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14/53

包丁

午後七時頃


魔力灯に火が入り、『Rack of Luck』はいつもの穏やかな夜を迎えていた。


磨き上げられたグラスが柔らかな灯りを映し、木目の美しいカウンターには静かな温もりが宿る。


酒を楽しむ者。


料理を味わう者。


一日の疲れを癒やしに訪れた者。


それぞれが思い思いの時間を過ごし、店内には心地よい話し声とグラスが触れ合う澄んだ音だけが流れていた。


「いらっしゃい。」


タクは穏やかな笑みで客を迎えながら、厨房では次々と料理を仕上げていく。


――――――


今日のファーストプレートは焼きたてのソージーセ。


フライパンへ薄く油を引く。


じゅう……。


熱せられた鉄板から香ばしい音が立ち上り、肉の脂がゆっくりと溶け出していく。


頃合いを見計らい、トングを差し入れた、その時だった。


「あっ……。」


ソージーセの端がわずかにフライパンへ張り付き、皮が少しだけ破れてしまう。


焦げ付いた部分へ肉が食い込み、きれいな焼き色が崩れる。


タクは小さく息をついた。


(まただ……。)


最近、少しずつ増えていた。


焼きムラ。


焦げ付き。


熱の回り方の鈍さ。


営業後には必ず磨き、焦げも落とし、手入れは欠かしていない。


それでも、少しずつ違和感は大きくなっていた。


タクは崩れた一本を別皿へ移し、きれいに焼き上がったものだけを木皿へ並べる。


(これは後で僕が食べよう。)


包丁で食べやすい大きさに切り分ける。


だが、その刃も以前ほど滑らかには入らない。


肉を切るというより、少し押し潰しているような感触だった。


「……。」


胸に小さな引っ掛かりを覚えながらも、タクは何も言わずファーストプレートを完成させた。


――――――


「こちら、本日のファーストプレートです。」


左側から静かに皿を置く。


「おう。」


料理を受け取ったのは、太い髭を蓄えたドワーフの鍛冶師――ガルムだった。


以前にもこの店を訪れ、酒を楽しんでいた常連客の一人である。


筋骨隆々の体。


煤で黒く染まった腕。


長年、鉄と向き合ってきた職人の手だった。


ガルムはヴィースキーを一口含み、焼きたてのソージーセを口へ運ぶ。


ゆっくりと噛み締めながら、その断面へ目を落とした。


「……ほぅ。」


その短い声に、タクは首を傾げる。


「何かございましたか?」


ガルムはすぐには答えなかった。


皿を見る。


包丁を見る。


厨房のフライパンへ視線を移す。


そして静かに口を開いた。


「鉄は、嘘をつかねぇ。」


「……え?」


「料理人は隠せても、道具は隠せねぇ。」


太い指がソージーセの断面を示す。


「包丁が悲鳴を上げてる。」


続いて厨房のフライパンを見つめる。


「鍋も。」


「フライパンもだ。」


「全部、限界が近ぇ。」


タクは思わず厨房を振り返った。


毎日手入れをしている。


営業が終われば砥石で刃を研ぎ、鍋もフライパンも磨き上げる。


できることは、ずっと続けてきた。


それでも。


職人の目には隠せなかった。


「そんなに悪いんですか?」


ガルムは首を横へ振る。


「悪いんじゃねぇ。」


「よく働いたんだ。」


その言葉には責める響きはなかった。


むしろ、長年働いた仲間を労うような優しさがあった。


「毎日磨いてきた。」


「毎日研いできた。」


「だから今日まで頑張ってくれた。」


ガルムは静かにヴィースキーを飲み干す。


「だがな。」


「頑張ることと、無理をすることは違う。」


「今のこいつらは、無理して働いてる。」


その一言が、タクの胸へ重く落ちた。


――――――


営業がひと段落し、店内が少し静かになった頃。


タクは一本の包丁を手に取る。


何度も研がれ、小さくなった刃。


柄には長年使い込まれた艶が宿っていた。


(おじいさんの包丁……。)


異世界へ来てからも、毎日この一本と共に料理を作ってきた。


思い出も。


愛着も。


自然と、この包丁へ積み重なっている。


「まだ使えます。」


ぽつりと呟く。


「直しながらでも。」


「ずっと使っていきたいんです。」


その言葉を聞いたエレノアが、静かに顔を上げた。


いつもの穏やかな笑顔ではない。


真っ直ぐにタクを見つめる瞳だった。


「違うよ。」


短い一言。


タクは思わず姿勢を正す。


「今、見なくちゃいけないのは。」


エレノアは包丁をそっと受け取る。


「その包丁じゃない。」


「……え?」


「お客様だよ。」


店内が静まり返る。


エレノアは包丁を優しく撫でながら続けた。


「主人なら、きっとそう言った。」


タクは何も返せない。


「主人は料理人だった。」


「でも、それ以上に。」


「店主だった。」


静かな声が続く。


「お客様へ、一番美味しい料理を届ける。」


「そのためなら、新しい道具を使うことを迷わなかった。」


「思い出は心へ残せばいい。」


「だけど道具は、働かせてあげるものなんだ。」


その言葉は優しかった。


けれど、何よりも厳しかった。


タクはゆっくりと包丁を見つめ直し、小さく頷く。


「……はい。」


その様子を見ていたガルムが、豪快に笑った。


「よし。」


「話は決まりだ。」


タクが顔を上げる。


「修理、ですか?」


「違う。」


ガルムは力強く首を振る。


「鍛え直す。」


その一言に、近くで酒を飲んでいた常連たちも自然と耳を傾けた。


「包丁も。」


「鍋も。」


「フライパンも。」


「全部まとめて、俺が面倒を見てやる。」


タクは驚いたように目を見開く。


「でも……。」


「代金は三日分の飲み代でいい。」


「え?」


「俺にも勉強がある。」


ガルムは少年のように笑った。


「最近、面白ぇ鉄が手に入ってな。」


「試してみてぇんだ。」


エレノアも楽しそうに頷く。


「この男、腕だけは本物さ。」


「任せてごらん。」


タクは手の中の包丁を見つめる。


しばらく黙ったあと、深く頭を下げた。


「……お願いします。」


ガルムは豪快に笑った。


「明日は店、休みだったな。」


「鍛冶街の外れにある俺の工房まで来い。」


「もう一度、命を吹き込んでやる。」


 ————————


翌日。


休肝日の『Rack of Luck』は、昼になっても静かなままだった。


タクはいつものように店内を掃き、カウンターを磨き、グラスを一つひとつ丁寧に拭き上げる。


営業はなくとも、店の手入れは欠かさない。


それが、今では自然と身についた日課だった。


厨房へ戻ると、包丁を一本ずつ布へ包んでいく。


長年使われた牛刀。


小回りの利くペティナイフ。


魚を捌く出刃包丁。


小さな果物包丁。


どれも傷だらけだったが、それだけ多くの料理を支えてきた証でもある。


鍋やフライパンも籠へ収めると、思った以上の重さに苦笑した。


「……よし。」


その時、店の扉が軽やかな音を立てる。


「待たせたね。」


エレノアが微笑みながら立っていた。


「行こうか。」


「はい。」


二人は道具を担ぎ、『Rack of Luck』を後にした。


――――――


街の外れへ近づくにつれ、空気が変わっていく。


カンッ!


カンッ!


カンッ!


金属を打つ乾いた音が幾重にも重なり、まるで街全体が鼓動しているようだった。


炉から立ち昇る熱気。


赤く焼けた鉄の匂い。


煤にまみれながら槌を振るう職人たち。


誰一人として無駄な動きをしていない。


「すごい……。」


タクは思わず足を止める。


エレノアは懐かしそうに目を細めた。


「ここが鍛冶街さ。」


「この国の武器も鍋も包丁も、大半はここで生まれる。」


炎と鉄。


その間で生きる者たちの街だった。


「料理人が料理で人を支えるように。」


「鍛冶師もまた、人の暮らしを支えている。」


タクは静かに頷いた。


――――――


「おーい!」


工房の奥から豪快な声が響く。


「来たか!」


現れたのは、昨日と同じく煤だらけの前掛けを身につけたガルムだった。


「持ってきたか。」


「はい。」


タクは籠を机へ置き、布をほどいていく。


一本一本の包丁。


鍋。


フライパン。


ガルムは何も言わず、それらを順番に手に取った。


刃を撫でる。


鍋の底を軽く叩く。


フライパンを裏返し、ゆっくり頷く。


やがて、小さく笑った。


「聞こえる。」


「……え?」


「こいつらの声だ。」


タクは不思議そうに首を傾げる。


ガルムは包丁を愛おしそうに撫でながら言った。


「もっと働きたい。」


「まだ料理を作りたい。」


「治してくれ。」


「そう叫んでやがる。」


エレノアがくすりと笑う。


「相変わらずだねぇ。」


「職人ってのは皆そうさ。」


ガルムは照れもなく笑い返した。


「鉄は喋る。」


「聞こえねぇ奴は、まだ半人前だ。」


――――――


そう言うと、ガルムは工房の奥へ歩いていく。


大きな木箱を開き、中から銀色に輝く金属塊を取り出した。


陽光を受けたその金属は、まるで淡い月光を閉じ込めたような輝きを放っている。


「見ろ。」


タクは思わず息を呑んだ。


「綺麗だ……。」


「深淵鋼だ。」


ガルムは誇らしげに笑う。


「しかも精製済み。」


「純度九九・九九。」


「ようやく手に入った。」


タクは思わず見入る。


「深淵鋼……。」


ガルムは金属塊を軽く叩いた。


澄んだ音が工房へ響く。


「こいつを混ぜれば欠けにくい。」


「折れにくい。」


「刃持ちは段違い。」


「汚れも付きにくい。」


「それでいて軽い。」


まさに料理人にとって理想の素材だった。


「ですが……。」


「高いんじゃ……。」


エレノアも腕を組む。


「そんな素材使ったら、この店じゃ払えないよ。」


するとガルムは腹を抱えて笑った。


「だから払わせねぇ。」


「……え?」


「これは俺の先行投資だ。」


深淵鋼を肩へ担ぎながら笑う。


「俺も深淵鋼をもっと使いこなしたい。」


「お前さんの包丁は、その練習相手になってもらう。」


「その代わり。」


「俺の腕を信じろ。」


「代金は?」


「前に言った通り。」


「三日分の飲み代で十分だ。」


タクは言葉を失った。


エレノアが肩をすくめる。


「まったく。」


「職人ってのは、本当に粋だねぇ。」


ガルムは照れ隠しに鼻を鳴らした。


「酒好きなだけだ。」


三人は自然と笑い合った。


――――――


「じゃあ預かる。」


包丁。


鍋。


フライパン。


深淵鋼。


すべて炉の前へ並べられる。


ガルムはその場へ胡坐をかき、静かに目を閉じた。


工房中に響く槌音。


炎の唸り。


職人たちの掛け声。


その喧騒の中で、ガルムだけが微動だにしない。


「……何をしてるんです?」


「聞いてる。」


短く答える。


「鉄の声を。」


しばらくして目を開き、満足そうに頷いた。


「よし。」


「まだまだ働く気満々だ。」


「夜には届けてやる。」


「店は休みだったな?」


「はい。」


「僕は店にいます。」


「任せとけ。」


そう言って炉へ火を入れる。


ごうっ――。


炎が一気に燃え上がった。


赤熱する鉄。


握られる槌。


カンッ!!


鍛冶街中へ澄んだ音が響き渡る。


「まだ終わらせねぇ。」


カンッ!!


カンッ!!


カンッ!!


火花が夜空へ散り、小さな星のように舞い上がる。


タクはその光景を振り返りながら思った。


(きっと……。)


(あの包丁たちは、嬉しいんだ。)


――――――


夜。


営業のない『Rack of Luck』は静まり返っていた。


タクはカウンターで一人、シェーカーを振っている。


シャカッ。


シャカッ。


氷の音だけが店内へ響く。


「もう少し柔らかく……。」


エレノアから教わった動きを何度も繰り返す。


その時。


コンコン。


扉が叩かれた。


「はい。」


開けると、ガルムが大きな木箱を背負って立っていた。


「終わったぞ。」


箱が開かれる。


そこには、生まれ変わった包丁たちが並んでいた。


新品ではない。


細かな傷も、使い込まれた柄も残っている。


だが、刃は鏡のような輝きを取り戻し、鍋もフライパンも深い艶を帯びていた。


まるで長い眠りから目覚めたようだった。


「握ってみろ。」


タクは牛刀をそっと手に取る。


軽い。


しかし芯がある。


振るだけで違いが分かった。


「ありがとうございます。」


深く頭を下げる。


ガルムは照れくさそうに鼻をこすった。


「礼なら酒でいい。」


「では、一杯だけ。」


二人はカウンターへ並んで座る。


タクは静かにジィンを量り、リャイムを搾り、氷を回しながらゆっくりとステアした。


透明な酒をグラスへ注ぎ、右側からそっと差し出す。


「どうぞ。」


ガルムは一口飲み、大きく息を吐く。


「……うめぇ。」


しばらく静かな時間が流れた。


やがてガルムが店内を見回す。


「エレノアはいねぇのか?」


「今日は家へ帰られました。」


「そうか。」


懐かしむように笑う。


「本当にいい女だ。」


少しだけ遠くを見るような目になる。


「もし、あいつの旦那が現れなかったら。」


「今頃、あいつの隣にいたのは俺だったかもしれねぇ。」


タクは磨いていたグラスの手を止める。


「聞かせてください。」


「お二人のことを。」


ガルムは苦笑しながらグラスを揺らした。


「長い話になるぞ。」


「今日は休みですから。」


タクは静かに笑う。


ガルムも小さく笑い返した。


「じゃあ、話すか。」


「俺と、あいつら夫婦の昔話を。」


店に営業はない。


それでも『Rack of Luck』には、酒を酌み交わす二人の姿があった。


鍛冶師と、駆け出しのバーテンダー。


職人が、もう一人の職人を語る夜。


静かで穏やかで――


何よりも贅沢な時間が、ゆっくりと流れていった。

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