アメリケーヌパシュタ
カラン――。
夕暮れの柔らかな灯りが、Rack of Luckの窓から差し込む。
厨房では鍋から立ち上る湯気が静かに揺れ、カウンターには磨き上げられたグラスが並んでいた。
タクは一つひとつ確認するようにグラスを磨き終えると、小さく息を吐く。
「よし。」
ちょうどその時。
カラン。
扉が開いた。
「こんばんは。」
入ってきたのは、少し珍しいお客さんだった。
全身は艶のある深緑色。
身体は人型だが、どこか海鼠を思わせる柔らかな質感。
そして口元には、タコの足のような細い触腕が幾重にも揺れている。
唇を隠すようにうねうねと動くその触腕は、一見不気味にも見える。
だが、その一本一本は驚くほど器用で、小さな鞄を肩から外し、椅子を引き、髪を整える仕草まで自然にこなしていた。
「いらっしゃいませ。」
「こんばんは、マスター。」
触腕の奥から落ち着いた女性の声が響く。
「今日はねぇ……。」
席へ腰掛けながら笑う。
「何かガッツリしたものが食べたい。」
「それと。」
「辛口の白ヴァインをお願い。」
「辛党でね。」
タクは少し考えた。
そして静かに笑う。
「でしたら。」
「今日はパシュタはいかがでしょう。」
「おっ。」
女性の触腕がぴくりと揺れた。
「いいねぇ。」
「今日はちょっと奮発できる日なんだ。」
「何か。」
「背伸びした料理なんてできるかい?」
タクは頷く。
「でしたら。」
「アメリケーヌパシュタをお作りします。」
「名前からして旨そうだ。」
「楽しみにしてるよ。」
タクは厨房へ入る。
まず取り出したのは、大エヴィ。
立派な殻を持つ高級甲殻類だった。
包丁を入れ、丁寧に身を外す。
ぷりっとした身は氷水へ。
殻だけを別の鍋へ入れる。
さらに小エヴィの殻も加えた。
「まずは香りから。」
鍋へ少量の油。
殻を焼く。
じゅわぁぁ……
赤かった殻がさらに色付き、香ばしい匂いが立ち始める。
甲殻類特有の甘い香り。
そこへ刻んだニャンニク。
香草。
炒める。
店中へ香りが広がる。
「いい匂い……。」
女性客が思わず呟いた。
続いて。
ヴランディアを一気に注ぐ。
ボッ。
青い炎が一瞬だけ立ち上がる。
アルコールだけが燃え。
芳醇な香りだけが残る。
そこへトメト。
水。
じっくり煮込む。
ことことこと……
時間をかけて旨味を引き出していく。
「これが。」
タクは木べらで混ぜながら言う。
「アメリケーヌソースの土台になります。」
女性は興味津々だった。
「殻から?」
「はい。」
「一番旨味が詰まっているんです。」
十分に煮込んだところで。
タクは丁寧に漉していく。
真っ赤なソースだけが器へ落ちる。
さらりとしているのに。
濃厚な香りが鼻をくすぐる。
「贅沢だねぇ……。」
女性は思わず笑う。
「殻を使うなんて。」
「全部使い切る料理なんですね。」
「ええ。」
タクは微笑んだ。
「食材への感謝ですね。」
続いて。
鍋へ湯。
塩。
パシュタを投入する。
ぐるりと菜箸で混ぜる。
「踊ってますね。」
女性が言う。
「はい。」
「茹でている間も均一になるように。」
時間を見計らい。
少し芯を残して引き上げる。
熱々のまま。
アメリケーヌソースへ。
さっと絡める。
赤いソースが一本一本へ美しくまとわりついた。
最後に。
大エヴィの身を焼く。
表面だけ軽く火を入れ。
中心はふっくら。
パシュタの上へ。
香草を散らし。
黒胡椒を一振り。
皿へ盛り付ける。
「お待たせしました。」
皿が置かれた瞬間。
女性は息を呑んだ。
「綺麗……。」
赤いソース。
白い大エヴィ。
緑の香草。
湯気とともに立ち上る海の香り。
「これは……。」
「芸術だね。」
タクは白ヴァインを取り出した。
「本日は辛口をご希望でしたので。」
透明なグラスへ注ぐ。
黄金色の液体。
香りは控えめ。
その分、凛とした酸味を感じさせる。
「この料理には。」
「この白ヴァインが一番よく合います。」
女性はまずヴァインを一口。
きりっとした酸味。
そして。
パシュタを巻き取る。
口へ。
「…………。」
静かだった。
しばらく何も言わない。
ただ目を閉じる。
ゆっくり噛む。
エヴィの甘味。
殻から取った濃厚な旨味。
トメトの酸味。
ヴランディアの香り。
全部が一つになって押し寄せる。
そして。
白ヴァインをもう一口。
「……。」
女性はゆっくり目を開けた。
「反則だ。」
タクは首を傾げる。
「反則?」
「これは。」
「白ヴァインが止まらない。」
思わず笑ってしまう。
「一口食べる。」
「飲む。」
「また食べる。」
「また飲む。」
「永遠に続けられる。」
タクもつられて笑った。
「ありがとうございます。」
女性はフォークを置き。
嬉しそうに言う。
「このソース。」
「全部飲みたいくらいだ。」
「パォンが欲しくなるねぇ。」
「次はご用意します。」
「ぜひ。」
店内には他のお客様も増え始めていた。
それぞれが料理を楽しみ。
静かに酒を傾ける。
誰かが笑い。
誰かが仕事の疲れを癒やし。
誰かが今日という一日を締めくくっていた。
女性は最後の一口まで綺麗に食べ終える。
皿にはソース一滴残っていない。
「ごちそうさま。」
「最高の作品だったよ。」
「料理ってのは腹を満たすだけじゃない。」
「今日は少しだけ。」
「贅沢な気持ちになれた。」
タクは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
女性は立ち上がる。
触腕で器用に財布を開き。
代金を置く。
「また来るよ。」
「今度は。」
「今日よりもっと贅沢な日にね。」
「お待ちしております。」
カラン。
扉が閉まる。
店内には再び穏やかな空気が流れた。
タクは空になった皿を見つめ、小さく笑う。
「料理も、お酒も。」
「誰かの一日を少しだけ豊かにできたなら。」
「それで十分ですね。」
厨房では鍋が静かに温もりを残し。
カウンターには白ヴァインの香りがまだわずかに漂っていた。
Rack of Luckの夜は、今日も静かに更けていく。




