ヴシ肉のレモソマリネ
レモソ=レモン
ヴィール=ビール
オガレノ=オレガノ
ストゥト=スタウト=黒ビール
夜も更け、『Rack of Luck』は賑わいから静けさへと移り始めていた。
店内を照らす琥珀色の灯りは柔らかく、磨き上げられたグラスの縁に揺らめいている。
カウンターではミズハが白いヴァインをゆっくりと味わい、窓の向こうに浮かぶ月を眺めていた。
入口近くではガルムがヴィースキーを片手に、今日打ち上げた剣の出来栄えを思い返すように静かにグラスを傾けている。
壁際の席では、ミズネがドライ・ジィンを口に運びながら、静かに目を閉じていた。
誰も大きな声では話さない。
酒を楽しみ、料理を味わい、それぞれが思い思いの夜を過ごしている。
魔導蓄音機から流れる穏やかな旋律だけが、店内を優しく包んでいた。
タクはグラスを磨きながら、その穏やかな空気に心地よさを覚えていた。
こんな夜も好きだ――そう思った、その時だった。
――からん。
扉のベルが静かに鳴る。
店内の視線が、自然と入口へ向いた。
現れたのは、一人の男だった。
人族。
年の頃は三十代半ば。
肩当ては大きく裂け、鎧には幾筋もの深い傷が刻まれている。
背負った大剣は刃先が欠け、泥と乾いた黒ずんだ血がこびり付いていた。
頬には浅い切り傷。
左腕には応急処置だけ施された包帯が巻かれている。
満身創痍――。
そう呼ぶのがふさわしい姿だった。
それでも男は、自分の足でしっかりと店へ入ってくる。
誰も驚かなかった。
誰も騒がない。
ガルムがグラスを静かに置き、小さく口元を緩める。
「……帰ってきたか。」
その一言だけだった。
ミズハも穏やかに微笑む。
「無事だったようだね。」
男は力なく笑い、小さく肩をすくめた。
「まぁ……なんとか。」
そのままカウンター席へ腰を下ろす。
深く息を吐き、ようやく張り詰めていた身体から力が抜けた。
「……ヴィールだけ。」
掠れた声だった。
タクは何も尋ねない。
どこへ行っていたのか。
何と戦ったのか。
そんなことは、この店では聞かない。
「かしこまりました。」
一番よく冷えたヴィールを樽から静かに注ぐ。
黄金色の液体。
きめ細かな泡がゆっくりと盛り上がる。
右手からそっと差し出した。
男は礼も言わずグラスを掴み、そのまま喉へ流し込む。
ごくっ。
ごく、ごく、ごく……
半分近くを一息で飲み干した。
ようやく肺いっぱいに息を吸い込む。
「あぁ……。」
その吐息には、生きて帰ってこられた安堵が滲んでいた。
店内は再び静けさを取り戻す。
誰も戦いの話を聞こうとはしない。
何と戦ったのか。
誰が倒れたのか。
誰が生き残ったのか。
誰も口にしない。
それが、この店で交わされる無言の思いやりだった。
十分ほどが過ぎた頃。
男は空になったグラスを見つめ、小さく呟いた。
「……腹、減った。」
その一言だけだった。
タクは静かに頷く。
「少々、お時間をいただきます。」
そのまま厨房へ向かった。
冷蔵庫から取り出したのは、程よく脂の乗ったヴシ肉。
厚みのある一枚をまな板へ置き、塩と黒胡椒を振る。
指先で優しく馴染ませ、香り高いオガレノを散らした。
フライパンを十分に熱する。
肉を置いた瞬間――
じゅわぁぁ……
香ばしい音が厨房いっぱいに広がった。
表面へ美しい焼き色が付き始める。
焦らない。
片面を焼き上げたら火から下ろし、ゆっくりと休ませる。
肉汁を落ち着かせるためだ。
再び火へ戻し、最後にレモソをぎゅっと搾る。
爽やかな香りが立ち上り、焼き上がった肉を優しく包み込んだ。
付け合わせは軽く焼いた季節野菜。
彩りを添える香草。
飾り立てるためではない。
ただ、美味しく食べてもらうためだけの一皿だった。
タクは静かに料理を運び、左手から男の前へ置く。
「ヴシ肉のグリル、レモソマリネです。」
「ご一緒にストゥトもご用意いたします。」
男は短く頷いた。
その表情には、ようやく少しだけ生気が戻っていた。
まず肉をひと切れ。
ゆっくり噛む。
閉じていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
続いてストゥトを流し込む。
苦味と香ばしさが肉の旨味を受け止め、余韻を長く残していく。
もう一口。
また一口。
いつの間にかナイフとフォークを置き、夢中で料理を口へ運んでいた。
店内には、食器が触れ合う小さな音だけが響く。
誰も話しかけない。
ガルムも。
ミズハも。
ミズネも。
ただ静かに、その食べる姿を見守っていた。
料理を食べる時間まで奪わない。
それもまた、この店の優しさだった。
やがて皿は空になる。
ソース一滴残らず拭うように食べ終えた男は、ストゥトをゆっくり飲み干した。
ごくり――。
長く息を吐く。
「……生き返った。」
その一言に、張り詰めていた空気がふっとほどける。
ガルムが豪快に笑った。
「その顔が見られりゃ十分だ。」
ミズハもグラスを静かに掲げる。
「無事の帰還に、乾杯。」
ミズネも小さくグラスを持ち上げた。
「おかえりなさい。」
男は照れくさそうに頭をかく。
「……今回は、本当に死ぬかと思った。」
少しだけ視線を落とす。
「深淵の第五層。」
「魔物より怖かったのは、自分の油断だった。」
静かな声で続ける。
「仲間も何人か倒れた。」
「助けられなかった奴もいる。」
誰も口を挟まない。
慰めもしない。
励ましもしない。
その沈黙を受け止めるように、男はストゥトをもう一口だけ飲んだ。
そして、小さく笑う。
「……でも。」
「帰ってこられた。」
その言葉だけで十分だった。
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閉店の時間が近づく。
男は銀貨を数枚、静かにカウンターへ置いた。
「ごちそうさん。」
椅子から立ち上がる。
背負った剣は欠けたまま。
鎧も傷だらけのまま。
それでも、店へ入ってきた時より背筋はまっすぐ伸びていた。
扉へ向かい、ふと立ち止まる。
振り返ることなく言う。
「……また帰ってきたら寄る。」
タクは自然と笑みを浮かべた。
「はい。」
「いつでも、お待ちしております。」
男は軽く片手を上げる。
からん――。
ベルが澄んだ音を響かせ、夜の街へと消えていった。
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店内には静かな余韻だけが残っていた。
タクは男が座っていた席へ目を向ける。
そこには、空になったストゥトのグラスだけが残されている。
エレノアがグラスを磨きながら微笑んだ。
「酒場っていうのはね。」
磨き終えたグラスを棚へ戻す。
「勝った祝いをする場所でもある。」
少し間を置き、優しい声で続けた。
「でも、それ以上に。」
「無事に帰ってこられたことを確かめ合う場所なんだよ。」
タクは静かにうなずく。
「……はい。」
エレノアは入口へ目を向けた。
「"帰ってきたら寄る"――あの人、自分でそう言ったね。」
「ええ。」
「だったら、今日からあの人も常連だ。」
その言葉に、タクは自然と笑みを浮かべる。
この店には、決まった席はない。
けれど、帰ってくる場所はある。
それぞれの客が、自分だけの居場所を見つけていく。
『Rack of Luck』は今夜もまた、一人の冒険者にとって――
戦いの終わりに、心をほどき、無事を確かめることのできる"帰る場所"になったのだった。




