生ヒャムリュッケ
夕暮れ。
休憩を終えたタクは、厨房で小さく腕を組んでいた。
「今日は、これを使ってみようかな……」
手にしているのは、昼間に顔なじみの肉屋からおまけでもらった、生ヒャムの塊。
淡い桃色。
脂が白く細かく入り、薄く切れば向こう側が透けるほど柔らかい。
「いい物だねぇ。」
エレノアが覗き込む。
「ええ。でも、このまま出すだけじゃ面白くありません。」
少し考え込み、ふっと笑った。
「リュッケにしましょう。」
「ほう。」
「生ヒャムを細切りにして、ギュウリと合わせます。ギョマ油とニャンニクで香りを付けて、生タメェゴォの黄身を落として……。」
「酒は?」
「もちろん、よく冷えたヴィールです。」
エレノアは満足そうに頷いた。
「大正解。」
店の扉が開く。
カラン……
「いらっしゃいませ。」
夜の営業が始まった。
————————
今日も常連席は自然と埋まっていく。
奥にはネズミ獣人のミズネ。
「いつものを。」
「かしこまりました。」
ドライチーズュ。
そしてドライ・ジィンを使った一杯。
静かに置く。
「ありがとうございます。」
隣の端ではカッパ族のミズハ。
「今日はヴィールを。」
「はい。」
叩きギュウリを添える。
入口近くではドワーフのガルム。
「ヴィールとソージーセだ。」
「ポトテサラダもお付けします。」
「分かってんな。」
三人とも、それぞれの席で、それぞれの夜を楽しんでいる。
タクは穏やかに店を見渡した。
(今日は静かな夜になりそうですね。)
そう思った、その時だった。
カラン……
店内の空気が少しだけ変わる。
入ってきたのは、一人の獣人だった。
コノハガエルの獣人。
全身にぴったりと張り付く、滑らかな質感の黒い服。
肩には赤いマント。
目元は細く、歩き方にも無駄がない。
(……怪しい。)
(みためがスパイっぽい…)
(スパイですよって格好のスパイはいないよな?)
誰も口にはしない。
だが、全員がそう思った。
本人だけは堂々としている。
カウンターへ座る。
「マスター。」
少し訛ったような話し方。
「オススメヲ……オネガイ。」
カタコトだった。
タクは微笑む。
「承知いたしました。」
そのスパイ風の女性は鼻で笑う。
(この程度の文化か。)
(調査もすぐ終わりそうだ。)
そんな風に顔に書いてあった。
————————
タクは冷蔵庫から、生ヒャムを取り出す。
新しい深淵鋼の包丁。
刃が静かに滑る。
薄い。
どこまでも薄い。
向こう側の光が透けるほど。
その様子を見た女性が少しだけ目を細めた。
(……ほう。)
包丁の腕だけは悪くない。
そう思った。
生ヒャムを細切り。
ギュウリも細く。
同じ高さ。
同じ細さ。
美しく揃えていく。
そこへ。
ギョマ油。
削りたてのニャンニク。
塩。
胡椒。
軽く和える。
皿へ高く盛る。
中央を少し窪ませる。
そこへ。
黄金色の生タメェゴォの黄身。
とろり。
最後に黒胡椒を一振り。
横には、霜が付くほど冷えたヴィール。
静かに左側から置いた。
「本日のおすすめ、『リュッケ』です。」
女性は皿を見た。
「……。」
鼻で笑う。
(生肉料理か。)
(どこの国にもある。)
(この程度で驚くものか。)
そう思いながらスプーンを入れる。
黄身を崩す。
ゆっくり混ぜる。
一口。
「…………。」
止まった。
もう一口。
そして。
ヴィール。
ごくっ。
喉が鳴る。
次の瞬間。
「――――素晴らしい!!」
店中が振り向いた。
先ほどまでの片言はどこへやら。
「まず、この生ヒャム!!」
「塩味が決して前へ出ない!」
「しかし旨味だけが幾重にも重なり、まるで熟練した楽団が一斉に演奏を始めたかのようだ!!」
ミズネが目を丸くする。
ガルムがヴィールを吹きそうになる。
「さらにギュウリ!!」
「この瑞々しさ!!」
「まるで草原を駆け抜ける風!!」
「重くなりがちな肉料理へ見事な軽快さを与えている!!」
誰も止めない。
止められない。
「そしてこの黄身!!」
「全てを一つへまとめ上げる黄金の調和!!」
「いや!!」
「これは調和ではない!!」
「芸術だ!!」
ヴィールをごくり。
「そして、このヴィール!!」
「苦味が脂を洗い流し!!」
「次の一口を待ちきれなくさせる!!」
「永久機関だ!!」
ガルムが笑う。
「ははははは!!」
ミズハも肩を震わせる。
「面白い方ですね。」
女性は立ち上がった。
「マスター!!」
「おかわりだ!!」
「ありがとうございます。」
タクは落ち着いて作る。
二皿目。
三皿目。
四皿目。
その頃には周囲のお客も。
「私も。」
「俺も同じもの。」
「追加で。」
厨房は忙しくなる。
だがタクの手は止まらない。
十皿。
女性は最後まで綺麗に食べ切った。
ヴィールも十杯近く空いていた。
————————
満腹そうに椅子へもたれる。
「いやぁ。」
「美味しかった。」
急に肩の力が抜ける。
「自己紹介が遅れたね。」
誰も聞いていない。
「私はリフロギア=マニュカード。」
「マニュカード家の者なんだ。」
店内が静まる。
「今日はね。」
「このノクスアーク魔王国へ戦争を仕掛ける価値があるか、見に来てたんだ。」
ガルムのジョッキが止まる。
ミズネの手も止まる。
本人だけが気付いていない。
「最近さぁ。」
「ドン・ファーラのやつも、ずいぶん尻尾を見せ始めたって聞くし。」
この世界で『尻尾を見せる』とは、『弱みを見せる』ということわざだ。
「だから侵略するなら今かなぁって。」
タクは静かにグラスを磨いている。
「でもさ。」
リフロギアは笑う。
「やめた。」
「こんな料理を出す国を滅ぼすなんて馬鹿馬鹿しい。」
「もっと美味いものがあるかもしれない。」
「それを食べられなくなる方が損だ。」
ガルムが吹き出した。
「はははは!!」
ミズハも笑う。
「それは確かに。」
「ありがとうね。」
「マスター。」
男は金貨一枚を置いた。
「ごちそうさま。」
「また来る。」
立ち上がる。
その時だった。
いつもの一番端。
琥珀色のヴィースキーを静かに楽しんでいた、長身の人物が立ち上がる。
男か女か分からない。
長い外套。
深く被った帽子。
誰も名は知らない。
ただ常連だった。
お代をを机に置いて立つ。
「……。」
無言でリフロギアの後ろへ付く。
二人は並んで店を出た。
カラン……
扉が閉まる。
しばらくして。
店の外から。
「ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
悲鳴が聞こえた。
ガルムがヴィールを飲む。
「……気のせいだな。」
ミズネが眼鏡を直す。
「ええ。」
ミズハも静かに頷いた。
「風でしょう。」
タクは何も言わない。
ただ。
カウンターを拭き続けた。
閉店準備の音が響く頃には、その悲鳴も夜の静けさへ溶けて消えていた。




