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22/53

ハグマリの白ヴァイン蒸

ハグマリ=ハマグリ

ヴァター=バター

開店から二か月あまり。


夜の『Rack of Luck』は、今日も穏やかな賑わいに包まれていた。


琥珀色のランプが柔らかな光を落とし、磨き上げられたグラスを淡く照らしている。


魔導蓄音機から流れるのは、ゆったりとしたケルト調の弦楽器の音色。


酒を味わう者。


料理を楽しむ者。


静かな会話に花を咲かせる者。


誰もが思い思いの時間を過ごし、その穏やかな空気が店全体を優しく包み込んでいた。


カウンターの中では、タクが落ち着いた手つきで酒を注いでいる。


「こちらは白ヴァインです。」


「ありがとうございます。」


透明なグラスを右手から静かに差し出す。


続いて左手から、小さな木皿を添えた。


「本日のファーストプレートになります。」


皿の上には、軽く炙ったソージーセ。


焼き色をまとった皮からは香ばしい香りが立ち上り、添えられた粒マスタードが彩りを添えていた。


「お待たせいたしました。」


「美味しそうだ。」


客は笑顔で頷き、グラスを掲げる。


タクも軽く会釈を返した。


派手な動きはない。


だが、一つひとつの所作には無駄がなく、相手への気遣いが自然と滲んでいる。


その姿を眺めながら、エレノアは小さく目を細めた。


(もう……十分だね。)


(最初はあんなに緊張していたのに。)


(今じゃ、お客さんの呼吸に合わせて動ける。)


ふっと微笑み、磨き終えたグラスを棚へ戻す。


その時だった。


――からんっ!


いつもより勢いよくベルが鳴り響く。


店中の視線が自然と入口へ集まった。


「タクーーーっ!!」


元気いっぱいの声が店内へ響く。


扉の前に立っていたのは、小柄な少女だった。


黄緑色の肌。


丸く愛らしい瞳。


頭の上には、小さな葉がぴこんと揺れている。


真新しい旅装束の胸元には、魔王軍幹部を示す紋章。


肩には大きな木箱を抱えていた。


その身体から滴る水滴が、石床へぽたりと落ちる。


ぴちゃり。


ぴちゃり。


魔王軍幹部――ラスターだった。


「久しぶりーっ!」


「元気してたー?」


その明るい笑顔を見た瞬間、タクの表情もぱっと明るくなる。


「ラスターさん!」


「お久しぶりです。」


「お店やってるって聞いてね!」


「絶対来ようって思ってたの!」


元気いっぱいに駆け寄ると、そのまま抱えていた木箱をカウンターへ勢いよく置いた。


どすんっ。


「見て見て!」


「今日の戦利品!」


得意げに蓋を開く。


中には、大粒のハグマリがぎっしりと詰まっていた。


殻は艶やかに光り、どれも見事な大きさで揃っている。


潮の香りとともに、新鮮な海の息吹がふわりと店内へ広がった。


「うわぁ……。」


タクは思わず声を漏らす。


「立派ですね……。」


思わず一つ手に取る。


ずっしりと重い。


殻を軽く叩けば、しっかりと身が詰まっていることが伝わってきた。


周囲の客たちも思わず身を乗り出す。


「おぉ……。」


「見事だ。」


「これは新鮮だな。」


「相当いい干潟で獲れたんじゃないか?」


ラスターは胸を張る。


「えっへん!」


「今日は深いところまで潜ったんだから!」


「いっぱい獲れたの!」


「こんなに食べきれないから、タクに持ってきた!」


その屈託のない笑顔に、店内の空気まで明るくなる。


タクは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。」


「とても嬉しいです。」


「えへへ。」


褒められて照れくさそうに笑った次の瞬間だった。


「久しぶりーーっ!」


勢いよくタクへ飛びつく。


ぎゅっ。


「あっ……。」


タクが苦笑する。


「ラスターさん。」


「粘液が……。」


「あ。」


ラスターも自分の腕を見て固まった。


「あーーーっ!」


「しまったぁ!」


「ご、ごめん!」


慌てて飛び退く。


タクの制服には透明な粘液がぺたりと付いていた。


店内が一瞬静まり返る。


そして――


「あっはっはっは!」


エレノアが真っ先に吹き出した。


「相変わらずだねぇ!」


ガルムも腹を抱えて笑う。


「久々に見たな、その光景!」


ミズハも口元を押さえながら微笑む。


「歓迎の挨拶なんだろうね。」


ラスターは真っ赤になって頭を抱えた。


「違うの!」


「嬉しくて、つい!」


「本当にごめんね!」


タクは苦笑しながら首を横に振る。


「大丈夫ですよ。」


「少しだけ失礼します。」


裏手の水場へ向かう。


石鹸を泡立て、制服へ付いた粘液を丁寧に洗い流す。


魔力水を流すと、ぬめりは跡形もなく消えていった。


清潔な布で水気を拭き取り、軽く身だしなみを整える。


ほどなくしてカウンターへ戻ると、ラスターはしょんぼりと肩を落としていた。


「ごめんね……。」


「次は気を付けるから。」


タクは優しく笑う。


「お気になさらないでください。」


「ラスターさんらしい歓迎でしたから。」


「え?」


ラスターが顔を上げる。


「本当に怒ってない?」


「はい。」


「また来てくださって、とても嬉しいです。」


その一言で、ラスターの表情はぱっと明るくなった。


「えへへ!」


「よかった!」


その笑顔を見て、店内にも自然と笑みが広がる。


タクは改めて木箱いっぱいのハグマリへ目を向けた。


一つ。


二つ。


三つ――。


どれも見事な大きさだ。


「これだけあれば……。」


その呟きに、隣で腕を組んでいたエレノアが口元を緩める。


「思ってることは、一緒みたいだね。」


タクは静かに頷き、店内を見渡した。


「皆様。」


客たちが一斉に顔を上げる。


「ラスターさんが、こんなに立派なハグマリを届けてくださいました。」


ラスターは照れくさそうに頭を掻く。


「え、えへへ……。」


「ですので――」


タクは穏やかに微笑んだ。


「本日のファーストプレートは、皆様にも召し上がっていただこうと思います。」


一瞬だけ静寂が流れる。


次の瞬間――


「おおっ!」


「本当か!」


「やった!」


店内から歓声と拍手が沸き起こった。


ラスターは目を丸くする。


「み、みんな食べるの?」


「もちろんです。」


タクは優しく頷いた。


「美味しいものは、皆さんで味わった方が、もっと美味しくなりますから。」


その言葉に、ラスターの笑顔が花のように咲いた。


「えへへ……。」


「なんか照れちゃうな。」


タクはさらに続ける。


「それと。」


「本日のラスターさんのお代は、サービスとさせてください。」


「これほど素晴らしい食材を届けていただきましたので。」


ラスターは目を丸くしたまま固まる。


「……え?」


数秒遅れて意味を理解すると、大きく飛び跳ねた。


「やったーーーっ!!」


店内から再び笑いが起こる。


「太っ腹だな!」


「いい店だ!」


「ますます通いたくなる。」


そんな声があちこちから飛び交う。


エレノアは腕を組み、満足そうに頷いた。


「これも店の縁さね。」


その一言に、タクも静かに頷く。


「はい。」


笑顔と拍手に包まれながら、タクはゆっくりと厨房へ向かった。


木箱いっぱいに詰まったハグマリを一つひとつ丁寧に持ち上げる。


どれも殻が固く閉じられ、潮の香りをたっぷりと抱え込んでいた。


「本当に見事ですね。」


思わず漏れたその言葉に、ラスターが照れくさそうに笑う。


「えへへ。」


「朝早くから頑張ったんだよ。」


「泥だらけになっちゃったけどね!」


その声に、店内からまた笑いがこぼれた。


タクは小さく微笑み返すと、静かに調理へ取り掛かる。


まずは大きな桶へ清らかな水を張り、一つひとつ丁寧に殻を洗う。


泥を落とし、砂を流し、表面を磨くように指先で撫でていく。


ごし、ごし。


しゃあ……。


流水の音だけが厨房に響く。


やがて深鍋を火へ掛けた。


鍋肌が温まり始めたところで、ハグマリを隙間なく並べる。


続いて棚から一本の白ヴァインを取り出した。


栓を抜く。


ぽん。


ふわり、と果実を思わせる爽やかな香りが立ち上る。


「この香りだけでも飲めそうだ。」


ガルムが思わず鼻を鳴らす。


タクは静かに笑みを浮かべ、そのままヴァインを鍋へ流し込んだ。


さらさら、と澄んだ音が響く。


すぐに蓋を閉じる。


じゅわぁぁぁ……


鍋の中で蒸気が踊り始める。


白ヴァインの甘く爽やかな香りと、ハグマリの濃厚な潮の香りが混ざり合い、厨房からゆっくりと店内へ広がっていく。


「いい匂い……。」


ミズハが目を細める。


「春の海みたい。」


やがて――


ぱこん。


ぱこん。


殻が次々と口を開き始めた。


まるで花が咲くようだった。


「おぉ……。」


客たちから小さな歓声が漏れる。


タクは蓋を開け、火を止める。


立ち上る湯気が厨房いっぱいに広がった。


最後に小さな塊のヴァターを落とす。


熱でゆっくりと溶け始めたヴァターは、ハグマリの旨味と白ヴァインを優しく包み込み、艶やかな黄金色のソースへと変わっていく。


刻みたての香草を散らす。


鮮やかな緑が彩りを添えた。


余計な手は加えない。


主役は、ラスターが届けてくれたハグマリなのだから。


タクは皿へ美しく盛り付ける。


殻の向きを揃え、一番ふっくらとした身が見えるように並べていく。


立ち上る湯気。


漂う香り。


料理が完成した。


「皆様。」


タクは穏やかな笑みを浮かべる。


「本日のファーストプレートです。」


右手で皿を持ち、左手を添える。


一人ひとりの左側から、静かに料理を置いていく。


「お待たせいたしました。」


「ありがとうございます。」


「美味しそうだ。」


皿が並ぶたび、客たちの表情がほころんでいく。


そして最後に、ラスターの前へ一皿。


「こちらがラスターさんの分です。」


「いただきまーす!」


待ちきれない様子で殻を持ち上げる。


ちゅるり。


身がするりと口へ滑り込む。


「~~~~っ!」


大きな瞳がさらに大きく見開かれた。


「おいしいーーっ!」


その一言に、店内がどっと笑いに包まれる。


「こんなに美味しくなるんだ!」


「自分で食べるのと全然違う!」


タクは少し照れくさそうに笑った。


「素材が良いからですよ。」


「私は、その美味しさを引き出しただけです。」


続いてガルムが一つ口へ運ぶ。


「ほぉ……。」


噛み締める。


続けて白ヴァインをひと口。


ゆっくりと頷いた。


「白ヴァインで蒸しただけか。」


もう一つ。


「……いや。」


「だからいい。」


「余計なことをしてねぇ。」


「ハグマリの旨味を、全部そのまま食わせてくれる。」


ミズハも静かに身を口へ運ぶ。


「優しい味だね。」


「ヴァインが料理を邪魔していない。」


「料理も、お酒を邪魔していない。」


グラスを傾けながら微笑む。


「この距離感が、とても好き。」


ミズネも静かに頷いた。


「仕事帰りには、こういう料理が一番ですね。」


「心まで落ち着きます。」


店内では自然と笑顔が増えていく。


白ヴァインを味わう。


ハグマリを頬張る。


また白ヴァインを飲む。


誰も急がない。


誰も騒がない。


穏やかな時間だけが、ゆっくりと流れていた。


やがて料理を食べ終えたラスターが、満足そうにお腹をさする。


「タク。」


「またいっぱい採れたら持ってきてもいい?」


その問いに、タクは迷うことなく頷いた。


「もちろんです。」


「その時も、皆さんと一緒に味わいましょう。」


ラスターの顔がぱっと輝く。


「うん!」


「約束だよ!」


そう言って小さな手を差し出した。


タクも笑顔でその手を握る。


「約束です。」


二人のやり取りを見守っていた客たちから、温かな拍手が自然と湧き起こる。


ぱち、ぱち、ぱち……。


エレノアは腕を組み、その光景を満足そうに眺めていた。


「店っていうのはね。」


静かな声が店内へ響く。


「料理や酒を楽しむ場所でもある。」


少し間を置いて、優しく続けた。


「でも、それだけじゃない。」


「誰かが持ってきてくれた縁も。」


「誰かが運んできた季節も。」


「誰かの『嬉しい』も。」


「みんなで分け合える場所なんだよ。」


タクは店内を見渡した。


笑顔で料理を味わう客。


嬉しそうに笑うラスター。


穏やかな眼差しを向けるエレノア。


今、この店には確かな温もりが流れている。


「はい。」


その返事は、とても自然に口をついて出た。


『Rack of Luck』では今夜もまた、一つの食材が、一つの料理となり、一つの縁となって、人と人を優しく結びつけていた。

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