オニヨンスープ
ヴァター=バター
オニヨン=玉ねぎ
ヴァイン=ワイン
リャイム=ライム
シナム=シナモン
クローヴ=クローブ
ジィンジャー=ショウガ
休肝日が明けた夜。
昼過ぎから降り始めた雨は、夜になっても止む気配を見せなかった。
屋根を叩く雨音。
窓を伝う雨粒。
石畳を濡らす静かな水音だけが、ノクスアーク魔王国の夜を包んでいる。
そんな中でも、『Rack of Luck』のランプだけは、いつもと変わらぬ温かな橙色を灯していた。
しかし今夜は、その灯りに誘われる客も少ない。
「今日は静かだねぇ。」
磨き終えたグラスを柔らかな布で拭きながら、エレノアが穏やかに呟く。
店内にいる客は二人だけ。
互いに干渉することなく酒を楽しみ、静かに席を立っていった。
タクはカウンターを拭きながら、雨に煙る窓の外へ目を向ける。
「雨の日は、こんなにお客様が少ないんですね。」
「そういう日もあるさ。」
エレノアは笑った。
「酒場っていうのはね。」
「賑やかな夜ばかりじゃない。」
「雨の日もある。」
「雪の日もある。」
「誰一人来ない夜だってある。」
磨き終えたグラスを棚へ戻しながら、優しく続ける。
「でも、それも店なんだよ。」
タクは静かに頷いた。
「……はい。」
店内には、雨音だけが静かに流れていた。
————————
夜も更けた頃だった。
――からん。
ベルが小さく鳴る。
タクは自然と入口へ視線を向けた。
けれど、扉は開いていない。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
肩まで伸びた黒髪。
白いワンピース。
どこか輪郭が淡く、ランプの灯りを受けた身体は、薄く透けて見える。
足音はない。
濡れた足跡もない。
それでも彼女は確かにそこに立ち、こちらを見つめていた。
タクは少しも驚いた様子を見せず、穏やかに微笑む。
「いらっしゃいませ。」
女性も、はにかむように微笑んだ。
「こんばんは。」
静かな声だった。
彼女は店の一番端の席へ腰を下ろす。
その様子を見ても、エレノアは窓の外を眺めたまま何も言わない。
まるで、そこに誰もいないかのように。
————————
「今日は静かな夜ですね。」
女性がぽつりと呟く。
「ええ。」
タクも穏やかに頷いた。
「だから……来ちゃいました。」
その笑顔は、どこか寂しげだった。
「何か、温かいものはありますか?」
「もちろんです。」
タクは静かに厨房へ向かった。
————————
鍋へ小さく火を入れる。
ヴァターがゆっくりと溶ける。
そこへ薄切りにしたオニヨンを加え、弱火でじっくり炒めていく。
焦がさず。
急がず。
透明だった玉ねぎは、少しずつ飴色へ変わっていく。
甘く優しい香りが厨房へ広がった。
そこへ澄んだブロードを注ぎ、ゆっくりと煮込む。
塩をひとつまみ。
黒胡椒を少し。
最後に刻んだ香草を散らす。
立ち上る湯気は、雨で冷えた身体を包み込むように柔らかかった。
もう一つ、小鍋を火にかける。
赤いヴァイン。
少量の砂糖。
乾燥させたリャイムの皮。
シナム。
クローヴ。
ほんの少しのハチ蜜。
そして、ジィンジャーをひとかけ。
決して沸騰させず、香りだけをゆっくりと引き出していく。
木匙で静かに混ぜると、甘く優しい香りが店いっぱいに広がった。
「ホットヴァインです。」
赤く湯気をまとった一杯が、静かに出来上がる。
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オニヨンスープを左手から。
ホットヴァインを右手から。
タクはいつも通り静かにテーブルへ置いた。
「本日のおすすめです。」
女性は両手でカップを包み込む。
「……温かい。」
白い息をひとつ。
そっと口を付ける。
「……。」
ほっと肩の力が抜ける。
続いてオニヨンスープを一口。
甘みと旨味が、静かに身体へ染み渡っていく。
「……美味しい。」
その一言だけだった。
タクは何も言わず、小さく微笑んだ。
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しばらくの間、店内には雨音だけが流れていた。
屋根を叩く雨。
窓を伝う雫。
ホットヴァインから立ち上る湯気が、ゆっくりと空気へ溶けていく。
やがて女性が、ぽつりと口を開いた。
「……お母様と、喧嘩しちゃったんです。」
カップを見つめたまま、小さく笑う。
「恋人とも。」
「最後まで、ちゃんと話せなくて。」
静かな声だった。
誰かへ聞かせるというより、自分自身へ語りかけているような声。
「謝りたかった。」
「ありがとうも……ちゃんと伝えたかった。」
「もっと、一緒に笑いたかったな。」
言葉とともに、一筋の涙が頬を伝う。
タクは急いで慰めようとはしなかった。
励ますこともしない。
ただ、静かに相槌を返す。
「そうだったんですね。」
女性は小さく頷く。
「ええ。」
「つらかったですね。」
「……うん。」
それだけで十分だった。
バーは、答えを見つける場所ではない。
誰かの気持ちを無理に変える場所でもない。
胸の内にしまい込んでいた想いを、少しだけ外へ出し、帰る頃には心がほんの少し軽くなっていれば、それでいい。
エレノアがよく口にしていた言葉を、タクは思い出していた。
『酒は人を酔わせるためだけのものじゃない。』
『張り詰めた心を、少しだけほどくためにあるんだよ。』
その意味が、今ならよく分かる気がした。
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ホットヴァインは半分ほどまで減り、オニヨンスープの器も空になっていた。
女性は名残惜しそうにカップを見つめると、ゆっくりと立ち上がる。
その表情には、店へ入ってきた時の寂しさはもうなかった。
「ありがとう。」
柔らかな笑みだった。
「温かかった。」
「こちらこそ、ありがとうございました。」
タクが頭を下げると、女性はカウンターへ銀貨を一枚置いた。
「お代です。」
「また……来られたらいいな。」
どこか儚げに微笑み、静かに踵を返す。
そして――
その姿は、雨の夜へ溶けるように薄れていった。
扉は開かない。
ベルも鳴らない。
雨音だけが、静かに店内へ響いていた。
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しばらくして、グラスを磨いていたエレノアが振り返る。
「……タク。」
「はい。」
「さっきから、誰と話していたんだい?」
タクは女性が座っていた席へ視線を向けた。
そこには、使い終えたカップがあった。
空になったスープ皿。
そして、カウンターの上には銀貨が一枚。
確かに残されている。
タクは静かに微笑んだ。
「お客様です。」
「少しだけ、お話を聞かせてもらいました。」
エレノアは銀貨を手に取り、しばらく眺める。
それ以上、何も尋ねることはなかった。
「……そうかい。」
穏やかに頷く。
「それなら。」
「今夜も、いい夜だったね。」
「はい。」
タクも静かに頷いた。
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閉店後。
タクは女性が座っていた席へ、新しいクロスを掛ける。
カップを片付け。
器を洗い。
最後に、窓の外へ目を向けた。
雨は、まだ降り続いている。
けれど不思議と、その雨は先ほどまでより優しく感じられた。
誰にも言えなかった言葉。
伝えられなかった想い。
抱えたまま歩き続ける人は、きっと少なくない。
だからこそ、この店はある。
酒を飲みに来る人のためだけではない。
料理を味わうためだけでもない。
誰にも話せなかった想いを、ほんの少しだけ預けられる場所。
そして、また明日を歩き出すための場所。
そんな店でありたい。
タクは静かにランプの火を見つめ、小さく息を吐いた。
エレノアも、その横で優しく微笑む。
「いい店になってきたねぇ。」
「……はい。」
その返事は、どこか照れくさそうだった。
外では、雨が静かに降り続いている。
それでも『Rack of Luck』の灯りは、今夜も変わらず、誰かの帰る場所を温かく照らしていた。




