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最初の皿

カラン――。


木の珠をそっと穴から外した瞬間。


ヴァイン酒の香りがゆっくりと薄れていく。


若返っていた石壁は、再び見慣れた地下セラーへ戻っていった。


棚に並ぶ酒樽。


ランタンの灯り。


静かな地下室。


手には、先ほど受け取った古びた銀色のデキャンタ。


オヴィス家の家紋が刻まれた、飾り気のない一本だった。


「……戻ってきましたか。」


タクは静かに息を吐いた。


夢ではない。


あの酒も。


あの約束も。


このデキャンタが、すべて現実だったと教えてくれる。


タクはデキャンタを大切そうに棚へ置いた。


ふと、その視線が木の珠へ向く。


「……もう一度だけ。」


珠を手に取る。


誰にも言えない秘密。


誰にも見せられない酒蔵。


それでも、もう一度だけ会いたかった。


木の珠を穴へはめる。


かちり。


淡い光。


ヴァインの香り。


静かに景色が揺れる。


そして。


向こう側の酒蔵。


ブロードが腕を組んで笑っていた。


「おう。」


「戻ってきたか。」


「はい。」


タクも自然と笑顔になる。


「少しだけ料理を持ってきました。」


「料理?」


「ええ。」


タクは小さな木皿を取り出す。


皮付きのポトテを茹でて潰し、


軽く潰したポーチドタメェゴォ。


少量のマヨネーズ。


黒胡椒。


刻み香草。


丁寧に混ぜ合わせ、


最後に少しだけ香草を散らす。


見た目は驚くほど質素だった。


「……クズポトテを蒸したのか?」


ブロードは拍子抜けしたように言う。


「はい。」


「私の世界では。」


「これも立派なファーストプレートです。」


「お酒との相性を考えた一皿ですね。」


「なるほど。」


「酒の前菜か。」


「ええ。」


「どうぞ。」


ブロードは恐る恐る木匙を口へ運ぶ。


「……。」


一口。


「……。」


二口。


「……。」


三口目で、思わず笑みがこぼれた。


「なんだこれ。」


「ポトテだよな?」


「はい。」


「同じポトテとは思えねぇ。」


「滑らかで。」


「ほんのり甘くて。」


「このタメェゴォの塩気が……。」


「酒を呼ぶ。」


思わずヴィールを一口飲む。


そしてまたポトテサラダを食べる。


「……。」


「ははっ。」


「酒もそうだな。」


「そのままでも旨い。」


「だが。」


「少し手を加えるだけで。」


「まるで別物になる。」


タクも微笑む。


「料理も同じです。」


「だから私は。」


「料理もお酒も好きなんです。」


ブロードは頷いた。


「俺もだ。」


「だから酒を残したかった。」


静かな時間が流れる。


ランタンの火が揺れる音だけが聞こえる。


酒蔵は不思議なくらい穏やかだった。


やがて。


ブロードは杯を静かに置いた。


「タク。」


「はい。」


「一つだけ約束してくれ。」


空気が少しだけ変わる。


「この酒蔵のこと。」


「誰にも話すな。」


タクは驚く。


「誰にも……ですか?」


「エレノアさんのような信用できる人にも?」


ブロードは静かに頷いた。


「誰か知らないが、その人を信用してねぇ訳じゃねぇ。」


「だが。」


「俺だったら利用する。」


タクは黙って耳を傾ける。


「未来を知る奴。」


「時間を越えられる酒蔵。」


「百年寝かせた酒。」


「そんなもん。」


「王様でも欲しがる。」


「貴族も。」


「商人も。」


「軍も。」


「誰も放ってはおかねぇ。」


ブロードは少し笑った。


「秘密ってのはな。」


「隠すためにあるんじゃねぇ。」


「守るためにある。」


「この酒蔵を。」


「お前を。」


「俺を。」


「全部守るためだ。」


タクは静かに考え込む。


エレノアの顔が浮かぶ。


(エレノアさんなら。)


(相談すれば。)


(きっと力になってくださる。)


そんな気持ちが胸をよぎる。


しかし。


同時に思う。


(エレノアさんだからこそ。)


(心配をかけてしまう。)


(知ってしまえば巻き込んでしまう。)


(きっと、この秘密を一緒に背負わせてしまう。)


タクはゆっくりと顔を上げた。


「……分かりました。」


「約束します。」


「誰にも話しません。」


ブロードは満足そうに笑う。


「ありがとう。」


二人は杯を持つ。


カチン。


静かな乾杯の音。


その音は、


長い時を越えて交わされた約束の音でもあった。


タクは木の珠へ歩く。


「また来ます。」


「ああ。」


「次は新しい酒でも考えよう。」


「それと。」


ブロードは空になった木皿を持ち上げた。


「このポトテサラダ。」


「また食わせてくれ。」


タクは笑う。


「もちろんです。」


「約束ですよ。」


木の珠を外す。


ヴァインの香り。


揺れる景色。


酒蔵は再び現代へ戻った。


静かな地下。


誰もいない。


タクはデキャンタをそっと棚へ置いた。


「……秘密。」


ぽつりと呟く。


「守らないと。」


その言葉は、


自分自身への誓いでもあった。


ゆっくり階段を上がる。


カラン。


入口のベルが鳴った。


「こんにちは。」


聞き慣れた優しい声。


エレノアだった。


「おや。」


「今日は休みだったね。」


「ええ。」


「少しだけ片付けをしていました。」


タクはいつも通り微笑む。


「祭りで随分使いましたから。」


「なるほどねぇ。」


エレノアは店内を見回した。


「綺麗になったじゃないか。」


「ありがとうございます。」


「まだ少しだけやることはありますが。」


「今日はこれくらいで。」


エレノアは椅子へ腰掛けた。


「せっかく来たんだ。」


「何か軽く食べさせておくれ。」


「もちろんです。」


タクは厨房へ向かった。


先ほど作ったばかりの味を思い出す。


ポトテを潰し。


ポーチドタメェゴォを刻み。


香草を散らし。


マヨネーズ。


黒胡椒。


優しく混ぜ合わせる。


器へ丁寧に盛り付けた。


「お待たせしました。」


エレノアは一口食べる。


「……。」


少しだけ目を細めた。


「おや。今日は優しい味がするね。」


タクは少し照れ笑いを浮かべる。


「そうですか?」


「うん。」


「何か嬉しいことでもあったのかい?」


その問いに。


タクは一瞬だけ言葉を失う。


ブロード。


乾杯。


約束。


古びた酒蔵。


すべてが頭をよぎる。


「……。」


「いえ。」


「少しだけ。」


「料理が、もっと好きになった気がします。」


エレノアは穏やかに笑った。


「それなら何よりだ。」


「料理人にとって。」


「それ以上の宝物はないからね。」


タクも笑った。


「はい。」


その笑顔の奥にある秘密は。


まだ誰も知らない。


酒棚で静かに眠る木の珠だけが。


今日も変わらず、


二人の約束を見守っていた。

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