サモンとクリームチーズュのカナッペ
ヴィール=ビール
ズコッチ=スコッチ
ヴァイン=ワイン
ヴィースキー=ウイスキー
サモン=サーモン
クリームチーズュ=クリームチーズ
クラッカ=クラッカー
オリーヴ=オリーブ
リャイム=ライム
ジィン=ジン
日が暮れ、街に夜の帳が下りる頃。
『Rack of Luck』の軒先に吊るされたランプへ、エレノアが静かに魔力を流し込む。
ぽっ――。
柔らかな橙色の灯がともり、酒場は今日も夜を迎えた。
「こんばんは。」
タクは磨き上げたカウンターへ手を添え、穏やかな笑顔で客を迎える。
開店から間もなく、常連たちは自然といつもの席へ腰を下ろした。
ミズハはヴィールを片手に、その日のファーストプレートをゆっくり味わっている。
ドワーフのガルムはズコッチを静かに傾け、琥珀色の香りを楽しむ。
オーガたちはヴァインを囲み、豪快な笑い声を響かせながら談笑していた。
誰も急がない。
誰も騒がない。
それぞれが思い思いの夜を楽しむ、穏やかな時間。
その時だった。
────────
からん。
扉のベルが鳴る。
入ってきたのは四人組の冒険者だった。
人族の青年。
長い耳を持つエルフの女性。
熊人族の大男。
そして小柄な蜥蜴人。
全員の装備には、幾度となく死線を潜り抜けた傷跡が刻まれている。
鎧には鋭い爪痕。
盾には深い裂傷。
剣は何度も研ぎ直され、刃の幅が少し細くなっていた。
それでも四人とも笑っていた。
生きて帰ってきた者だけが浮かべる笑顔だった。
「空いてるか!」
「もちろんです。」
タクは微笑み、テーブル席へ案内する。
四人は席へ着くなり、大きな革袋を机へ置いた。
――ジャラリ。
鈍く重い音が店内へ響く。
革袋の口から覗くのは、ぎっしりと詰まった金貨。
近くの客たちが思わず息を呑む。
「……おい。」
「すごい額だ。」
エレノアは一目見るなり、小さく笑った。
「ああ。」
「深淵から帰ってきたんだね。」
四人は顔を見合わせ、大きく頷く。
「そう!」
「生きて帰れた!」
「今日は祝杯だ!」
その言葉に、店内から自然と拍手が湧き起こる。
「おめでとう!」
「無事で何より!」
「乾杯だ!」
祝福の声が飛び交う。
四人は照れくさそうに頭を下げた。
酒場では、それが当たり前だった。
深淵から帰ってきた者は、生きて帰れたことを皆で祝う。
明日も帰れる保証など、どこにもないのだから。
────────
人族の青年がタクへ視線を向ける。
「マスター。」
「はい。」
「ヴィースキーを一樽。」
一瞬、店内が静まり返る。
「……一樽、ですか?」
「ええ。」
青年は笑った。
「今夜、飲み切ります。」
タクは念のため確認する。
「ヴィースキー一樽になりますと、金貨九枚ほどになりますが……。」
青年は革袋を軽く持ち上げる。
「問題ありません。」
「今日は命を拾った日です。」
「景気よく飲みます!」
エレノアが優しく笑う。
「こういう日はね。」
「財布より命の方が軽かった日なんだよ。」
タクは静かに頷いた。
深淵。
そこは、生きて帰る保証など存在しない場所。
だからこそ、帰還を祝う酒には惜しみなく金を使う。
それが冒険者たちの流儀だった。
「かしこまりました。」
────────
地下セラー。
冷たい空気の中、タクはヴィースキーの樽を慎重に運び出す。
栓を抜くと、樽の奥から甘く芳醇な香りがゆっくりと広がった。
(この酒を引き立てるなら……。)
視線が冷蔵庫へ向く。
昨日仕込んだサモンの燻製。
クリームチーズュ。
そして、焼けば香ばしくなるクッラカ。
「これだ。」
小さく頷く。
クッラカを軽く炙る。
ぱちり。
香ばしい香りが立つ。
そこへクリームチーズュを丁寧に塗る。
厚すぎず。
薄すぎず。
口へ運んだ瞬間に溶ける厚み。
さらにサモンの燻製を一枚。
刻んだ香草。
黒胡椒を少し。
最後に香り付けとしてオリーヴ油を一滴だけ落とす。
一口で食べられる小さな料理。
けれど、そのすべてが酒を楽しむためだけに考えられた一皿だった。
────────
「お待たせしました。」
タクは左側から静かに皿を置く。
「本日のファーストプレートです。」
「ヴィースキーと合わせてお楽しみください。」
続いて樽から酒を注ぐ。
一人はストレート。
一人はロック。
一人は水割り。
最後の一人は、添えられたリャイムを軽く搾り、皮ごとグラスへ落とした。
四人はグラスを掲げる。
「今日の幸運に。」
「そして。」
「これから積み重なる幸運に。」
「乾杯!」
澄んだ音が重なる。
琥珀色の酒が喉を流れ落ちる。
「くぅ……!」
自然と全員の手がカナッペへ伸びる。
一口。
静寂。
誰も言葉を発しない。
やがて熊人族が目を丸くした。
「……なんだ、これ。」
エルフの女性が小さく息を漏らす。
「サモンの燻製が、ヴィースキーの香りと溶け合う……。」
蜥蜴人も頷く。
「クリームチーズュが酒の角を丸くしてる。」
青年が笑う。
「クッラカの軽さが、また酒を飲ませる。」
飲む。
食べる。
また飲む。
止まらない。
熊人族が豪快に笑い出した。
「すごい!」
「酒が主役なのに、この料理が酒をもっと美味くしてる!」
「邪魔しない!」
「全部引き立ててる!」
勢いよく青年が立ち上がる。
「マスター!」
「はい。」
「このファーストプレート!」
「金貨一枚分、追加してください!」
店内から笑いが起きる。
タクも思わず笑った。
「かなりの量になりますよ?」
「構いません!」
青年は満面の笑みを浮かべる。
「今日は幸せを食べに来たんです。」
その言葉に、店中がさらに笑顔になった。
「いいこと言う!」
「俺にも同じもの!」
「ヴァインでも試したい!」
「ズコッチにも合いそうだ!」
タクは穏やかに一礼する。
「かしこまりました。」
「少々お待ちください。」
厨房では次々とカナッペが仕上がっていく。
焼きたてのクッラカ。
滑らかなクリームチーズュ。
香り高いサモンの燻製。
酒棚からはヴィースキー、ズコッチ、ヴァイン、ジィンが次々と取り出され、それぞれに合う組み合わせが提案される。
酒場は、料理を楽しむ場所ではなく。
酒と料理、その両方を楽しむ場所へと変わっていった。
────────
夜も更ける。
四人は未来を語っていた。
「俺は家を建てる。」
「私は妹を学校へ通わせたい。」
「新しい武器を作る。」
「また四人で深淵へ挑もう。」
笑い声が絶えない。
やがて樽の底から、最後の一杯が注がれた。
ヴィースキー一樽。
見事に空になっていた。
「飲み切ったな。」
「ははは!」
四人は顔を見合わせ、大声で笑う。
────────
会計。
青年は金貨十枚を静かにカウンターへ置いた。
タクはそのうち一枚をそっと押し返す。
「これは私からのお餞別です。」
青年は少し驚き、それから静かに笑った。
「ありがとう。」
店内をゆっくり見渡す。
「深淵から帰って来られたこと。」
「仲間と笑えたこと。」
「そして、この店に出会えたこと。」
グラスを軽く掲げる。
「全部、幸運だ。」
タクも自然と微笑む。
「また、お待ちしております。」
「ええ。」
青年は頷いた。
「また幸運を積み重ねに来ます。」
四人は肩を組み、笑いながら夜の街へ消えていった。
からん。
静かに扉が閉まる。
エレノアは空になったヴィースキーの樽を見つめ、小さく笑う。
「一樽空くなんてねぇ。」
「本当に、いい酒場になった。」
タクは店先の看板へ目を向ける。
『Rack of Luck』
幸運は、一度きりのものではない。
誰かと分かち合い、積み重ねていくもの。
その言葉を胸に、タクは今日最後のグラスを静かに磨き始めた。




