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身だしなみ

次の休肝日がやってきた。


新しいバーツールを迎えてから六日。


『Rack of Luck』は以前にも増して賑わいを見せていた。


深淵鋼で仕立てられたメジャーカップ。


滑らかに酒を混ぜるバースプーン。


磨き上げられたストレーナー。


客は酒だけでなく、それらの道具にも目を留めるようになっていた。


「綺麗な仕事をする鍛冶師だな。」


「この店、前より雰囲気が良くなった。」


そんな言葉を聞くたびに、タクは胸の奥が少しだけ温かくなる。


褒められているのはガルムの仕事だ。


けれど、その道具で酒を作る自分まで認めてもらえたようで、素直に嬉しかった。


忙しい六日間だった。


酒を量り。


氷を割り。


静かに混ぜる。


客の話を聞きながら、一杯一杯を丁寧に仕上げていく。


気が付けば閉店。


そんな日々が続いていた。


それでも、不思議と疲れは感じない。


酒を作ることが楽しかった。


客が笑顔で帰っていく姿を見るたび、この店へ来て良かったと思えた。


————————


休肝日の朝。


営業日の喧騒が嘘のように、店内は静かだった。


窓から差し込む朝日が、磨き上げられたカウンターを柔らかく照らしている。


タクは洗い終えたグラスを一つずつ光へかざし、曇りがないことを確かめて棚へ戻した。


その様子を眺めていたエレノアが、湯気の立つ紅茶を差し出す。


「お疲れさま。」


「ありがとうございます。」


温かなカップを受け取り、一口飲む。


優しい香りが体へ染み渡った。


「どうだい。」


エレノアが穏やかに尋ねる。


「少し疲れたかい?」


タクは笑って首を横へ振った。


「いえ。」


「忙しかったですけど、不思議と全然。」


少し考えてから続ける。


「毎日が楽しくて。」


その答えを聞き、エレノアは安心したように微笑んだ。


「そうかい。」


「なら何よりだ。」


静かな時間が流れる。


休肝日の朝だけに許された、穏やかなひとときだった。


しばらくしてタクは立ち上がる。


「少し身支度を整えてきます。」


「ゆっくりしておいで。」


「はい。」


二階へ続く階段を上る。


部屋へ入り、何気なく鏡の前へ立った、その時だった。


「あ……。」


思わず足が止まる。


毎朝見ているはずの自分。


それなのに、今日は違和感があった。


前髪は伸び始め、髪全体も、髪切り処で整えてもらった時のような清々しさが少し薄れている。


耳の後ろから襟足へ指を滑らせると、毛先には一本だけ枝毛が見えた。


さらに顎を少し上げる。


襟元へ隠れる喉元。


そこには、ほんのわずかな剃り残しが残っていた。


真正面からでは気付かない場所。


誰かに指摘されることもないだろう。


けれど。


「……違うな。」


小さく呟く。


誰かに気付かれるかどうかではない。


自分が気付かなかったことが問題だった。


この六日間。


頭の中は店のことばかりだった。


客の好み。


料理との組み合わせ。


酒の温度。


新しい道具の使い心地。


もっと美味しい一杯を。


もっと心地よい時間を。


そんなことばかり考えていた。


そのこと自体は間違っていない。


だが、その一方で、自分自身へ向ける意識が、ほんの少しだけ薄れていた。


「……慢心してたな。」


苦笑が漏れる。


机の上の革鞄を開く。


中から取り出したのは、小さな革製のケースだった。


異世界へ来て間もない頃、飲み会の景品でもらったアメニティセット。


半年近く、毎朝欠かさず使い続けてきた相棒だ。


ケースを開く。


折り畳み式の鋏。


爪切り。


安全剃刀。


眉用の剃刀。


耳かき。


どれもまだ使える。


けれど鋏の切れ味は少し落ち、安全剃刀も刃を替えてなお、以前ほど気持ちよく剃れなくなっていた。


毎日使っていたからこそ、少しずつ変わるその違いに気付くのが遅れたのだ。


タクは安全剃刀をそっと撫でる。


「……お前も頑張ってくれたな。」


半年間、この世界で生きる自分を支えてくれた道具だった。


だからこそ愛着もある。


それでも、いい仕事を続けるためには、道具にも休む時がある。


そして、自分自身も磨き続けなければならない。


その当たり前のことを、タクはようやく思い出したのだった。


————————


革製のケースを静かに閉じる。


小さな留め具が、パチン、と乾いた音を立てた。


タクはケースを革鞄へしまい、一階へ降りる。


店内では、エレノアがカウンターを磨いていた。


「何か見つけた顔だね。」


その一言に、タクは思わず苦笑する。


「分かりますか。」


「長い付き合いだからね。」


エレノアは微笑んだ。


「鏡を見たんだろう?」


「はい。」


タクは静かに頷く。


「道具ばかり気にして、自分のことを後回しにしていました。」


「喉元の剃り残しも、枝毛も……。」


「毎日見ていたはずなのに、気付けませんでした。」


エレノアは優しく頷いた。


「慣れっていうのは怖いものさ。」


「毎日見ている自分ほど、少しずつ崩れるものには気付けない。」


タクは革鞄からアメニティセットを取り出した。


半年近く使い続けてきた、小さな相棒たち。


エレノアはケースを開き、一つひとつ手に取る。


「丁寧に使ってるね。」


「だから半年も頑張ってくれた。」


安全剃刀を戻すと、穏やかに笑った。


「よく働いてくれた道具だ。」


「はい。」


タクも小さく笑う。


「だからこそ、そろそろ役目を終えてもらおうかと。」


「なるほど。」


エレノアは頷いた。


「それなら行こう。」


「ガルムのところだ。」


————————


鍛冶街へ近付くにつれ、空気が熱を帯びていく。


鉄の匂い。


炭の香り。


工房から響く槌の音。


その全てが、この街の活気そのものだった。


工房の扉を開くと、赤々と燃える炉の前でガルムが槌を振るっている。


カンッ!


カンッ!


最後の一打を終えると、真っ赤な鉄を水へ沈めた。


ジュワァァッ――。


白い湯気が立ち上る。


「おう!」


ガルムは豪快に笑った。


「今日は酒の道具じゃねぇ顔してるな。」


「実はお願いがありまして。」


タクは革鞄からケースを取り出した。


ガルムは受け取ると、不思議そうに首を傾げる。


「何だこりゃ。」


留め具を外す。


中には小さな道具が整然と収まっていた。


折り畳み式の鋏。


爪切り。


安全剃刀。


眉用の剃刀。


耳かき。


ガルムは一つずつ手に取り、じっと眺める。


「武器じゃねぇ。」


「工具でもねぇ。」


鋏を開閉する。


「……これは分かる。」


「髪を切る道具だな。」


タクが頷く。


「はい。」


「髪切り処でも使うようなものです。」


ガルムは満足そうに笑う。


「鋏なら任せろ。」


「鍛冶屋なら一度は作る道具だ。」


今度は爪切りを持ち上げる。


パチン。


パチン。


軽快な音が響く。


「ほぉ。」


「押して切る仕組みか。」


「面白ぇ。」


職人らしい目が細部まで観察していく。


そして最後に、安全剃刀を手に取った。


ガルムの表情が変わる。


器用にネジを回す。


カチャ。


カチャ。


刃が外れる。


持ち手と二つに分かれた。


「なるほど。」


「交換式か。」


刃だけを摘み上げ、炉の灯りへ透かす。


角度。


厚み。


反り。


何度も向きを変えながら見つめる。


「……妙だな。」


低く呟く。


「この刃は何のためだ?」


「木を削ぐには薄すぎる。」


「革を剥ぐには細かすぎる。」


「魔獣の毛を刈るなら鋏の方が早ぇ。」


腕を組み、首を傾げる。


「用途が見えねぇ。」


タクは少しだけ言いづらそうに口を開いた。


「ヒゲを剃るための道具です。」


工房が静まり返る。


炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。


ガルムはゆっくり顔を上げる。


「……何?」


「ヒゲを剃ります。」


数秒の沈黙。


そして――


「ヒゲを剃るだとぉ!?」


工房中へ豪快な声が響き渡った。


タクは思わず肩をすくめる。


「やっぱり珍しいですか。」


「珍しいどころじゃねぇ!」


ガルムは腹を抱えて笑った。


「人族にも髭のある奴はいる。」


「だが、自分から剃る奴なんざ、ほとんど見たことがねぇ。」


タクは苦笑しながら答える。


「私の世界では普通だったんです。」


「毎朝剃る人も多くて。」


「そうか。」


ガルムは自慢げに立派な髭を撫でる。


「だがな。」


「ドワーフにとっちゃ髭は誇りだ。」


「親父の髭は膝まである。」


「亡くなった爺さんなんざ、足元まで伸びてた。」


「歩けば床を掃いてくれるくらいだった。」


エレノアが思い出したように笑う。


「昔、火がついて髭を焦がした人がいたねぇ。」


ガルムは照れくさそうに頭を掻いた。


「ああ。」


「三日三晩、落ち込んだ。」


「親方にも散々笑われたさ。」


少しだけ遠くを見る。


「あれは、自分の腕の未熟さと、職人としての誇りが崩れた瞬間だった。」


静かな声だった。


けれど、その一言だけで髭というものがドワーフにとってどれほど大切か伝わってきた。


やがてガルムは大きく笑う。


「だからこそ面白ぇ!」


安全剃刀を掲げる。


「俺ぁ見たこともねぇ道具が大好きだ!」


「髭は剃らねぇ。」


「だが、剃る道具は作ってやる!」


職人の目が、獲物を見つけたように輝いていた。


「よし。」


ガルムは安全剃刀を作業台へ置くと、改めてケースの中身を並べた。


折り畳み式の鋏。


爪切り。


安全剃刀。


眉用の剃刀。


耳かき。


どれも小さな道具ばかりだ。


だが、ガルムの表情は、大剣でも鍛える時と何一つ変わらなかった。


「毎日使うもんほど、誤魔化しは利かねぇ。」


そう呟くと、一本一本を手に取り、じっくりと観察していく。


鋏は何度も開閉し、指へ伝わる重さを確かめる。


「鋏は任せろ。」


「髪切り処からも時々頼まれる。」


「切れ味も、開閉の軽さも、毎日使う奴ほど分かるもんだからな。」


次に爪切りを持ち上げる。


パチン。


軽い音が工房へ響く。


「面白ぇ仕組みだ。」


「これも改良できそうだな。」


職人らしく口元が緩んだ。


安全剃刀は何度も分解し、刃を光へ透かしては組み直す。


「本体は丈夫に。」


「刃は交換しやすく。」


「毎日使うなら、それが一番だ。」


やがてガルムは棚の奥から、小さな深淵鋼の塊を取り出した。


「今回は少しだけ混ぜる。」


「切れ味は鋼が作る。」


「丈夫さは深淵鋼が支える。」


炉へ入れる。


炎が赤く揺れ、金属がゆっくりと色を変えていく。


ガルムは迷いなく槌を振り下ろした。


カンッ。


カンッ。


工房へ心地よい音が響く。


荒々しく叩くのではない。


細かな道具だからこそ、一打ごとに神経を研ぎ澄ませていた。


鋏の刃を合わせる。


剃刀の持ち手を削る。


耳かきの先端を丸く仕上げる。


その全てが、まるで装飾品でも作るかのような繊細さだった。


タクは息を呑む。


酒の道具を作ってもらった時とは、また違う感動があった。


「同じ鍛冶でも……。」


思わず漏れる。


「全然違うんですね。」


ガルムは槌を止めずに笑った。


「使う相手が違えば、仕事も変わる。」


「だから職人は飽きねぇ。」


————————


日が傾き始める頃。


作業台には、新しい身だしなみ道具が静かに並んでいた。


折り畳み式の鋏。


爪切り。


安全剃刀。


眉用の剃刀。


耳かき。


どれも派手ではない。


だが、一目見ただけで分かる。


長く使われることを前提に作られた道具だった。


ガルムは満足そうに腕を組む。


「これなら錆びねぇ。」


「長持ちする。」


「毎日使ってもへこたれねぇ。」


タクは一つずつ手に取り、その手触りを確かめる。


鋏は羽のように軽く動く。


安全剃刀は手へ吸い付くように馴染んだ。


「ありがとうございます。」


自然と頭が下がる。


ガルムは照れ隠しのように鼻を鳴らした。


「礼なら、いい酒で返してくれ。」


「そっちの方が嬉しい。」


————————


帰り道。


エレノアがふと思い出したように言った。


「そうそう。」


「髪切り処にも聞いてみたんだ。」


タクは目を丸くする。


「聞いてくださったんですか?」


「気になってね。」


エレノアは笑う。


「この剃刀を見せたら、職人さんも驚いてたよ。」


『これは随分いい仕事をしてる。』


『刃の当たりも柔らかそうだ。』


『ただ、男で髭を剃る人は、この辺じゃあまり見ないね。』


そこまで話すと、エレノアは肩をすくめた。


「でも。」


『女性の産毛を整えたりするには良さそうだ。』


『そういう使い方なら広まるかもしれない。』


そんな話をしていたそうだよ。」


タクは少し驚いた。


「なるほど……。」


「文化は違っても、道具は別の使い方ができるんですね。」


「そういうこと。」


エレノアは穏やかに頷いた。


「いい道具っていうのは、使う人が育てていくものだからね。」


————————


翌朝。


休肝日が明ける。


二階の部屋。


タクは鏡の前へ立っていた。


新しい安全剃刀を手に取る。


刃は驚くほど滑らかだった。


喉元。


耳の下。


襟足。


今まで少しだけ残っていた場所も、気持ちよく整っていく。


鋏で毛先を整える。


眉を整える。


耳かきを手に取り、思わず笑みがこぼれた。


「本当に作ってくれたんだな。」


最後に鏡を見る。


昨日までとの違いは、ほんのわずかだ。


けれど、そのわずかな違いが、自分の気持ちまで変えてくれていた。


白いシャツへ袖を通す。


黒いベストを羽織る。


エプロンを締める。


階段を下りると、開店準備をしていたエレノアが振り返った。


タクの姿を一目見ると、静かに頷く。


「うん。」


「いい顔になったね。」


少し照れくさそうに笑うタクへ、エレノアは穏やかに続けた。


「いいバーテンダーはね。」


「お酒だけじゃなく、自分自身も磨く。」


その言葉に、タクは力強く頷く。


「はい。」


自然と笑みが浮かぶ。


身だしなみは、誰かへ見せるためだけのものではない。


自分自身が、お客様を迎える心を整えるためのものでもある。


タクは鏡の中の自分へ小さく笑いかけると、静かに店の扉を開いた。


カラン――。


朝の澄んだ空気が、『Rack of Luck』へ流れ込む。


今日もまた、一杯のお酒と、一人のバーテンダーが、誰かを迎える準備を整えていた。

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