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ロッシーニ風ステーキ

夜の帳がゆっくりと魔王国を包み込み、『Rack of Luck』にも柔らかな灯りがともり始めていた。


磨き上げられたグラスには琥珀色の光が揺れ、静かな弦楽器の音色が店内をゆるやかに満たしている。


入口近くでは、ガルムが焼きたてのソージーセを頬張りながらヴィールを楽しみ、窓際では旅猫がジィンのカクテルを片手に夜景を眺めていた。


カウンターの端ではミズハが白ヴァインを静かに味わい、奥の席ではミズネが帳面を閉じ、今日最後の一杯をゆっくりと口へ運ぶ。


誰もが思い思いの時間を過ごしている。


その穏やかな空気を乱さぬように――。


カラン。


澄んだベルの音が、小さく店内へ響いた。


何人かの視線が自然と入口へ向く。


扉の向こうに立っていたのは、一人の若い女性だった。


真紅のワンピース。


羽飾りをあしらった同色の帽子。


上質な革の鞄。


白銀に輝く羽毛をまとい、すらりと伸びた脚で歩くその姿は、一目で良家の令嬢と分かる。


けれど、その足取りには肩肘を張った気配がない。


軽やかで、どこか鳥が野原を歩くような自由さがあった。


その少し後ろを、白い毛並みを整えた羊獣人の執事が静かに付き従っている。


店内の客たちは、彼女たちを見つめるのはほんの一瞬だけだった。


すぐにグラスへ視線を戻し、それぞれの夜へ帰っていく。


誰が来たのか。


どんな身分なのか。


そんなことを詮索する者はいない。


それが『Rack of Luck』では、ごく自然な振る舞いだった。


タクは穏やかな笑みを浮かべ、一歩前へ出る。


「こんばんは。ようこそ、『Rack of Luck』へ。」


令嬢は店内をゆっくり見回した。


木の温もりが残るカウンター。


柔らかな灯り。


静かに酒を楽しむ客たち。


その空気をひととおり眺めると、小さく口元を緩めた。


「思っていたより……ずっと素敵なお店ね。」


その言葉に、ガルムがヴィールを口へ運びながら口元だけで笑う。


令嬢は帽子を脱ぐと、後ろの執事へ預けた。


肩から力が抜けたように、小さく息をつく。


「今日は私の成人祝いなの。」


天井を見上げながら苦笑した。


「屋敷では盛大に祝ってもらったわ。」


「でも、親戚に貴族、それに年配の方ばかりで……。」


肩をすくめる。


「淑女らしくしなさい。」


「家名に恥じないように。」


「姿勢を正しなさい。」


「笑い方に気を付けなさい。」


一つ数えるたびに、少しずつ肩が落ちていく。


そして最後には、ふっと笑った。


「正直、息が詰まっちゃった。」


執事が困ったように目を細める。


「お嬢様。」


「はいはい、分かってるわ。」


そう返すと、小さく舌を出して笑う。


その笑顔には、まだ少女らしい無邪気さが残っていた。


タクは胸に手を添え、静かに一礼する。


「ご成人、おめでとうございます。」


令嬢の表情がふっと和らぐ。


「ありがとう。」


その言葉を受け取ってから、タクは穏やかな口調のまま続けた。


「恐れ入ります。」


「成人証を拝見してもよろしいでしょうか。」


令嬢はぱちりと目を瞬かせる。


「え?」


「私に?」


「はい。」


「当店では、お酒をご提供する前に、皆様へお願いしております。」


執事はすぐに懐から一枚の金属製プレートを取り出した。


「本日、正式に成人登録を済ませてまいりました。」


タクは両手で受け取り、丁寧に刻印を確かめる。


魔法印。


登録番号。


発行印。


一つひとつを確認すると、すぐに両手で返した。


「ありがとうございます。」


令嬢は少し驚いたように笑う。


「私が貴族だからって、特別扱いしないのね。」


タクは穏やかに首を横へ振った。


「皆様に、同じ時間をお過ごしいただきたいと思っております。」


その一言に、執事は小さく目を細めた。


「……素晴らしいお店でございます。」


令嬢も嬉しそうに笑う。


「ますます気に入ったわ。」


タクは静かに席へ案内する。


腰を下ろした令嬢は、店内を眺めながら楽しげに言った。


「それじゃあ――。」


「このお店で一番良いお料理をお願い。」


「あなたの腕、見せてもらうわ。」


その言葉に、一瞬だけ店内の空気が静まる。


ガルムはヴィールを置き、ミズハは白ヴァインをゆっくり揺らした。


誰も口を挟まない。


この店では、客とマスターのやり取りを邪魔しないのが暗黙の約束だった。


タクは少しも表情を変えず、穏やかに頷く。


「かしこまりました。」


「今夜、一番良いお料理をご用意いたします。」


令嬢は満足そうに笑い、続ける。


「でも、お酒は強すぎるのは苦手。」


「料理に合わせて選んでほしいの。」


「野菜はあまり好きじゃないし、お魚も今日は気分じゃない。」


「ヴタ肉も遠慮したいわ。」


「お肉なら……そうね。」


「柔らかいものがいい。」


執事が申し訳なさそうに頭を下げる。


「わがままを申します。」


しかしタクは、柔らかな笑みを崩さなかった。


「ありがとうございます。」


「お好みを教えていただけるのは、とても助かります。」


令嬢は少し照れくさそうに笑う。


「そう言われると、わがままじゃなく聞こえるわね。」


店内に小さな笑いが広がった。


タクは一礼すると、静かに厨房へ向かう。


その背中を見送りながら、エレノアがそっと歩み寄った。


「さて。」


「どうする?」


タクは答えず、ゆっくりと食材棚へ視線を巡らせる。


瓶が並ぶ棚の前で、その目が一つの瓶に止まった。


黒く縮れた乾燥茸。


以前、マッシュルールを届けてくれた女性が、別れ際に手渡してくれたものだ。


――『珍しい茸なんだ。』


――『いつか、本当に特別な日に使っておくれ。』


その声が胸によみがえる。


蓋を開ける。


ふわり、と。


深く甘く、湿った森を思わせる芳香が静かに立ちのぼった。


エレノアが微笑む。


「トリフだね。」


「市場でも滅多に出回らない。」


タクも頷く。


「今日は、この子にも力を借ります。」


続いて冷蔵庫を開く。


昼に仕入れたばかりのヴシ肉。


その中から、きめ細かなヒレ肉をそっと持ち上げた。


指先で弾力を確かめる。


しっとりとした艶。


繊維の細かさ。


今日という夜を託すには十分だった。


「これですね。」


白ヴァインをほんのわずかにまとわせ、静かに休ませる。


急がない。


焦らない。


最高の一皿は、火を入れる前から始まっている。


その間にタクが取り出したのは、よく冷えた白スパークリングヴァインだった。


栓を抜くと、細かな泡が静かに立ちのぼる。


黄金色の液体をグラスへ注ぎ、小さく切り分けたウェットチーズュを添える。


余計な手は加えない。


素材そのものを楽しめるように。


タクは令嬢の左手側へ、静かにグラスを置いた。


「お料理が整うまで、こちらをどうぞ。」


令嬢は恐る恐るグラスを持ち上げる。


唇に触れた細かな泡が心地よく弾け、爽やかな香りが鼻へ抜けた。


一口。


続いてチーズュを少し。


そして、もう一度。


令嬢は目を見開いた。


「……美味しい。」


思わずもう一口。


「さっきまで屋敷で飲んでいたものより……ずっと。」


隣で執事も静かに味わい、小さく頷く。


「ええ。」


「見事な取り合わせでございます。」


厨房の奥でその様子を見届けたタクは、胸の内だけで小さく息をついた。


(よかった。)


(最初の一杯は、この子で正解だった。)


その安堵を表情には映さず、静かにフライパンへ向き直る。


今夜という特別な夜にふさわしい、一皿を仕上げるために。


今夜という特別な夜にふさわしい、一皿を仕上げるために。


タクは静かに深呼吸をした。


新しく鍛え直されたフライパンを火に掛ける。


急がず、焦らず。


鉄がゆっくりと熱を蓄えていく音を待つ。


やがて小さく頷くと、ヴァターをひとかけ落とした。


じゅわり――。


淡い泡が静かに広がり、乳の甘い香りが厨房を包む。


まだ肉は置かない。


火を見る。


泡を見る。


香りを確かめる。


そして。


「……今ですね。」


そっとヴシ肉を置いた。


ジュゥゥゥ……


店内に、心地よい焼き音が響く。


賑やかな話し声さえ、その音を邪魔しないよう自然と小さくなっていった。


タクは肉を動かさない。


焼き色は、育てるもの。


焦って返せば、肉は応えてくれない。


静かにヴァターをすくい上げる。


一匙。


また一匙。


黄金色の泡をまとわせるように、何度も肉へ掛けていく。


香ばしい香りが少しずつ広がり、店中の空気をゆっくりと満たしていった。


「……。」


ガルムが思わず鼻を鳴らす。


「今日はまた、いい匂いだ。」


ミズハも白ヴァインのグラスを揺らしながら、小さく目を細めた。


「香りまで、ご馳走ですね。」


旅猫は耳をぴくりと動かす。


「森の中みたいだにゃ……。」


誰も大きな声では話さない。


その焼き音を聞いていたかった。


そんな空気が店中に流れていた。


執事もまた、静かに厨房を見つめている。


無駄な動きが一つもない。


火加減を見つめる視線。


肉へヴァターを掛ける手首の角度。


皿を置く位置までが美しい。


思わず、小さく息を漏らした。


「……火入れが、美しい。」


令嬢の耳元へ、そっと囁く。


「お嬢様。」


「この方は、本物でございます。」


令嬢は答えなかった。


ただ、まっすぐ厨房を見つめている。


先ほどまでの無邪気な少女の瞳ではない。


一人の食べ手として。


料理人と向き合う者の眼差しへ変わっていた。


やがてタクは静かに肉を返す。


飴色に焼き上がった表面が灯りを受けて艶やかに輝いた。


続いて取り出したのは、昼に仕入れたばかりのドォリ肉の肝。


塩と胡椒だけを軽くまとわせ、肉の隣へ並べる。


こちらも焦らず。


ヴァターをまとわせながら、ゆっくりと火を通していく。


香りがさらに深くなる。


その芳醇さに、誰もが自然と厨房へ意識を向けていた。


やがてタクは火を弱め、静かに肉を取り上げる。


すぐには切らない。


木の網へ移し、そのまま休ませる。


肉汁が落ち着く時間もまた、料理の一部だった。


エレノアは少し離れた場所から、その姿を見つめる。


(もう、本当に教えることが少なくなったね。)


そんな思いが胸をよぎり、自然と口元が緩んだ。


肉を休ませている間、タクは棚から黒い瓶を手に取る。


乾燥させておいたトリフ。


蓋を開けると、深い森を思わせる香りがふわりと立ち上った。


「これは……。」


ミズハが思わず息を吸う。


ガルムもヴィールを置いた。


「初めて嗅ぐ香りだ。」


「森の奥で雨上がりを迎えたようですね。」


ミズネが静かに呟く。


タクは包丁を手に取る。


ガルムが鍛え直してくれた一本。


刃が静かに滑る。


薄く。


さらに薄く。


向こうが透けるほど繊細に削られたトリフが、まな板へ静かに舞い降りていく。


ガルムは何も言わない。


だが、その目だけが少し誇らしげだった。


(ちゃんと使いこなしてるじゃねぇか。)


皿はあらかじめ温めてある。


冷たい皿は、料理の熱も香りも奪ってしまう。


エレノアから何度も教わった、大切な基本だった。


皿の中央へヴシ肉を置く。


隣には火入れを終えたドォリ肉の肝。


その上へ、一枚。


また一枚。


さらに削りたてのトリフを雪のように散らしていく。


香りが幾重にも重なった。


フライパンには肉汁が残っている。


そこへ赤ヴァインを注ぐ。


ジュワッ――。


立ち上る湯気。


ヴァターを落とし、木べらで静かに混ぜる。


艶を帯びたソースが、ゆっくりとまとまり始める。


「……よし。」


スプーンでそっとすくい、肉を囲むように細く流す。


決して主役を隠さない。


料理を引き立てるためだけの一筋。


最後の一滴まで、迷いはなかった。


続いて赤ヴァインを一本選ぶ。


栓を抜き、香りを確かめる。


少量だけグラスへ注ぎ、令嬢の前へ差し出した。


「お口に合うか、お確かめいただけますでしょうか。」


令嬢は自然と背筋を伸ばいていた。


グラスの脚を持ち、ゆっくり香りを確かめる。


一口。


静かに飲み込み、小さく頷いた。


「……ええ。」


「とても好き。」


タクは微笑み、静かにグラスを満たした。


その所作に、一切の無駄はない。


店内もまた、自然と静まり返っていた。


誰もが、この一皿の完成を待っている。


タクは温めた皿を静かに令嬢の前へ置いた。


「お待たせいたしました。」


「ロッシーニ風ステーキでございます。」


立ち上る湯気。


芳醇な香り。


令嬢は思わず息を呑んだ。


「……綺麗。」


ナイフを入れる。


抵抗もなく刃が滑り、閉じ込められていた肉汁が静かにあふれ出す。


一口。


ゆっくり噛む。


続いてドォリ肉の肝。


トリフ。


そして赤ヴァイン。


それぞれが重なり、一つの余韻となって口いっぱいに広がった。


令嬢は何も言わない。


もう一口。


さらにもう一口。


やがて小さく息を吐き、微笑んだ。


「……美味しい。」


少し間を置いて、もう一度。


「すごく、美味しい。」


その言葉に、執事は静かに目を閉じた。


心から安堵したように。


料理はゆっくりと皿から姿を消していく。


赤ヴァインも少しずつ減っていく。


令嬢は時折驚き、時折笑いながら、一皿との時間を惜しむように味わっていた。


やがてフォークを静かに置く。


「このお店……。」


店内へ視線を巡らせ、まっすぐタクを見る。


「この辺りで、一番よ。」


ガルムがヴィールを置いた。


ミズハは静かに微笑み、旅猫の耳がぴくりと動く。


執事だけが困ったように苦笑した。


「お嬢様……屋敷の料理長がお聞きになれば、きっと落ち込んでしまわれます。」


令嬢は肩をすくめる。


「だって、本当なんだもの。」


タクは静かに一礼した。


「身に余るお言葉です。」


そして、穏やかに続ける。


「ですが。」


「私が得意なのは、今日という一日に、一皿だけ全力を尽くすことです。」


「毎日、ご家族のお食事を支えておられる料理人様は、私などより、ずっと素晴らしい技をお持ちです。」


「その日の体調を見て。」


「季節を考え。」


「毎日の献立を整え続ける。」


「それは、一皿を作る以上に難しい仕事だと思っています。」


執事はゆっくりと頭を下げた。


「……ありがとうございます。」


「そのお言葉だけで、料理長も報われることでしょう。」


令嬢は少し照れくさそうに笑う。


「そうね。」


「帰ったら、ちゃんと『ありがとう』って伝えてみる。」


その笑顔を見て、タクも静かに微笑んだ。


料理が運ばれなくなった卓には、穏やかな静けさだけが残っていた。


余韻を楽しむように、令嬢は赤ヴァインをもう一口だけ含む。


先ほどまで胸を張っていた少女の表情は、どこか柔らかくほどけていた。


タクは温めておいたティーチャを、小さな白いカップへ注ぐ。


湯気とともに、優しい茶葉の香りが立ち上った。


「お口直しでございます。」


令嬢は両手でカップを包み込む。


ふわりと立ち上る香りに目を細め、一口。


「……ほっとする。」


その一言に、タクは小さく会釈をした。


「最後まで楽しんでいただけましたら幸いです。」


令嬢はしばらくカップを眺めていた。


そして、不意に口を開く。


「ねえ、マスター。」


「はい。」


「実は……。」


少しだけ言葉を探すように視線を落とす。


「お母様、最近あまり食が進まないの。」


執事が静かに頷いた。


「ご病気というほどではございませんが、お疲れが続いておりまして。」


令嬢は続ける。


「今日は私のお祝いだったけれど……。」


「本当は、お母様にも笑って食べてもらいたいの。」


その言葉に、タクは静かに頷いた。


「承知いたしました。」


「ご体調やお好みを伺えましたら、その日に合わせたお料理をご用意いたします。」


令嬢の表情が、ぱっと明るくなる。


「本当に?」


「はい。」


「料理は、その日召し上がる方に合わせて仕立てるものだと思っています。」


「きっと、お力になれると思います。」


令嬢は嬉しそうに笑った。


「約束よ。」


「はい。」


「お待ちしております。」


そのやり取りを見守っていた執事が、静かに革袋を取り出した。


両手で丁寧に差し出す。


「こちらを。」


タクは中を見て、思わず目を丸くした。


金貨が何枚も重なっている。


「……いただき過ぎです。」


執事は穏やかに首を横へ振った。


「料理のお代だけではございません。」


「本日、お嬢様が心から笑って食事をされた時間。」


「その時間への感謝でございます。」


少しだけ微笑み、続ける。


「そして私からも。」


「長年お仕えしておりますが、このようなお顔を見ることは久しくございませんでした。」


「心より、お礼申し上げます。」


タクはしばらく革袋を見つめていた。


やがて両手で静かに受け取り、深く一礼する。


「ありがとうございます。」


「大切に、お店のために使わせていただきます。」


執事は満足そうに目を細めた。


「それが何よりでございます。」


令嬢は椅子から立ち上がる。


帽子をかぶり直し、くるりと振り返った。


「マスター。」


「はい。」


「今度は、こんなにわがまま言わないわ。」


店内から小さな笑いがこぼれる。


ガルムがヴィールを掲げた。


「いや、少しくらいは言ってもいいぞ。」


「料理人ってのは、それに応えるのも腕の見せどころだからな。」


令嬢は思わず吹き出した。


「じゃあ、少しだけ。」


「ええ。」


タクも笑う。


「その日一番のお料理をご用意いたします。」


令嬢は満足そうに頷いた。


「楽しみにしてる。」


扉が開く。


カラン――。


夜風が店内をそっと撫でていく。


令嬢と執事の姿が、ゆっくりと街の灯りへ溶け込んでいった。


扉が閉まり、静かな夜が戻る。


ガルムがヴィールを飲み干し、大きく息をついた。


「……すげぇ夜だったな。」


ミズハは白ヴァインのグラスを揺らしながら、穏やかに微笑む。


「料理だけじゃない。」


「心まで満たして帰した夜だった。」


旅猫は静かに尻尾を揺らす。


「だから、この店には帰って来たくなるんだにゃ。」


ミズネも帳面を閉じ、そっと頷いた。


「評判というものは、料理だけでは生まれません。」


「人が過ごした時間もまた、お店の味になるのでしょう。」


その言葉を聞きながら、エレノアはカウンター越しにタクを見つめた。


「ねぇ、タク。」


「今日は、最高の料理だったかい?」


タクは少しだけ考える。


視線を落とし、磨き上げられたグラスへ映る灯りを眺めた。


やがて静かに首を横へ振る。


「いいえ。」


「もっと美味しい料理は、きっとこれからも作れます。」


少しだけ笑う。


「でも。」


「今日という時間が、あのお二人にとって大切な思い出になってくれたなら。」


「それだけで十分です。」


エレノアは何も言わなかった。


ただ、嬉しそうに目を細める。


「……そうかい。」


「もう立派な、店のマスターだね。」


その一言だけで十分だった。


タクは照れくさそうに笑い、小さく頭をかく。


磨き終えたグラスを棚へ戻す。


カチリ、と澄んだ音が静かな店内へ響いた。


料理も。


酒も。


人と交わした言葉も。


その一つひとつが積み重なり、『Rack of Luck』という店の歴史になっていく。


タクは灯りに照らされた店内を見渡し、小さく微笑んだ。


「明日もまた。」


「誰かにとって、忘れられない一杯と、一皿を。」


その呟きに応えるように、磨き上げられたグラスが静かな光を返していた。

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