ジィンジャークッキー
昼前。
開店までは、まだ二時間ほどある。
Rack of Luckの店先では、タクが看板を磨き、床に水を打って箒で丁寧に掃いていた。
空はよく晴れている。
穏やかな昼だった。
その時だった。
店の前に、一人の少女が立ち止まる。
黒いゴスロリ調のドレス。
大きな魔女帽子。
腕には一本の箒。
そして――。
少女の頭は、首の上にはなかった。
ふわり。
身体の横を、頭だけが浮いている。
首の代わりには淡い紫色の魔力が帯のように揺れ、身体と頭を繋いでいた。
さらに頭の上からは、二本の柔らかな触角がゆっくり揺れている。
まるでカタツムリのような感覚器だった。
少女は店を見つめる。
一歩。
踏み出す。
やっぱり引っ込める。
また一歩。
帽子だけが入口へ近づき、身体はその場に残る。
その繰り返し。
(入ろう……。)
(でも……。)
(やっぱり……。)
緊張すると、頭と身体が離れてしまう癖らしい。
とうとう頭だけが三メートルほど先へ飛んでしまい、
「ひゃっ!?」
身体が慌てて追い掛ける。
その様子に、タクは思わず微笑んだ。
「こんにちは。」
少女はびくっと肩を震わせる。
「きゃあっ!」
頭だけがさらに高く舞い上がった。
「ご、ご、ごめんなさい!」
身体がぺこぺこ頭を下げる。
頭は空中で慌てて帽子を押さえている。
少しだけ滑稽で、
少しだけ可愛らしい。
やっと頭が身体へ戻ると、少女は深呼吸をした。
「……ここで。」
「悩みを解決してくれるって聞いて。」
「私……魔法大学校二年のスネイリリーと申します。」
ぺこり。
「明日……箒飛行試験なんです。」
「今年も落ちたら……留年なんです。」
タクは掃除の手を止めず、穏やかに聞いていた。
「なるほど。」
「ですが。」
「今はまだ開店前なんです。」
少女は肩を落とす。
「……ですよね。」
「夕方。」
「店を開けたら来てください。」
「その時なら、ゆっくりお話を聞けます。」
スネイリリーは少し驚いたような顔をした。
「……待ってても、いいんですか?」
「もちろん。」
「でも、その代わり。」
タクは笑う。
「それまでは、私も仕事がありますので。」
「はいっ。」
少女は何度も頭を下げ、
今度は頭が飛ばないよう帽子を押さえながら帰っていった。
————————
夕暮れ。
ランプに灯がともる。
Rack of Luckが静かに開店する。
扉の鈴が鳴った。
カラン……
「いらっしゃいませ。」
昼間の少女だった。
「こんばんは……。」
今度は頭はちゃんと身体の上にある。
席へ案内すると、エレノアが優しく笑った。
「若いお客さんだねぇ。」
「ご注文はいかがする?」
少女は少し考えて、
「ホットミノレクだけ……。」
そう答えた。
酒ではない。
エレノアは嬉しそうに頷く。
「もちろん。」
「バーは酒だけの場所じゃない。」
「温かい飲み物だけでも、大歓迎さ。」
タクはミノレクを温めながら尋ねた。
「飛行試験なんですね。」
「はい。」
「もう3回落ちました。」
「飛べないんですか?」
少女は首を横に振る。
「飛べます。」
「じゃあ。」
「誰もいない場所なら?」
「飛べます。」
「試験官がいると?」
スネイリリーは視線を落とした。
「……飛べません。」
「身体が固まって。」
「頭まで離れちゃって。」
「箒から落ちちゃうんです。」
タクは静かに頷いた。
「なるほど。」
「技術ではないんですね。」
「……はい。」
「怖いんです。」
店内は静かだった。
タクは地下セラーではなく、食材棚へ向かった。
一本の、大きく節くれ立った根を取り出す。
スネイリリーが目を丸くする。
「ま、マンドラゴラの根っ!?」
タクは答えない。
人差し指を口元へ。
「しー……。」
その一言だけ。
スネイリリーは思わず笑ってしまった。
「な、なんですか、それ。」
「秘密です。」
タクは包丁を握る。
コトン。
コトン。
薄く切り分ける。
さらにボウルへ。
コォームギ粉。
砂糖。
タメェゴォの黄身。
少量のヴァター。
そして刻んだ"マンドラゴラ"。
「な、何を作るんですか?」
タクはまた笑う。
「まだ秘密です。」
生地をまとめ、
丁寧に型を抜く。
並べる。
オーブンへ。
甘くて少し刺激のある香りが店いっぱいへ広がっていく。
エレノアが鼻をくんくんさせた。
「いい香りだねぇ。」
その間にタクはもう一つ準備する。
クラッシュアイス。
ライムの果汁。
メロソシロップ。
そしてほんの少しだけ、先ほどの"マンドラゴラ"を煮出したシロップ。
バーブレンダーが静かに回る。
シャァァァ……
氷が雪のようになっていく。
淡い翡翠色。
冷たく、美しい一杯。
「どうぞ。」
スネイリリーは恐る恐る尋ねる。
「……お酒ですか?」
「いいえ。」
「明日は試験ですから。」
「ノンアルコールです。」
少女は安心したように笑った。
一口。
「……!」
「美味しい……!」
リャイムの爽やかさ。
メロソの優しい甘さ。
最後にほんの少しだけ舌に残る温かな刺激。
「さっきの"マンドラゴラ"ですか!?」
タクはまた笑った。
「秘密です。」
やがてクッキーも焼き上がる。
「こちらもどうぞ。」
一枚。
さくり。
ほろり。
甘さの中に、ほんのり温かな香り。
スネイリリーは幸せそうに目を細めた。
「これ……好きです。」
タクは紙袋へ数枚包む。
「試験の前に一枚食べてください。」
「全部じゃなくていいです。」
「一枚で十分。」
スネイリリーは不思議そうに首を傾げる。
「これで受かりますか?」
タクは静かに首を横へ振った。
「私にできるのは。」
「おまじないだけです。」
「飛ぶのは。」
「あなたです。」
少女は紙袋を胸へ抱いた。
目にはもう昼間の不安はなかった。
「……はい。」
「頑張ってきます。」
頭はもう飛ばなかった。
帽子を押さえることもなく、
真っ直ぐ歩いて店を出て行く。
————————
翌日の昼。
まだ開店準備中。
勢いよく扉が開いた。
「マスターっ!!」
頭だけが先に飛び込んでくる。
数秒遅れて身体が走ってきた。
「受かりました!!」
「試験官に!」
「今年一番きれいな飛び方だったって褒められました!!」
嬉し涙が頬を伝う。
タクは笑顔で拍手した。
「おめでとうございます。」
スネイリリーは何度も頭を下げる。
「全部、おまじないのおかげです!」
タクは優しく首を振った。
「違います。」
「それは。」
「あなたの実力です。」
「私は、ほんの少し。」
「背中を押しただけですよ。」
スネイリリーは胸に抱えた紙袋を見つめ、そして大きく頷いた。
「……はい。」
「でも。」
「その一歩を踏み出せたから、私は飛べました。」
そう言って笑った少女の頭は、もう一度も身体から離れることはなかった。




