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任せる夜

昼下がり。


仕込みはひと通り終わり、『Rack of Luck』には穏やかな静けさが流れていた。


タクはカウンターの中で、一つひとつ丁寧にグラスを磨いている。


柔らかな布で曇りを拭き取り、光へかざして確認すると、棚へ静かに戻す。


その姿を眺めていたエレノアが、不意に腰へ手を伸ばした。


結んでいたエプロンを外し、きれいに畳む。


「今日は少し早く帰るよ。」


その一言に、タクの手が止まった。


「……え?」


思わず聞き返す。


エレノアはいつものように穏やかに笑っていた。


「今夜は、あんた一人で店を回してごらん。」


「で、でも……。」


不安がそのまま声になる。


「まだ全部を覚えたわけじゃありませんし……。」


「もし、お客様をお待たせしてしまったら……。」


言葉は途中で止まった。


エレノアは静かに首を横へ振る。


「大丈夫さ。」


「特別なことをしようなんて思わなくていい。」


「今まで覚えてきたことを、そのまま丁寧にやればいいんだ。」


タクはまだ不安そうな表情を浮かべている。


そんな彼へ向けて、エレノアは少しだけ真剣な眼差しになった。


「失敗しても構わない。」


「グラスを割る日だってある。」


「料理をやり直す日だってある。」


「誰にだって失敗はあるさ。」


少し間を置いてから、ゆっくりと言葉を続ける。


「だけどね。」


「あんたが一番守らなきゃいけないものは、それじゃない。」


タクは自然と背筋を伸ばいた。


エレノアはまっすぐ彼を見つめる。


「お客様だけは、不安にさせちゃいけない。」


その言葉だけを残すと、エプロンを腕へ掛け、軽く手を振る。


「じゃあ、任せたよ。」


からん。


扉のベルが静かに鳴り、エレノアは夕暮れの街へ歩いていった。


店内には、タク一人。


静かな空気だけが残る。


「……。」


小さく息を吸う。


そしてゆっくりと吐き出した。


「よし。」


自分へ言い聞かせるように呟き、開店準備へ取り掛かる。


グラスを並べる。


カウンターを磨く。


厨房を確認する。


酒瓶の位置をもう一度見直す。


いつもと同じ。


だからこそ、一つひとつを丁寧に。


気がつけば、緊張は少しずつ静かな集中へ変わっていた。


————————


夜。


『Rack of Luck』のランプへ灯がともる。


ぽっ、と柔らかな橙色の光が窓を照らした。


やがて、最初のベルが鳴る。


からん。


「こんばんは、タク。」


入ってきたのはミズハだった。


長い耳を揺らしながら、いつものように店内を見渡す。


そして迷うことなく、窓際の静かな席へ腰を下ろした。


誰も決めたわけではない。


それでも自然と、そこがミズハの席になっている。


「こんばんは。」


タクも穏やかに微笑み返す。


その笑顔は、少しだけ緊張していた昼間とは違っていた。


いつも通り。


それを意識するだけで、不思議と心が落ち着く。


「いつもの白ヴァインでよろしいですか?」


「うん。」


「お願い。」


静かにグラスを用意する。


澄んだ白ヴァインを注ぎ、左手からファーストプレートを添える。


今日の一皿は、香草をまとわせた白身魚のカルパッチョ。


リャイムをひと搾りした、爽やかな前菜だった。


「お待たせいたしました。」


ミズハは小さく頷き、グラスを手に取る。


「ありがとう。」


その一言だけで十分だった。


タクも自然と微笑み返す。


————————


ほどなくして、再びベルが鳴る。


からん。


「おう。」


「今日は一人か。」


豪快な声とともに入ってきたのは、鍛冶師ガルムだった。


入口近くの席へどっかりと腰を下ろし、店内をひと回り見渡す。


「はい。」


「今日は私一人で営業します。」


ガルムはそれ以上何も聞かなかった。


「ああ、そうか。」


ただ、それだけ。


余計な励ましも心配も口にしない。


信じて任せる。


それが彼らしい応援だった。


「ヴィールをお願いします。」


「かしこまりました。」


黄金色のヴィールを注ぐ。


泡は指二本分。


今日も美しく盛り上がった。


左手から運ぶのは、焼きたてのソージーセ。


「お待たせしました。」


「よし。」


ガルムは満足そうに笑い、何も言わずグラスを掲げた。


その姿を見て、タクの肩からまた一つ力が抜けていく。


————————


三人目のベルが鳴る。


からん。


「こんばんは。」


落ち着いた声。


姿を現したのはミズネだった。


「今日も査察ではありません。」


小さく笑う。


「一人のお客として来ました。」


「いつも通り、お願いします。」


タクも微笑む。


「かしこまりました。」


ミズネは壁際の席へ腰を下ろす。


そこは店全体がよく見渡せる、お気に入りの場所。


透明な角氷を一つ。


ドライ・ジィンを静かに注ぎ、リャイムの香りを添える。


左手からは、熟成チーズュを薄く削ったファーストプレート。


「お待たせいたしました。」


「ありがとうございます。」


静かなやり取り。


その穏やかな空気が、店全体へゆっくりと広がっていった。


————————


夜が更けるにつれ、店内は少しずつ賑わいを見せ始める。


旅人。


商人。


常連客。


カウンターもテーブル席も、ほどよく埋まっていく。


酒を注ぐ。


料理を仕上げる。


皿を運ぶ。


グラスを洗う。


すべて一人。


忙しい。


だが、不思議と焦りはなかった。


エレノアから教わった通り。


酒は右側から。


料理は左側から。


歩幅を乱さず。


呼吸を整え。


お客様の目を見て、一礼する。


その積み重ねが、自然と身体へ染みついていた。


店内には、いつもの穏やかな時間が流れていた。


その時だった。


カラン――。


洗い終えたばかりのグラスが、ほんのわずかに指先を滑る。


「あ……。」


次の瞬間。


ぱりん。


澄んだ破砕音が店内へ響いた。


談笑していた声が止まり、音楽だけが静かに流れ続ける。


店内の誰もが、ほんの一瞬だけ音のした方へ目を向けた。


タクは動きを止める。


慌てない。


言い訳もしない。


胸の奥で一度だけ深く息を吸い、静かに頭を下げた。


「申し訳ございません。」


その一言だけを告げると、すぐに箒とちり取りを手に取る。


大きな破片から順に集める。


床を目で確認し、光へかざすように角度を変えながら細かな欠片を探す。


続いて濡れ布巾で床を丁寧に拭き取り、最後に魔法珠を組み込んだ小さな清掃具を滑らせた。


淡い光が床をなぞり、目には見えない細かな破片まで吸い寄せていく。


確認。


もう一度確認。


危険がないことを確かめると、道具を静かに片付けた。


「お待たせいたしました。」


再び一礼し、そのまま何事もなかったかのように営業へ戻る。


ほんの一分ほど。


それだけの出来事だった。


誰も文句は言わない。


誰も急かさない。


ミズハはグラスを傾けながら、小さく微笑んだ。


ガルムはヴィースキーを口へ運び、誰にも聞こえないほど小さく呟く。


「……一人前だな。」


その声は、酒の香りとともに静かに消えていった。


————————


やがて夜は更け、最後の客が席を立つ。


「ごちそうさま。」


「ありがとうございました。」


からん。


ベルが優しく鳴り、扉が閉まる。


店内は再び静寂に包まれた。


タクは椅子を一脚ずつテーブルへ上げ、グラスを洗い始める。


流れる水の音だけが、小さく響いていた。


その時――。


からん。


再びベルが鳴る。


振り返ると、そこにはエレノアが立っていた。


「おかえりなさい。」


タクは少し照れくさそうに笑う。


エレノアも穏やかに笑みを返した。


「どうだったい?」


その問いに、タクは少しだけ視線を落とす。


「……グラスを一つ、割ってしまいました。」


正直に答える。


「申し訳ありません。」


その声には、悔しさが滲んでいた。


エレノアは何も言わず、ゆっくりと店内を見渡す。


磨き上げられたカウンター。


整えられた客席。


きれいに片付いた床。


棚へ戻されたグラス。


そして、タクの表情。


一通り見終えると、小さく笑った。


「一本も注文は止まらなかった。」


タクは顔を上げる。


「誰も帰らなかった。」


「誰一人、不安そうな顔もしなかった。」


少し間を置き、優しく頷く。


「それで十分さ。」


タクは目を丸くした。


エレノアはカウンターへ手を添え、ゆっくりと撫でる。


「グラスなんてね。」


「また買えばいい。」


「割れたら、新しいものを揃えれば済む。」


視線をタクへ向ける。


「でも。」


「お客様がこの店で過ごした時間は、二度と戻らない。」


「だから、一番大切なのは――」


その言葉を、タクも自然と続ける。


「……お客様を不安にさせないこと。」


エレノアは嬉しそうに目を細めた。


「そう。」


「ちゃんと覚えてたじゃないか。」


「今日のあんたは、それができた。」


静かな店内へ、その言葉がゆっくりと染み渡っていく。


————————


エレノアは店の中央へ立ち、『Rack of Luck』を見渡した。


柔らかな灯り。


磨き上げられたグラス。


整えられたカウンター。


静かな空気。


そこには、自分が初めて店を開いた頃とは違う景色が広がっていた。


この店を支えているのは、もう自分だけではない。


目の前には、一人のバーテンダーが立っている。


エレノアは穏やかに微笑んだ。


「もう、この店は――」


少しだけ照れくさそうに笑い、


「あんたの店だよ。」


その一言に、タクは言葉を失った。


胸の奥が熱くなる。


嬉しさも。


責任の重さも。


そのすべてが込み上げてきて、何も言えなかった。


ただ、静かに頭を下げる。


深く。


心から。


エレノアはそんな姿を見て、小さく肩をすくめた。


「そんなにかしこまるんじゃないよ。」


「まだ営業は終わっちゃいない。」


そう言って、いつもの席へ腰を下ろす。


カウンターへ肘をつき、にやりと笑った。


「さて。」


「マスター。」


その呼び方に、タクは思わず顔を上げる。


エレノアは悪戯っぽく片目を細めた。


「閉店後の一杯、作ってくれるかい?」


「……はい。」


タクは自然と笑っていた。


酒棚へ向かう足取りに、もう迷いはない。


グラスを選び、氷を入れ、静かに酒を注ぐ。


その所作を見つめながら、エレノアは満足そうに目を細めた。


『Rack of Luck』。


その夜、小さな酒場では、新しい"マスター"が静かに誕生していた。

いつもご拝読いただき、誠にありがとうございます。

皆さまからいただく感想やレビューが大きな励みになります。

「続きが読みたい」と感じていただけましたら、ぜひ応援していただけると嬉しいです。今後もより楽しんでいただける作品をお届けできるよう、更新を頑張ってまいります。

また、誤字・脱字のご報告も本当にありがとうございます。

そのほかにも、「ここは分かりにくいかも」「この表現はどうなの?」といった点がございましたら、どうぞお気軽にコメントでお知らせください。皆さまのご意見を参考にしながら、より良い作品づくりに努めてまいります。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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