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名前のないカクテル

アーモンドゥ=アーモンド

カジューナッツ=カシューナッツ

グルミ=クルミ

夜の『Rack of Luck』は、穏やかな時間に包まれていた。


琥珀色のランプが店内をやさしく照らし、磨き上げられたグラスがその光を静かに映している。


グラスの触れ合う澄んだ音。


誰かが漏らした小さな笑い声。


そして、流浪の旅楽師が奏でる弦の音色。


どれも決して主張することなく、この店の空気へ溶け込んでいた。


タクはカウンターの中から店内をゆっくり見渡す。


減り始めたグラス。


料理の進み具合。


客同士の距離。


誰にも気付かれないよう、一人ひとりへ自然と目を配る。


そんな夜だった。


————————


――からん。


扉のベルが静かに鳴る。


入ってきたのは、一人の兎獣人の女性だった。


雪のように白い長い耳。


深紅のワンピース。


同じ色の大きな帽子。


肩には上質な革鞄を提げ、その身なりからは旅慣れた商人であることがうかがえる。


けれど、その表情だけが違っていた。


目の下には薄い隈。


充血した瞳。


無理に笑顔を作る余裕すら残っていない。


疲れが、そのまま歩いてきたようだった。


タクはいつもと変わらぬ笑みで迎える。


「いらっしゃいませ。」


女性は小さく頷き、カウンター席へ腰を下ろした。


深く息を吐く。


そして、ぽつりと呟く。


「……今日は。」


少しだけ間を置く。


「甘くない気分。」


それだけだった。


注文は、それだけ。


————————


「かしこまりました。」


タクは静かに答えた。


だが、すぐには酒を作らない。


棚へ伸ばしかけた手を止める。


脳裏に浮かぶのは、エレノアの言葉だった。


『酒は、お客様の続きを作るものさ。』


どんな酒を作るかではない。


どんな一日を過ごし、どんな気持ちでこの店へ来たのか。


それを知らなければ、本当の一杯にはならない。


タクはグラスを磨きながら、ごく自然に口を開く。


「今日は、お仕事帰りですか?」


女性は少し驚いたように目を瞬かせ、それから力なく笑った。


「仕事……かな。」


「旅商人なの。」


「街から街へ歩いて。」


「荷物を売って。」


「また次の街へ行く。」


少しだけ視線を落とす。


「毎日歩いて。」


「毎日笑って。」


「毎日、『またお願いします』って頭を下げて。」


乾いた笑みがこぼれた。


「笑ってる方が、売れるから。」


「嫌なことがあっても笑う。」


「泣きたくても笑う。」


「だから今日は……。」


女性はカウンターへ視線を落とした。


「甘いものは、いらない。」


「現実くらい、はっきりした味が飲みたい。」


タクは静かに頷いた。


「ありがとうございます。」


「一杯、決まりました。」


その言葉に、女性は少しだけ不思議そうな表情を見せた。


——————————


タクは棚から一本のドライ・ジィンを取り出す。


グラスへ透明な角氷をひとつ。


澄んだ音が、小さく響く。


リャイムを半分だけ搾る。


爽やかな香りがふわりと立ち上る。


そこへ冷えたソーダをゆっくり注ぎ、細かな泡を静かに育てていく。


最後に細く削ったリャイムの皮をひねり、香りだけを落とした。


甘味は加えない。


飾りも最小限。


余計なものを削ぎ落とした、凛とした一杯だった。


タクは右手から静かにグラスを差し出す。


「どうぞ。」


続いて左手から、小さな木皿を添える。


軽く炒ったアーモンドゥ。


カジューナッツ。


グルミ。


塩をひとつまみ。


香り高いスパイスをほんの少しだけ。


「本日のファーストプレートです。」


「お酒の邪魔をしないよう、香りだけ添えました。」


女性は小さく頷く。


「……ありがとう。」


その声は、店へ入ってきた時よりも少しだけ柔らかくなっていた。


————————


女性はグラスへそっと手を伸ばした。


透明な炭酸が、小さな泡となって立ち上っている。


一口。


ゆっくりと口へ含む。


リャイムの爽やかな酸味。


ドライ・ジィンの凛とした香り。


最後に炭酸が喉を軽やかに駆け抜けていく。


甘さはない。


だからこそ、口の中がすっと澄んでいくようだった。


続いて木皿からナッツを一粒つまむ。


香ばしい香り。


噛むほどに広がる自然な甘みと、ほのかな苦味。


その余韻を残したまま、もう一度グラスを傾ける。


「……。」


女性は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。


それから、ふっと笑う。


「これ……。」


もう一口。


静かに頷く。


「美味しい。」


その笑顔は、店へ入ってきた時よりもずっと柔らかかった。


「頑張れって言われるより。」


グラスを見つめながら、ぽつりと続ける。


「こういう方が嬉しい。」


「何も押し付けてこない。」


「励まそうともしない。」


「ただ、隣に座ってくれてるみたい。」


「そんな味。」


タクは嬉しそうに微笑み、小さく一礼した。


「ありがとうございます。」


それ以上は何も言わない。


その言葉だけで十分だった。


——————————


グラスの中身は、ゆっくりと減っていく。


女性の表情も、少しずつ変わっていた。


目の赤みは残っている。


疲れが消えたわけでもない。


それでも、張り詰めていた肩の力だけは、すっかり抜けていた。


やがて女性が顔を上げる。


「ねぇ。」


「はい。」


「このカクテル。」


少し笑う。


「名前は?」


タクは一瞬だけ考え、それから静かに首を横へ振った。


「ありません。」


女性はきょとんと目を丸くする。


「ないの?」


「はい。」


タクは穏やかに答えた。


「今日は、あなたのお話を聞いて作った一杯です。」


「だから。」


「これは、今日だけの一杯なんです。」


女性はグラスを見つめる。


透明な泡はもう消えかけていた。


「……そっか。」


優しく笑う。


「私だけの一杯なんだ。」


最後の一口を飲み干す。


静かにグラスを置く。


「好き。」


その一言には、飾りがなかった。


「また来ても。」


「同じものは飲めない?」


タクは柔らかく微笑む。


「その日のお話を聞かせていただければ。」


「また、その日に似合う一杯をお作りします。」


女性は少しだけ驚き、それから嬉しそうに笑った。


「それ、いいね。」


帽子をかぶり直し、革鞄を肩へ掛ける。


「また疲れたら来る。」


「お待ちしております。」


銀貨を一枚。


静かにカウンターへ置く。


「ごちそうさま。」


――からん。


扉のベルが鳴る。


今度は、店へ入ってきた時よりも少しだけ軽い足取りで、女性は夜の街へ歩いていった。


————————


店内が再び静けさを取り戻す。


エレノアは磨いていたグラスを置き、ゆっくりとタクの隣へ歩いてきた。


「聞いてたよ。」


タクは照れくさそうに笑う。


「まだまだです。」


エレノアは首を横へ振った。


一本のグラスを手に取り、灯りへ透かす。


「酒を作るだけなら、誰にだってできる。」


「レシピを覚えて。」


「分量を間違えなければね。」


静かにグラスを棚へ戻す。


「でも。」


「その人だけの一杯は。」


「相手を見なきゃ作れない。」


少しだけ目を細めた。


「あんたは今日。」


「ちゃんと、お客さんを見ていた。」


タクは思わず姿勢を正す。


エレノアは照れ隠しのように肩をすくめ、小さく笑った。


「……合格だよ。」


その一言は、どんな賞賛よりも嬉しかった。


タクは思わず笑みをこぼし、磨き終えたグラスを大切に棚へ戻す。


店内には旅楽師の穏やかな旋律が、まだ静かに流れている。


酒の名前は覚えられなくてもいい。


レシピを忘れる日が来るかもしれない。


けれど――


誰かの心に寄り添って作った一杯は、きっと忘れない。


『Rack of Luck』では今夜もまた、名前のない一杯が、誰かの明日をそっと支えていた。

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