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18/53

常連席

白ヴァイン=白ワイン

アボガド=アボカド

リャイム=ライム

ヴィール=ビール

ソージーセ=ソーセージ

ジィン=ジン

チーズュ=チーズ

ヴィースキー=ウイスキー

サモン=サーモン

開店から二か月あまり。


夜の帳が下りる頃になると、『Rack of Luck』のランプには柔らかな灯りがともり、その温もりに誘われるように、人々は自然と店の扉をくぐるようになっていた。


酒を味わいに来る者。


料理を楽しみに来る者。


一日の疲れを静かに癒やしに来る者。


仲間と語らう者もいれば、ただ一人、ゆっくりとグラスを傾けたい者もいる。


訪れる理由は人それぞれ。


けれど、この店で過ごす時間を心地よいと感じていることだけは、誰もが同じだった。


澄んだベルの音が店内へ響く。


――からん。


「いらっしゃいませ」


カウンターの中から迎えるタクの声は、開店当初とは比べものにならないほど自然になっていた。


最初の頃のような緊張はもうない。


肩の力はほどよく抜け、柔らかな笑みが表情に馴染んでいる。


客を迎えること。


その時間を心から楽しめるようになっていた。


————————


「こんばんは、タク」


最初に姿を見せたのは、河童の女性――ミズハだった。


「こんばんは、ミズハさん」


穏やかな挨拶を交わすと、ミズハは店内をひと目だけ見渡し、そのまま迷うことなく奥の席へ向かう。


窓際。


夜空が最もよく見える、店でいちばん静かな場所。


誰が決めたわけでもない。


予約席でもない。


それでも、いつしかその席は"ミズハの席"として自然に定着していた。


他の客も、それを口にすることはない。


ただ彼女が座っていれば別の席を選び、空いていれば「ああ、今日はまだ来ていないんだな」と思うだけ。


それが、この店の空気だった。


タクは何も尋ねず、白いヴァインを一本取り出す。


今夜選んだのは、柑橘を思わせる爽やかな香りと、やわらかな酸味が心地よい一本。


透明なグラスへ静かに注ぎ、小さな木皿を左手からそっと添えた。


「本日のファーストプレートです」


皿に並ぶのは、薄く切ったアボガド。


香草を散らし、塩をひとつまみ。


仕上げにリャイムをほんの少しだけ搾った、飾り気のない一皿だった。


ミズハは目を細める。


「今日は、静かな料理だね」


「ヴァインの香りを邪魔しないよう、できるだけ引き算で仕上げてみました」


「……うん」


短く頷き、フォークを伸ばす。


アボガドをひと口。


続けてヴァインを含む。


濃厚な果肉を爽やかな酸味が包み込み、その余韻をヴァインの香りが静かに受け止める。


しばらく味わったあと、ミズハは満足そうに微笑んだ。


「よく合う」


その一言だけで十分だった。


タクも自然と笑みを浮かべ、小さく頭を下げる。


店の夜が、ゆっくりと動き始める。


————————


――からん。


今度は勢いよく扉が開いた。


「おう!」


「今日もやってるか!」


 豪快な声とともに現れたのは、鍛冶師ガルムだった。


「いらっしゃいませ」


「仕事終わりは、やっぱりここだな!」


そう言って真っ直ぐ向かったのは、入口に最も近い席。


ここもまた、不思議な場所だった。


入ってくる客へすぐ声を掛けられ、帰る客も自然と見送れる。


誰かと話すにも、一人で飲むにも、ちょうどいい距離感がある。


いつしか、それはガルムのお気に入りの席になっていた。


「いつものヴィール」


「かしこまりました」


黄金色のヴィールを静かに注ぐ。


泡は指二本分。


きめ細かく、なめらかな白い泡がグラスの縁まで美しく盛り上がる。


続いて運ぶのは、焼きたてのソージーセ。


こんがりと焼けた皮には艶があり、切れ目からは肉汁がじんわりと滲んでいた。


「これだ、これ!」


ガルムは豪快に笑うと、フォークには手を伸ばさず、そのまま一本を持ち上げる。


――ぱきっ。


心地よい音とともに皮が弾け、香ばしい湯気がふわりと立ち上る。


そこへ、常温のヴィールを一気に流し込む。


「くぅーーっ!」


「仕事終わりは、これに限る!」


実に気持ちのいい飲みっぷりだった。


その姿に、店内のあちこちから小さな笑い声が漏れる。


タクもつられて笑みを浮かべた。


ガルムは豪快に食べ、豪快に飲む。


その姿そのものが、この店の活気になっているようだった。


————————


再びベルが鳴る。


――からん。


「こんばんは」


落ち着いた声とともに姿を見せたのは、ミズネ監査官だった。


今日は監査官の制服ではなく、濃紺の上着に白いシャツという私服姿。


仕事を離れた柔らかな雰囲気が、どこか新鮮だった。


「こんばんは、ミズネさん」


「こんばんは」


少し照れたように微笑むと、店内を見渡し、自然と視界の開けた壁際の席へ腰を下ろす。


職業柄なのだろう。


無意識に店全体を見渡せる場所を選んでしまうらしい。


タクは棚からドライ・ジィンを取り出した。


透明な角氷をひとつ。


グラスへ落とす。


――からん。


澄んだ音が静かな店内に心地よく響く。


リャイムを軽く搾り、透明なジィンを静かに注ぐ。


左手から添えたファーストプレートは、薄く削った熟成チーズュ。


仕上げに黒胡椒をひと振りしただけの、実に素朴な一皿だった。


「今日はシンプルにまとめてみました」


ミズネはチーズをひとかけ口へ運び、そのあと静かにジィンを味わう。


「……やはり」


小さく頷き、穏やかな笑みを浮かべた。


「仕事終わりは、この塩気が沁みますね」


グラスをゆっくり傾ける。


「明日も頑張れそうです」


「ありがとうございます」


タクは嬉しそうに頭を下げる。


静かな店内には、それぞれ違う時間が流れている。


月を眺めながらヴァインを味わう者。


豪快にヴィールを飲み干す者。


一日の仕事を静かに締めくくる者。


誰もが自分らしい夜を過ごしていた。


『Rack of Luck』は、そんな人々を優しく受け止める場所になりつつあった。


————————


夜が更けるにつれ、『Rack of Luck』にはさらに多くの客が集まり始めた。


旅人。


商人。


冒険者。


仕事帰りの職人。


恋人同士。


それぞれが思い思いの席へ腰を下ろし、それぞれの時間を楽しんでいる。


時折、新しく訪れた客が店内を見回し、


「空いていますか?」


と尋ねることがある。


けれど、


「あそこはミズハさんの席だから。」


そんな言葉を口にする者は誰もいない。


座っている人がいれば別の席へ。


空いていれば自然とそこへ戻る。


誰も決めない。


誰も押し付けない。


それでも不思議なくらい、誰もがその空気を理解していた。


この店では、人が場所を奪うことはない。


人が場所を育てていくのだ。


その穏やかな空気を眺めながら、エレノアはグラスを磨きつつ、小さく笑った。


「店っていうのはね。」


布を滑らせながら続ける。


「店主が作るようでいて。」


「最後は、お客が育てるものなんだよ。」


タクは店内を見渡した。


確かに、その通りだった。


開店したばかりの頃は、どの席も同じ椅子でしかなかった。


けれど今では違う。


窓際へ座れば、誰もが自然と静かな声になる。


入口近くでは、笑い声が絶えない。


店の中央では、その日初めて会った客同士が酒を酌み交わしている。


誰一人として決まりを作ったわけではない。


それでも皆が、この店に流れる心地よい距離感を知っていた。


酒場とも違う。


食堂とも違う。


ここは、『Rack of Luck』という場所なのだ。


————————


閉店の時刻が近づいた頃。


澄んだベルの音が、静かな店内へ響いた。


――からん。


一人の客がゆっくりと店へ入ってくる。


長い外套。


目深に被った帽子。


風のように音もなく歩く姿は、男にも女にも見えた。


低く落ち着いた声も、年齢も性別も判然としない。


「……開いているか。」


「もちろんです。」


タクは穏やかに微笑み、迎え入れる。


この客も、いつしか常連になっていた。


決まって閉店間際。


決まって一杯だけ。


長居はしない。


多くを語ることもない。


そして今日もまた、カウンター中央の席へ静かに腰を下ろした。


不思議と、その席だけは誰も先に座ろうとはしない。


譲り合っているわけではない。


気づけば自然と空いている。


それもまた、この店らしい空気だった。


タクは何も尋ねない。


棚からヴィースキーを一本取り出す。


磨き上げたロックグラスへ、透明な球氷をそっと落とす。


――ころり。


澄んだ音が静かに響く。


続いて、琥珀色のヴィースキーをゆっくりと注ぐ。


球氷を伝って流れる酒は、まるで夕焼けが水晶へ溶け込んでいくようだった。


左手から添えたのは、小さなカナッペ。


燻製したサモンとクリームチーズュ。


一口で食べられる、大きすぎないサイズ。


酒の余韻を邪魔しない、控えめな一皿だった。


長身の客は静かにグラスを持ち上げる。


一口。


ゆっくり味わう。


それから、小さく頷いた。


「……今日も、いい。」


「ありがとうございます。」


交わした言葉は、それだけだった。


静かな時間だけが流れる。


酒を味わう音。


氷が小さく鳴る音。


魔導蓄音機の柔らかな旋律。


それだけで十分だった。


やがて客は銀貨を一枚、静かにカウンターへ置く。


「また来る。」


「お待ちしております。」


短いやり取りだけを残し、その客は夜の街へ消えていった。


扉が閉まる。


冷たい夜風が一瞬だけ店内を通り抜け、静寂が戻る。


エレノアがその背中を見送りながら、小さく笑った。


「あの人も、すっかり常連だねぇ。」


「ええ。」


タクも頷く。


「気がつけば、あの席へ自然と座られるようになりました。」


「そうさ。」


エレノアは磨いていたグラスを棚へ戻した。


「人はね。」


「心が落ち着く場所を、自分で見つけるものなんだよ。」


その言葉を聞きながら、タクは静かに店内を見渡した。


————————


閉店後。


客が帰った店は静かだった。


グラスを一つずつ磨きながら、タクはゆっくりと店内を眺める。


入口近くの席。


窓際の席。


店全体を見渡せる壁際の席。


そして、夜更けになると必ず誰かが座るカウンターの中央。


昼間は、ただの椅子だった。


けれど夜になれば、そこには人が座る。


酒を飲み。


料理を味わい。


笑い。


語り。


時には何も話さず、ただ静かな時間を過ごす。


そんな一つひとつの積み重ねが、いつしかその席だけの空気を作り上げていた。


磨き終えたグラスを棚へ戻す。


静まり返った店内には、もう誰もいない。


それなのに、不思議と温もりだけは残っている。


「……席が、お客さんを待っているみたいですね。」


タクがぽつりと呟くと、エレノアは優しく首を横に振った。


「違うよ。」


柔らかな笑みを浮かべる。


「席がお客を待っているんじゃない。」


「お客が、帰って来る場所になるんだ。」


その言葉に、タクはゆっくりと頷いた。


帰りたくなる場所。


誰かに会いたくなる場所。


何も話さなくても、安心してグラスを傾けられる場所。


そんな時間を積み重ねながら、『Rack of Luck』は今日もまた、誰にも決められていない"常連席"を静かに育てていくのだった。

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