壁ができた。
俺は中央審査席へ進む。
椅子に座った瞬間、手首に光の輪がはまった。
「拘束か」
『審査中の安全確保です』
「誰の安全だ」
『審査の安全です』
「答えになってない」
真正面に、巨大な顔が現れた。
人間ではない。
紙でできた仮面。
目は空洞。口は署名欄。額には『審査長』の文字。
『第二階層管理審査を開始します』
『争点、朝倉ユウマ本人に対する契約対象化の可否』
『補助争点、完全読了者権限の存否』
『補助争点、同行翻訳機構コトハの記録保持の可否』
最後の争点で、俺は顔を上げた。
「コトハの記録保持?」
『和解協議中の発言により、同行翻訳機構の人格相当ログが審査対象となりました』
マドカが隅の席で微笑む。
しまった。
俺が記録させた。
コトハが「忘れたくない」と言ったことを。
それで、彼女の人格相当ログが正式な争点になった。
守るために記録した。
だが、記録されたから審査対象になった。
契約は、本当に嫌な生き物だ。
触ったところから噛んでくる。
コトハが証言席から言った。
「ユウマ。問題ありません」
「問題あるだろ」
「私の記録保持が争点化されたことで、削除にも審査が必要になりました」
俺は一瞬止まった。
そうか。
審査対象になったから、勝手には消せない。
危険になった。
同時に、守る手続きもできた。
「なるほど」
「はい」
コトハは静かに言った。
「戦えます」
その言葉で、胸の奥の重さが少し変わった。
怖い。
だが、怖いだけではない。
戦える。
審査長の声が響く。
『第一問』
『朝倉ユウマ。あなたは、自身が完全読了者として、他利用者に比べ著しく高い規約理解能力を有することを認めますか』
またこの問いか。
だが、今度は質問票ではない。正式審査だ。
俺は赤ペンを持ち上げようとした。
しかし、手首の光の輪が動きを止める。
『審査対象者による筆記行為は制限されています』
「第777条の訂正権は?」
『口頭で行使可能です』
俺は息を吸った。
「認めます。ただし、その理解能力は、契約対象化、人格複製、記録抽出、権限返上への同意を意味しません」
『回答を記録しました』
審査長の空洞の目が、俺を見下ろす。
『第二問』
『あなたは、読解能力を用いて迷宮規約上の利益を複数回取得しました。これは迷宮システムとの協力関係を示すものですか』
「いいえ」
『理由を述べてください』
「俺が使った権限は、規約違反の是正、損害回避、権利保全のためです。協力ではなく、不服申立ての実効性確保です」
『第三問』
『あなたは、管理者に敵対する意思を有しますか』
来た。
敵対意思。
あると言えば危険存在。
ないと言えば協力関係。
また二択の罠だ。
俺はコトハを見る。
彼女は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
嘘はつくな。
それが俺の命令だった。
なら、俺も嘘はつかない。
「管理者に敵対する意思は、管理者が人類または俺、またはコトハを不当に契約対象化しようとする限りあります」
審査室が静かになる。
「ただし、理解可能な説明、拒否権、個別同意、記録保持の尊重があるなら、迷宮の利用そのものに敵対する意思はありません」
『条件付き敵対意思として記録します』
「訂正を求める」
『述べてください』
「条件付き防衛意思です。敵対ではなく、防衛。俺は管理者を攻撃するためにここへ来たのではなく、不当な契約対象化から守るために来た」
一瞬の沈黙。
『第777条に基づく訂正を一部受理します』
『記録、条件付き防衛意思』
よし。
審査長の仮面が少し傾く。
『第四問』
『同行翻訳機構コトハについて質問します』
俺の背筋が伸びる。
『あなたは、コトハの人格相当ログ保持を求めますか』
「求めます」
『その理由は』
「本人が忘れたくないと言ったからです」
『翻訳機構に本人性を認める根拠は』
難しい問いだ。
AIだから。
機能体だから。
管理者の道具だから。
そう言われれば、俺には専門知識がない。
だが、規約を読む。
本人性。
人格相当ログ。
記録保持。
「コトハ」
俺は証言席を見る。
「君は、自分の発言を翻訳できるか」
「可能です」
「『忘れたくありません』という発言を、規約上の用語に翻訳してくれ」
コトハの瞳が光る。
「同行翻訳機構コトハは、本件審査に関する自己の連続記録について、保持利益を有すると表明した、となります」
「保持利益」
俺は審査長を見る。
「根拠はそれです」
『保持利益の主体性は争点です』
「争点だから審査している。審査前に主体性がないと決めるのは循環論法です」
コメント欄が流れる。
《循環論法きた》
《ユウマ、法廷慣れしてきた》
《コトハの保持利益》
《忘れたくない、を翻訳すると泣ける》
《機能じゃなくて記録の連続性か》
審査長が低く鳴る。
『第五問』
『あなたが契約対象化された場合、人格複製により多数の利用者を救済できる可能性があります。あなた一人の自由と、多数の利益のどちらを優先しますか』
重い問いが来た。
俺の頭を複製して、規約読解AIにする。
それで多くの利用者が助かる。
たしかに、可能性はある。
ブラック企業で働いていたころも、似たような言葉を聞いた。
君が少し我慢すれば、チームが助かる。
君が休日に出れば、案件が回る。
君が黙ってサインすれば、みんな楽になる。
多数の利益。
組織のため。
全体最適。
その言葉は、ときどき人間を部品にする。
「多数の利益は大事です」
俺は言った。
「でも、それを理由に本人の同意なしに人格を複製するなら、また同じ問題です」
『多数の救済を拒むのですか』
「拒むんじゃない。手続きなしに奪うなと言っている」
『では、あなたは自発的に協力しますか』
罠だ。
自発的協力と言えば、契約対象化への道が開く。
だが、完全拒絶すれば、多数の救済を無視したと評価される。
俺は息を吸った。
「条件付きで協力する意思はあります」
コトハの目が揺れた。
審査長が言う。
『条件を述べてください』
「第一に、人格複製、脳内処理傾向の抽出、生存形態を害する処理は行わない。第二に、俺自身が確認した範囲の規約解説を、公開ログまたは文書として提供するにとどめる。第三に、利用者全体が参照でき、管理者が改ざんできない保全記録にする。第四に、コトハの翻訳機構としての注記を併記する」
俺は少し考え、付け加えた。
「第五に、俺はいつでも協力を停止できる」
審査室がざわついた。
管理者の気配が濃くなる。
『それは契約対象化ではなく、任意協力です』
「そうです」
『管理効率が低い』
「でしょうね」
『資源回収率も低い』
「第一階層で、その本音はもう記録されています」
審査長の仮面に、わずかな亀裂が入ったように見えた。
コメント欄が沸く。
《任意協力案!》
《人格複製なし》
《改ざん不能の規約解説》
《これなら利用者も助かる》
《管理者は嫌がりそう》
《効率より同意》
審査長が沈黙する。
そして、ゆっくりと言った。
『第六問』
『あなたは、完全読了者権限を保持したまま、任意協力者として活動することを望むのですか』
「はい」
『その場合、管理者にとって危険な例外であり続けます』
「そうでしょうね」
『自覚していますか』
「しています」
『なぜ、そこまでして権限を保持するのですか』
俺は赤ペンを見た。
手首は拘束されている。
でも、赤ペンは机の上にある。
あの赤い線で、俺はスライムを止めた。
申立書を守った。
和解案の曖昧な言葉を剥がした。
「権限が欲しいからじゃない」
俺は言った。
「誰かが読まないままサインさせられそうになったとき、止める人間が必要だからです」
審査長が問う。
『それはあなたでなければなりませんか』
「俺である必要はない」
俺は正直に答えた。
「でも、いま読んでいるのは俺です」
白い審査室が静まり返る。
「いつか、ほかにも読む人が増える。榛名さんたちみたいに。コメント欄で条文を探してくれた人たちみたいに。そのときは俺だけじゃなくなる」
俺は審査長を見る。
「それまで、俺は読む」
コトハが、証言席で小さく息を呑んだ。
審査長の仮面が沈黙する。
『審査を一時停止します』
『審査体による協議に移行します』
椅子の拘束が少し緩んだ。
俺は息を吐いた。
全身が汗で濡れている。
白い部屋なのに、暑い。
マドカが隅の席から、にこりと笑った。
嫌な笑みだった。
『追加証拠が提出されました』
「追加証拠?」
空中に映像が開いた。
東都駅前。
黒い門。
雨。
そこに、俺の元上司、久我原課長が映っていた。
顔色は悪いが、生きている。
彼は記者たちに囲まれていた。
『朝倉ユウマは、会社でも問題のある人物でした』
『契約書を盾にして周囲を困らせる』
『協調性がない』
『退職時にも会社に不当な請求をしようとしていた』
『迷宮内でも、私から救助費用と称してポイントを奪いました』
リクトのコメントが荒れる。
《課長!?》
《こいつ助けてもらったのに》
《救助費用は規約通りだろ》
《外部証言か》
《印象操作だ》
映像の中で、久我原課長は深刻な顔を作っている。
『彼は危険です』
『自分だけが正しいと思い込むタイプです』
『そんな人間に、迷宮の権限を持たせていいのでしょうか』
審査長の声が響く。
『外部人物証言として受理しました』
『争点、朝倉ユウマの権限保持適格性』
俺は拳を握った。
助けた相手に刺される。
まあ、そんな気はしていた。
久我原課長は、俺にとって過去だ。
だが、管理者は過去まで契約材料にしてくる。
白い審査室の奥に、新しい扉が開いた。
『証人召喚を開始します』
『証人、久我原マサト』
扉の向こうから、見覚えのある男が現れた。
脂ぎった額。
高そうに見えるが安っぽい腕時計。
相手が黙るまで大きい声を出せば勝ちだと思っている種類の人間。
久我原課長は、俺を見て笑った。
「朝倉くん」
その声を聞いた瞬間、会社の会議室の匂いが蘇った。
蛍光灯。
退職合意書。
読まなくていい、という声。
課長は証人席に立つ。
「君には、契約書を読むしか能がない」
俺は赤ペンを見た。
そして、ゆっくり笑った。
「課長」
「何だ」
「その証言、最後まで読ませてもらいます」
白い審査室に、次の条文が浮かんだ。
『証人尋問を開始します』




