ドライチーズュ
ヴィール=ビール
ヴァイン=ワイン
チーズュ=チーズ
リャイム=ライム
ジィン=ジン
朝。
ノクスアークの街へ、柔らかな朝日がゆっくりと降り注いでいた。
『Rack of Luck』の木製の扉が静かに開く。
「ふぅ……。」
タクは大きく息を吸い込み、箒を手に店先へ出た。
昨夜の風が運んできた落ち葉を集め、石畳を丁寧に掃く。
店内へ戻れば、床を水拭きし、カウンターを磨き上げる。
棚から一つひとつグラスを取り出しては光へかざし、曇りがないことを確かめる。
最後に軽く頷いた。
「よし。」
そのまま裏口へ回り、ごみ箱を抱えて集積所へ向かおうとした、その時だった。
――カサササササッ。
驚くほど素早い足音が近付いてくる。
「速達便です!」
思わず振り向く。
そこには、人の背丈ほどもある甲虫人が立っていた。
艶やかな黒い外殻。
長い触角。
背中には革製の郵便鞄。
姿は巨大な甲虫そのものに近いが、制服は見事に整えられ、胸元には配達員ギルドの紋章が光っている。
「配達員ギルド所属、速達便です!」
流れるような動作で封書を差し出し、胸へ手を当てる。
「速く、丁寧に、傷ひとつなく。それが我々の誇りです。」
深く一礼。
そして。
「失礼いたしました!」
再びカサササッという音を残し、風のような速さで走り去っていった。
タクは思わず呟く。
「……本当に速い。」
封筒へ視線を落とす。
封印には、ノクスアーク支部民間役所の紋章。
店へ戻り、封を切る。
『飲食店営業監査のお知らせ』
監査日時──本日正午。
「今日?」
思わず目を丸くした。
その時。
カラン。
表の扉が開く。
「おはよう、タク。」
エレノアだった。
事情を話し、封書を手渡す。
エレノアは目を通し、ふっと笑った。
「ほぉ……珍しいねぇ。」
「普通なら開店して一か月、早くても数週間は経ってから来るものなんだけど。」
さらに封印の日付を見て、小さく肩をすくめる。
「しかも、この手紙。」
「昨日発行されたものだよ。」
「え?」
「つまり、昨日出したものが今日届いたってことさ。」
タクは驚きを隠せない。
「そんなこと、あるんですね。」
「滅多にないよ。」
エレノアは笑う。
「それだけ、この店が話題になってるんだろうね。」
タクは自然と背筋を伸ばした。
「ちゃんと迎えないと。」
「ふふ。」
エレノアは優しく微笑む。
「肩肘張らなくていい。」
「普段通り掃除をして、普段通り迎える。」
「それが一番さ。」
────────
正午。
コンコン。
静かなノックが響く。
「どうぞ。」
扉が開く。
現れたのは、一人のネズミの獣人だった。
灰色の整った毛並み。
丸い耳。
細い口髭。
黒いスーツに革鞄。
穏やかな笑みを浮かべながらも、その立ち姿には一切の隙がない。
「魔王国役所ノクスアーク支部、営業監査課のミズネと申します。」
「本日は営業監査に参りました。」
「よろしくお願いいたします。」
タクとエレノアも深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。」
監査は静かに始まる。
保存庫。
冷蔵庫。
地下セラー。
包丁。
まな板。
排水設備。
ごみ保管庫。
一つひとつを確認し、時折メモを取る。
「……。」
包丁を手に取り、刃先を見る。
「よく研がれていますね。」
排水溝へ視線を向ける。
「臭いもありません。」
冷蔵庫を閉め、静かに頷く。
「日頃から丁寧に管理されていることが分かります。」
タクは少し照れながら答えた。
「ありがとうございます。」
続いて書類確認。
営業許可証。
深夜酒類提供営業届。
防火管理届。
食品衛生責任者。
エレノアはギルドプレートを外して差し出す。
ミズネが魔力を流すと、青白い文字が浮かび上がった。
『食品衛生責任者』
『飲食店営業許可』
『防火管理者』
一つずつ確認し、静かに頷く。
最後に店内を見渡し、穏やかな笑みを浮かべた。
「問題はございません。」
「営業を継続していただいて結構です。」
「今後とも、よろしくお願いいたします。」
深く一礼し、店を後にした。
タクは大きく息を吐く。
「終わったぁ……。」
エレノアは嬉しそうに笑った。
「これで本当に認められたね。」
「酒場として。」
少し間を置き、タクを見る。
「さて。」
「今日からは、料理だけじゃない。」
「バーテンダーとしての仕事も覚えていこう。」
タクは真剣な表情で頷いた。
「はい。」
────────
午後。
営業までの静かな時間。
エレノアの指導が始まる。
「料理は、お客様の左側から。」
「はい。」
「お酒は右側。」
「利き手で自然に取れるように。」
「はい。」
エレノアはグラスを持ち上げる。
「そして、一番大事なのは音。」
そっとカウンターへ置く。
コト……
ほとんど音がしない。
「置くんじゃない。」
「お客様へ預ける。」
タクも何度も繰り返す。
少しずつ。
静かに。
自然に。
「会話は?」
エレノアが尋ねる。
「……聞くことですか?」
「その通り。」
「話しすぎなくていい。」
「お客様が話したくなった時だけ、耳を貸せばいい。」
少しだけ笑う。
「酒を売る仕事じゃない。」
「帰って来られる場所を作る仕事さ。」
その言葉を、タクは胸の奥へ刻み込んだ。
────────
夜。
ランプへ灯がともる。
今日も『Rack of Luck』は賑わっていた。
ヴィールを楽しむ者。
ヴァインを味わう者。
静かに本を読む者。
仲間と笑い合う者。
料理よりも。
酒よりも。
思い思いの時間を過ごせる場所。
それが、この酒場だった。
やがて。
カラン──。
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」
入ってきたのは、昼間の監査官ミズネだった。
今度は上着を脱ぎ、白いシャツ姿。
昼よりも柔らかな表情を浮かべている。
「こんばんは。」
「今夜は、お客として伺いました。」
タクは自然と笑みを返した。
「ありがとうございます。」
ミズネはカウンターへ腰を下ろす。
「明日も仕事がありますので。」
「強すぎず、でも疲れがほどける一杯をお願いできますか。」
タクは静かに目を閉じた。
昼間。
エレノアが教えてくれた言葉。
『相手を見て、一杯を考える。』
ゆっくり目を開く。
「かしこまりました。」
まず、小さな木皿へ薄く切ったドライチーズュを盛り付ける。
ゆっくり乾燥させることで旨味を凝縮した酒肴。
自然と身体が動く。
左側から静かに差し出す。
「本日のファーストプレートです。」
続いてグラスへ氷を入れ、ドライ・ジィンを注ぐ。
リャイムを半分。
果汁だけを搾る。
最後に一度だけ、静かにステア。
爽やかな香りが立ち上る。
今度は右側から、そっとグラスを預けた。
「こちらをどうぞ。」
ミズネはまずドライチーズュを一口。
ゆっくり噛み締める。
続いて酒を含む。
静かに目を閉じた。
「……なるほど。」
小さく微笑む。
「塩味が舌を目覚めさせ、そのあとにジィンの香りが広がる。」
「リャイムが最後に余韻だけを残してくれる。」
もう一口。
「仕事終わりには、ちょうどいい一杯です。」
タクの表情が自然とほころぶ。
「ありがとうございます。」
ミズネも笑った。
「昼間は店を見させていただきました。」
少しだけ店内を見渡す。
笑い声。
グラスの音。
柔らかな空気。
「ですが今夜は、この店の空気を味わいに来ました。」
「また静かに飲みに来ます。」
その言葉が、タクには何より嬉しかった。
カウンターの向こうで、エレノアが小さく頷く。
「少しずつ。」
「マスターらしくなってきたね。」
タクは照れくさそうに笑い、新しいグラスを手に取る。
柔らかな灯りの下。
『Rack of Luck』には今夜もまた、誰かが帰って来られる時間が静かに流れていた。




