コルドンヴルー
ドォリ肉=鶏肉
タメェゴォ=タマゴ
パォン=パン
開店時間を少し過ぎた頃。
『Rack of Luck』の扉が、軽やかなベルを鳴らした。
――からん。
「いらっしゃいませ。」
「いつものだ。」
低く渋い声とともに入ってきたのは、大きな髭を蓄えたドワーフの職人、ガルムだった。
煤で黒く染まった作業着のまま、迷うことなくいつもの席へ腰を下ろす。
「ソージーセと、常温のヴィールですね。」
「おう。」
「冷えたヴィールも悪くねぇが、仕事終わりは常温が一番うめぇ。」
タクは笑顔で頷き、ヴィールを丁寧に注ぐ。
店の中には、麦の香ばしい香りがふわりと広がった。
ほどなくして――
――からん。
「こんにちは。」
「ミズネさん、いらっしゃいませ。」
小柄なネズミ獣人の女性が、肩から書類鞄を提げて入ってくる。
監査官のミズネだった。
「今日はドライチーズュと、ジィンにライムのカクテルをお願いします。」
「かしこまりました。」
「もう、私の注文まで覚えてくださったんですね。」
「もちろんです。」
タクが笑うと、ミズネも嬉しそうに微笑んだ。
さらに数分後。
――からん。
「はぁ、暑い暑い!」
勢いよく飛び込んできたのは、水色の髪を揺らした河童娘のミズハ。
「叩きギュウリ!」
「あと、よく冷えたヴィール!」
「はい、ミズハさん。」
「えへへ、やっぱりタクさんは話が早い!」
店内には常連たちの笑い声が広がる。
この店には、少しずつ"いつもの時間"が流れ始めていた。
そして――
――からん。
ベルが、もう一度鳴る。
「おや。」
ガルムが口元を緩める。
「珍しい客だな。」
入口に立っていたのは、小柄な旅人だった。
丸い猫のような顔立ち。
肩から腕へかけて鳥の翼を思わせる美しい羽毛。
長い尾羽を揺らしながら、軽やかに店へ入ってくる。
獣人とも鳥人とも違う、不思議な姿。
「ミーは旅から旅への渡り旅人だにゃ。」
「風の向くまま、美味い店を探して歩いてるにゃ。」
ひらり。
飛ぶような身のこなしで、カウンター席へ腰を下ろした。
「旅猫さん!」
タクの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「お久しぶりです。」
「久しぶりだにゃ~。」
「元気だったかにゃ?」
「はい。」
「旅猫さんは?」
「ミーは風の向くまま旅してたにゃ。」
羽を軽くたたみながら笑う。
「今日はガッツリ食べたい気分だにゃ。」
「フライドォリにいたしますか?」
旅猫は首を左右へ振る。
「もちろん好きだにゃ。」
「でも。」
「もっと新しい料理に挑戦したいにゃ。」
その言葉に、タクは少しだけ考え、柔らかく微笑んだ。
「でしたら。」
「今日は新しい料理をお作りします。」
「ドォリ肉サンドと――」
「コルドンヴルーです。」
「おぉ?」
「聞いたことないにゃ。」
「楽しみだにゃ!」
タクは厨房へ入り、ドォリ肉を二枚取り出す。
包丁で丁寧に切り開き、中へたっぷりのチーズュを挟む。
香草を散らし、小麦粉、タメェゴォ、パォン粉の順に衣をまとわせる。
鍋の油へ、静かに沈めた。
――ジュワァァァァ……
心地よい揚げ音が、店いっぱいに広がる。
香ばしい匂いに、ガルムが鼻をひくつかせた。
「初めて見る料理だな。」
「中に何が入ってるの?」
ミズハも身を乗り出す。
ミズネは興味深そうに眼鏡を押し上げた。
「これは興味深いですね。」
タクは笑う。
「秘密です。」
「揚がってからのお楽しみですよ。」
そんなやり取りをしている最中、ふとタクは旅猫を見た。
「そういえば。」
タクは油の温度を確かめながら、旅猫へ振り返った。
「旅猫さん。」
「今さらなんですが……。」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
旅猫は耳をぴくりと動かし、少しだけ考えるように顎へ手を当てる。
「うーむ。」
「ミーは本当は名前をあまり名乗らない主義なんだにゃ。」
「旅人だし、めちゃくちゃ長い名前だからにゃ。」
少しだけ照れくさそうに笑ったあと、肩をすくめる。
「でも、この店は特別だにゃ。」
「また帰って来たい店だから、教えてあげるにゃ。」
タクは包丁を置き、旅猫へ向き直ろうとする。
すると旅猫は慌てて手を振った。
「そのままでいいにゃ、そのままで。」
「料理を続けながら聞いてくれればいいにゃ。」
「どうせ最後まで覚えられるとは思ってないにゃ。」
店内から思わず笑いが漏れる。
ガルムが腕を組みながら笑う。
「お、本人が言ったぞ。」
ミズネも口元を押さえる。
「少し安心しました。」
ミズハはもう笑いを堪えていた。
「じゃあ、遠慮なく料理を続けます。」
タクは微笑み、チーズュを挟んだドォリ肉へ衣をまとわせる。
そして静かに油へ沈めた。
――ジュワァァァァ……
心地よい揚げ音が店いっぱいへ広がる。
その音に合わせるように、旅猫は胸を張った。
「それじゃあ名乗るにゃ。」
「ミーの名前は――」
「ムゲュジ・ムゲュジ・グジェム・グジェム・チュールチュール・ニャオ・チュール・ポヨンポヨン・フワリフワリ・ニャムニャム・モフモフ・クルリンクルリン・ピョコンピョコン・ムゲュジ・ムゲュジ・グジェム・グジェム・チュールチュール・ニャオ・チュール……」
タクはコルドンヴルーを静かに裏返す。
こんがりと狐色へ変わっていく。
旅猫はまだ止まらない。
「……ルルル・フェフェフェ・ベルベル・ミャルミャル・トットコ・ニャルル・フニャル・ベルベル・カルカル・フェルフェル・ルミルミ・ミャルミャル・ムニャル・フワル……」
タクは横でパォンを焼き始める。
香ばしい匂いが店いっぱいへ広がる。
最後にコルドンヴルーを引き上げ、網へ置く。
ジュッ……
余分な油が落ちる音。
ナイフを入れると、中からとろりとチーズュが溢れ出した。
ちょうどその瞬間、旅猫も満足そうに大きく息を吸う。
「……ムゲュジムゲュジ、というのが本名にゃ。」
店内は一瞬、静まり返った。
やがてガルムがヴィールを一口飲みながら呟く。
「料理が出来るまで名乗ってたな。」
ミズネは途中まで書いていたメモ帳をそっと閉じる。
「……諦めます。」
ミズハは腹を抱えて笑い転げた。
「長すぎるよー!」
タクも吹き出しながら皿を差し出す。
「お待たせしました。」
「コルドンヴルーです。」
旅猫は料理を見るなり目を輝かせる。
「名前より、そっちが気になるにゃ。」
その一言で、店中は再び笑いに包まれた。
旅猫は照れくさそうに耳を掻く。
「やっぱり、いつも通り旅猫って呼んでほしいにゃ。」
「その方が早いにゃ。」
タクも笑顔で頷いた。
「はい。」
「これからも、旅猫さん。」
「それでお願いします。」
「よろしく頼むにゃ。」
ガルムはヴィールを掲げ、
「旅猫に乾杯だ。」
ミズネも笑いながらグラスを持ち上げる。
「長い名前との出会いに。」
「かんぱーい!」
ミズハの元気な声が店内へ響く。
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が鳴った。
タクはその光景を眺めながら、小さく微笑む。
料理を楽しみに来る人。
お酒を楽しみに来る人。
そして、笑いに来る人。
そんな人たちが自然と集まる場所。
『Rack of Luck』は今日もまた、誰かの「帰って来たい場所」になっていた。




