魔王襲来
歓声が響いていた。
「成功だ!」
「勇者様だ!」
「予言は本当だった!」
石造りの巨大な広間。
床いっぱいに描かれた魔法陣は、まだ淡い光を放っている。
卓はその中心に立ったまま、周囲を見回した。
高い天井。
色鮮やかなステンドグラス。
磨き上げられた赤い絨毯。
鎧を着た騎士。
豪華な法衣を纏う魔術師。
その奥には、一段高い玉座。
そして。
金色の王冠を戴いた、一人の老人がゆっくりと立ち上がった。
年老いている。
だが身体つきは立派だった。
腹は恰幅がよく、真っ白な髭は胸元まで伸びている。
老人は玉座から降りると、卓の前まで歩いてくる。
「ようこそ参られた。」
低く、しわがれた声だった。
卓はまだ状況を飲み込めていない。
老人は大きな右手を差し出した。
「余はルビロホ=グス王国国王、ルビロホ・グス16世である。」
握手。
そういうことらしい。
卓も反射的に右手を差し出す。
ごつごつとした、大きな手だった。
分厚い掌。
硬い皮膚。
力強い握力。
その感触は妙に現実的だった。
温かい。
夢ではない。
その感触だけで理解してしまった。
「ああ……。」
思わず小さく漏れる。
夢じゃない。
本当に知らない場所へ来てしまった。
王は卓の手を離さず、そのまま真っ直ぐ目を見た。
「勇者よ。」
短く息を吸う。
「この世界を救ってほしい。」
その一言だけだった。
卓は数回瞬きをした。
救う。
勇者。
世界を。
いきなり言われても理解できる話ではない。
すると隣で控えていた初老の男が、一歩前へ出る。
黒い法衣。
胸には金糸の刺繍。
王の側近なのだろう。
深々と頭を下げた。
「突然このような形でお呼び立てしましたこと、心よりお詫び申し上げます。」
丁寧な口調だった。
「私、宮廷筆頭魔術師兼宰相、ルレスワと申します。」
卓は小さく会釈を返す。
「順を追ってご説明いたします。」
ルレスワは静かに語り始めた。
「ここはルビロホ=グス王国。」
「人類最大の国家にして、人々の最後の砦でございます。」
卓は黙って聞いていた。
「この世界では現在、魔王軍による侵攻が続いております。」
壁際に控えていた兵士達の表情が曇る。
「魔族。」
「魔物。」
「魔獣。」
「人外。」
「彼らは人類の領土を奪い続けています。」
卓は静かに頷いた。
異世界。
魔王。
勇者。
どれも漫画やゲームなら見覚えがある。
しかし自分がその中へ放り込まれるとは思っていなかった。
「そして。」
ルレスワは一冊の古びた本を取り出す。
「予言者キツソゥ様は残されました。」
本を開く。
そこには古い文字が並んでいる。
卓には読めない。
だが不思議と意味だけは頭へ入ってきた。
『魔王を討てる者。
異界より来たりし勇者のみ。』
ルレスワは本を閉じる。
「この予言だけが、我々人類最後の希望なのです。」
卓は思わず口を開いた。
「つまり……。」
「私は、その勇者として呼ばれた、と。」
「左様でございます。」
ルレスワは深く頷く。
「本来であれば、このようなことは決して許されることではありません。」
「異世界より無関係な方をお呼びするなど、あってはならない。」
「ですが。」
そこで一度言葉を切る。
「一年ほど前。」
「一人目の勇者様がお越しくださいました。」
卓は顔を上げた。
「いました?」
「ええ。」
「その御方は我々の願いを聞き届け、魔王討伐へ向かわれました。」
「以来。」
広間が静まり返る。
「消息が途絶えております。」
卓も言葉を失う。
「討たれたのか。」
「囚われたのか。」
「あるいは今なお戦っておられるのか。」
「我々には何一つ分かりません。」
王は拳を握り締める。
「勇者を見殺しにはできぬ。」
苦しそうな声だった。
「しかし魔王軍は待ってはくれぬ。」
ルレスワが続ける。
「一年もの間、我々は勇者召喚を繰り返しました。」
「ですが。」
「魔力が足りず失敗。」
「術式が崩壊し失敗。」
「召喚先を見失い失敗。」
「国中の財宝を費やし、それでも失敗。」
卓は周囲を見回した。
魔術師達は皆やつれている。
巨大な魔法陣も所々欠けていた。
本当に何度も挑戦してきたのだろう。
「そして本日。」
声に少しだけ力が入る。
「ようやく成功したのです。」
「勇者様。」
「どうか。」
「この世界をお救いください。」
「もちろん、王国も全力で支援いたします。」
「武器も。仲間も。名誉も。必要なものは全て。」
「……あなたが戦ってくださる限り。」
深々と頭を下げる。
王も。
騎士も。
魔術師も。
そこにいる全員が、卓へ頭を下げた。
卓は困っていた。
世界を救ってくれ。
突然そんなことを言われても。
会社員だった自分にできるとは思えない。
稟議書作成は好きだ。
工程表も修正は必要だが少し作れる。
力だって人並み。
剣術の経験もなければ、魔法なんて存在すら知らない。
何と言えばいいのか。
口を開こうとした。
その時だった。
ゴォォォォン!!
腹の底まで響く鐘の音が王城を震わせた。
一度。
二度。
三度。
広間中の空気が一瞬で凍りつく。
兵士達の顔色が変わった。
全員の表情から血の気が引く。
王が玉座へ振り返る。
「まさか……!」
次の瞬間。
廊下から悲鳴が聞こえた。
「逃げろ!!」
「魔族だぁぁ!!」
甲冑のぶつかる音。
爆発音。
何かが崩れ落ちる轟音。
広間の扉が勢いよく開かれた。
一人の兵士が転がり込む。
全身血まみれだった。
「陛下ぁぁ!!」
息も絶え絶えに叫ぶ。
「魔王です!!」
「魔王軍が王都へ侵攻!!」
「転移魔法陣が各地に展開されました!!」
「魔族が……!」
「王都中に溢れています!!」
広間の空気が、一瞬で絶望へ変わった。
広間が騒然となった。
「馬鹿な!」
「なぜ王都まで!」
「結界はどうした!」
兵士は床へ倒れ込みながら叫ぶ。
「各地で同時に転移魔法陣が展開されました!」
「悪魔どもが次々と……!」
「門も突破されました!」
「既に市街地で戦闘が始まっています!」
報告が終わるより早く、再び鐘の音が鳴り響く。
ゴォォォォン……
重く、不吉な音。
王都中へ危機を知らせる警鐘だった。
その音に混じって、遠くから人々の悲鳴が聞こえてくる。
卓も思わず窓の外へ目を向けた。
黒煙が上がっていた。
城下町のあちこちで火の手が上がっている。
空には黒い影。
羽を持つ何かが飛び交い、人影が次々と地面へ落ちていく。
叫び声。
爆発。
建物が崩れる音。
まるで映画でも見ているような光景だった。
違う。
映画なら安全だ。
ここは。
現実だった。
「近衛兵を集めろ!」
「勇者様をお守りしろ!」
王が叫ぶ。
だが、その声は途中から震えていた。
「いや……違う!」
「勇者を前へ!」
「魔王を食い止めるのだ!」
ルレスワが顔を上げる。
「しかし陛下!」
「勇者様はまだ何も……!」
「構わぬ!」
王は叫んだ。
「勇者とは魔王を倒すための存在だ!」
「今こそ役目を果たしてもらう!」
その瞬間だった。
卓は王の目を見た。
先ほどまでの慈悲深そうな王の目ではない。
国を守るためなら。
勇者一人など安い。
そんな目だった。
騎士達も動揺している。
「ですが!」
「勇者様は召喚されたばかりです!」
「武器も!」
「魔法も!」
「知識もありません!」
「時間を稼げ!」
王は怒鳴った。
「余は地下司令室へ向かう!」
「指揮を執る!」
「勇者を前へ!」
「時間を稼げ!」
「退路を確保しろ!」
「誰でもいい!」
「勇者を前へ出せ!」
騎士達の誰一人として動かなかった。
命令に従うべきだ。
分かっている。
それでも。
召喚されたばかりの青年を押し出すことだけは。
誰もできなかった。
卓は静かに立っていた。
怒りはない。
悲しみもない。
ただ。
「ああ。」
心の中で一つだけ思う。
やっぱり。
運が悪いな。
その時だった。
ゴォンッ!!
今までとは違う衝撃が城を襲った。
天井が大きく揺れる。
壁へ亀裂が走る。
シャンデリアが激しく揺れ、無数のガラス片が降り注いだ。
誰かが悲鳴を上げる。
次の瞬間。
ズガァァァァンッ!!
轟音。
天井が消えた。
砕けた。
ではない。
何か巨大な刃物で切り裂かれたように、一直線に裂けていた。
夜空が見える。
違う。
空ではない。
禍々しい黒雲。
赤黒い稲妻。
渦を巻く魔力。
その中心から、一つの影がゆっくりと降りてくる。
誰も声を出せない。
風だけが吹く。
砕けた天井から舞い落ちる石粉。
その中央へ。
黒い影がゆっくり降り立つ。
巨大だった。
二メートルを優に超える長身。
燃えるような赤い長髪。
腰から太くしなやかな尾が宙に揺れる。
漆黒の王冠。
肌には妖しく光る紋様が浮かび、それはまるで心臓の鼓動に合わせるように脈打っている。
露出の多い黒と深紅の装束。
両腕は巨大な甲殻に覆われ、蟹の鋏を思わせる禍々しい爪となっていた。
腰の後ろには、一対の武器。
細身の片刃のような武器。
そして長いピッチフォーク。
食卓で使おうにはあまりにも巨大で、武器と呼ぶにはあまりにも美しかった。
黒いレザーブーツが、ゆっくりと床へ触れる。
コツン。
それだけで空気が震えた。
兵士の一人が剣を取り落とす。
「ま……」
喉が震える。
「魔王……」
誰かが呟いた。
その名を聞いた瞬間。
広間にいた全員が膝をついた。
恐怖だった。
本能が逆らうことを拒絶している。
卓だけが立っていた。
腰が抜けたわけではない。
ただ、どう反応すればいいのか分からなかった。
目の前の存在が、人とは思えなかったからだ。
女はゆっくりと広間を見回した。
真紅の瞳が、一人ひとりを射抜いていく。
やがて口を開いた。
「我が名は、ドン・ファーラ。」
よく通る声だった。
威圧するでもなく。
怒鳴るでもない。
静かな声なのに、広間中へ響き渡る。
「至高にして究極。」
「現魔王である。」
その一言だけで、誰も動けなくなった。
ドン・ファーラは王を見下ろす。
その瞳に宿っていたのは怒りだった。
「また勇者を呼ぼうとしたのか。」
静かな声だった。
だからこそ恐ろしい。
「異界より無関係な者を攫い。」
「自らは安全な場所で命令だけを下す。」
「その醜悪な思想には反吐が出る。」
王が震えながら叫ぶ。
「ま、待て!」
「話し合いという選択も──」
「ない。」
ドン・ファーラは腰から武器を抜いた。
ゆっくりと。
音もなく。
二本を胸の前で交差させる。
黒い光が溢れた。
空気そのものが悲鳴を上げるように軋む。
卓は息を呑んだ。
本能が理解する。
あれは。
受けてはいけない。
ドン・ファーラは冷たく告げた。
「生き地獄を味わえ。」
ドン・ファーラが交差させた武器から、黒い光が静かに広がった。
轟音もない。
爆発もない。
ただ、水面へ墨を一滴落としたように、漆黒の光が床を滑るように走っていく。
「ひっ……!」
誰かが悲鳴を上げた。
光は王の足元へ触れる。
その瞬間だった。
「いや……」
王の声が震える。
「いやだ……」
腕が、みるみる痩せ細っていく。
豊かな肉付きだった腕は枯れ枝のようになり、肌は乾き、皺が刻まれ、色を失う。
「やめろ……!」
王は自分の身体を見下ろえながら叫ぶ。
「いやだぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。
次の瞬間。
王は一本の枯れ木になった。
立ったまま。
叫ぶ姿勢のまま。
命だけを奪われたように、その場へ取り残される。
「陛下ぁぁぁ!」
臣下が駆け寄ろうとした。
だが遅い。
黒い光は床一面へ広がっていた。
触れた者から順番に変化していく。
兵士は小石へ。
魔術師は枯れ木へ。
貴族は灰色の石塊へ。
悲鳴だけが広間へ響く。
「助けて!」
「嫌だ!」
「私はまだ──!」
誰一人として逃げられない。
光はゆっくりなのに、確実だった。
卓は呆然とその光景を見つめていた。
映画ではない。
夢でもない。
目の前で人が次々と姿を変えていく。
恐ろしい。
そう思う。
それなのに。
黒い光は卓の足元まで来ると、そのまま何事もなかったように横を通り過ぎていった。
「……あれ?」
卓は自分の身体を見下ろす。
異常はない。
手も。
足も。
何も変わっていない。
ドン・ファーラが少しだけ眉を上げた。
「ほう。」
真紅の瞳が卓を見る。
「お前。」
「はい。」
「この国の人間ではないな。」
「……たぶん、そうです。」
卓は素直に答えた。
嘘をつく理由もなかった。
「さっき来たばかりです。」
「ふむ…勇者召喚を成功させていたのか。」
ドン・ファーラは武器を腰へ戻す。
「我が魔法は。この国へ戸籍を持つ者だけを指定した。」
卓は思わず聞き返した。
「指定……できるんですか。」
「できる。」
あっさりと言う。
「余計な者まで巻き込む趣味はない。」
卓は小さく頷いた。
恐ろしい魔法だった。
だが、無差別ではなかった。
そこに妙な理性を感じた。
ドン・ファーラは広間を見回し、小さく息を吐く。
「まったく。」
「性懲りもなく勇者召喚とは。」
卓は恐る恐る尋ねる。
「あの……。」
「何だ。」
「勇者召喚って、そんなによくあることなんですか。」
魔王は鼻で笑った。
「百年ほど前から何度かな。」
「異世界から人を攫っては、魔王を倒せと言う。」
「最初だけは厚遇する。」
「勇者様。」
「救世主様。」
「英雄様。」
「好き放題持ち上げる。」
ドン・ファーラの声が少し低くなる。
「だが、戦場へ出れば終わりだ。」
「勝てば王国の英雄。」
「負ければ死人。」
「それだけだ。」
卓は何も言えなかった。
ドン・ファーラは続ける。
「一年前にも一人来た。」
「女だった。」
卓は顔を上げる。
「その者は我の城まで来た。」
「そして戦うどころか。」
魔王は肩をすくめた。
「泣きながら助けてくれと言った。」
卓は目を見開く。
「助けて……。」
「ああ。」
「帰りたい。」
「戦いたくない。」
「死にたくない。」
「そう泣いていた。」
魔王は静かに目を閉じる。
「あれを見て。」
「我は心底腹が立った。」
「怒りの矛先は勇者ではない。」
「こんなことを何度も繰り返す、この国だ。」
卓は枯れ木となった王を見つめる。
先ほどまで歓喜していた人々。
勇者を称えていた人々。
だが危険が迫った途端、自分を盾へしようとしていた。
その光景を思い出す。
「……なるほど。」
思わず漏れた。
ドン・ファーラは卓を見る。
「お前は驚かんな。」
「いえ。」
卓は苦笑した。
「驚いてます。」
「でも。」
「さっき皆さん、本気で私を前へ出そうとしていましたから。」
「少し納得しました。」
ドン・ファーラは一瞬だけ目を丸くした。
そして、小さく笑う。
「変わった奴だ。」
卓は頭を掻いた。
「一つ、聞いてもいいですか。」
「許す。」
「私は……。」
卓は言葉を選ぶ。
一番大事なことだった。
「元の世界へ帰れるのでしょうか。」
その瞬間だった。
ドン・ファーラの表情が固まる。
「あ。」
小さく呟く。
視線が泳ぐ。
咳払いを一つ。
「……その件なんだが。」
どこか気まずそうだった。
「理論上は。」
「同じ召喚魔法陣があれば、帰還できる可能性はある。」
卓の表情が少し明るくなる。
「本当ですか。」
「うむ。」
「ただ。」
魔王はゆっくり視線を逸らした。
「今ので。」
「壊しちゃった。」
「…………。」
「ごめん。」
しん、と広間が静まり返る。
卓も黙る。
ドン・ファーラは気まずそうに頭を掻いた。
「勢いで城ごと斬ったからな……。」
「魔法陣まで壊れるとか考えてなかった。」
卓は数秒黙っていた。
そして。
「そうですか。」
それだけだった。
ドン・ファーラは逆に戸惑う。
「怒らんのか?」
「怒っても戻れませんし。」
卓は困ったように笑った。
「そういう運なんでしょう。」
「……運?」
「良いことがあると、悪いことが起きるんです。」
「昔から。」
「今回は。」
卓は崩れた魔法陣を見る。
「かなり大きな悪いことでした。」
ドン・ファーラは卓を見つめる。
そして。
ふっと笑った。
「面白い。」
「なら。」
魔王は親指で自分を指した。
「我の国へ来るか?」
「魔王国は自由国家だ。」
「魔族も。」
「獣人も。」
「ドワーフも。」
「エルフも住んでいる。」
「人間だから追い出されることもない。」
「帰る方法を知る者がいるかもしれん。」
「保証はできんがな。」
卓は少し考える。
この世界に知り合いはいない。
頼れる者もいない。
この魔王だけが、自分へ行き先を示してくれている。
運が悪くて異世界へ来た。
でも。
運が良かったのかもしれない。
卓は静かに頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
ドン・ファーラは満足そうに笑った。
「うむ。」
「歓迎しよう。」
卓はその手を握った。
温かかった。
魔王の手とは思えないほど。
その温もりを感じた瞬間。
卓は少しだけ思った。
――運が悪いだけの人生では、なかったのかもしれない。
卓は運が良かった。




