番外編:ヴィクアタールの家族
エリアーヌがヴィクアタールへ嫁ぐことが決まった。
父ジェラールは最後まで抵抗を見せたが、それでも娘の幸せを願い、涙を浮かべて送り出した。
いくらウィルバート自身が爵位を持つわけではないにしても、流石に平民同士のようにはいかない。
いろいろと手続きや最低限通過すべき儀礼も多く、短くとも半年ほどは婚約期間を設けることになった。
いくらある程度の教養があるエリアーヌといえども、隣国の平民の娘である。
改めて行儀作法を習ったり、貴族夫人としての心得を学んだり、文化の違いを埋める作業であったり。
とにかく一朝一夕に身につかないことばかりが降り積もっている。
そんな状況であるから、エリアーヌはここのところ寝所にまで本を持ち込んでいた。
苦労をかけている婚約者を気遣うことしかできず、ウィルバートはもどかしいばかりであった。
「エリアーヌ。無理はしていませんか?」
「していないわ。面白いことのほうが多いから大丈夫よ」
「それならいいのですが。すみません、本来であれば母が教えるべきことなのに」
「お会いできていないのは残念だけれど、お義母様からは直接お手紙をいただいているもの。むしろ気にされていないと良いのだけど」
そう言って、エリアーヌは本を閉じた。
「お義父様のお身体の調子はお変わりないの?」
「そうですね。もともと、私以上に胸が弱いのです」
「おかわいそうに」
「領内で、ここよりはずっと住みやすい辺りに居を構えていますから。あそこにいる限りは今より酷くなることはないでしょう」
そうなのね、と言いながら、エリアーヌはベッドに横になった。
「眠りますか?」
「ん……」
枕元のランプを落とし、ウィルバートも横になる。
うとうとし始めた婚約者の顔を眺め、その前髪をそっと撫でる。
「……あのね、ウィルバート」
「はい」
「私、本当にこの家に嫁いできてもいいのよね?」
思わず名前を呼ぶも、寝息が返ってくる。
夢うつつで漏れ出た言葉であるらしい。
気丈に振る舞ってはいるが、エリアーヌだって不安で仕方ないに決まっている。
彼女に言葉で尋ねたところで綺麗な言葉が返ってくることくらい、理解しているはずだったのに。
ウィルバートは自分の不甲斐なさを思い知らされた。
そっとベッドを抜け出して、机にランプを立てる。
音で起こさないよう、できるだけ静かにペンを滑らせた。
それからもエリアーヌは弱音も吐かず、毎日の予定をこなしている。
ときどき甘いものを差し入れたり、街歩きに連れ出したりしながら、ウィルバートも懸命にそれを支えた。
そんな日々を過ごしていたある日の午後。
執務室に使用人が駆け込んできた。
ウィルバートはその既視感に、ものすごく嫌な予感がした。
「……何事か」
「ご当主様が、お着きでございます……」
ウィルバートは頭を抱えた。
大慌てでエリアーヌの勉強を中断させ、支度をさせる。
訳もわからぬまま着替えさせられ、化粧をされ、エリアーヌは戸惑うばかりの様子だ。
「すみません、どうやら兄が来ていまして」
「そうなの? 急なことね」
「どういう意図か分かりません。私が相手をしますから、貴女は無理に話さずにいてください」
エリアーヌはムッとした顔をした。
「私だってちゃんとできるわ」
「すみません。会えば分かると思いますが、貴女のためです。今日のところはどうか我慢してください」
エリアーヌはまだ不服そうだが、一応は了承した。
最後にお互いの身なりを確認し、揃って客間へ向かう。
「兄上。お待たせして申し訳ありませんでした」
「そうだな。仕事がいくつか終わった」
足を組み、お茶を飲みながらも、目は書類から離れない。
ウィルバートは苦笑した。
「突然のお越しで驚きました」
「お前が兄に会いたいと手紙を寄越したんだろう」
「……まぁ、確かに今回はそういうお手紙ではあったのですが」
そう言いながら、マティアスの対面に揃って座る。
エリアーヌのことなど視界に入っていないかのように、マティアスは弟とだけ話す。
エリアーヌはこの偉そうな男の態度に、内心腹が立っていた。
だがここのところの教育の成果もあり、なんとか笑顔を浮かべて堪えている。
それにしても、これが義兄。
現在のヴィクアタール伯爵家当主、マティアス。
兄弟は面立ち自体は似ているようだが、体つきは兄のほうが随分大きいようだし、そもそも持っている雰囲気が全然違う。
ウィルバートは黙って立っている分には冷たい表情に見えるが、本人の性質が態度に出ているおかげか恐ろしさはない。
一方のマティアスは常に口角が上がっているのに、目が全く笑っていない。
その視線を向けられると、瞬間、エリアーヌの背中に緊張が走った。
「お前がエリアーヌだな」
「お初にお目にかかります。エリアーヌと申します。この度は……」
「口上は良い。一門に加わった以上は相応の努力を求める。弟の手を煩わせてくれるなよ」
せっかく練習した口上を遮られてしまった。
それにしても、ずいぶんな言われようではないか。
私が押しかけてきたんじゃなくて、あんたの弟が私を好きになったんだから。
エリアーヌは頭に血が上りそうだったが、持ち前の負けん気で腹に力を入れてにっこりと笑った。
「承知いたしました。お義兄様のご期待に応えられるよう、ウィルバートと手に手をとって努めてまいりますわ」
ウィルバートは額に手をあてた。
兄に向かってあからさまに当て擦りながら言い返すなど、到底信じられない。
今ばかりはエリアーヌの胆力が憎かった。
しかし、予想に反してマティアスは大きな声で笑い飛ばした。
「あっはっはっは! ウィルバート、聞いたか。これは面白いぞ」
「左様ですか」
「良い買い物だったな。可愛がってやるがいい」
「ありがとうございます」
あまりに大きい声で笑うので、エリアーヌは呆気に取られた。
その表情すら面白いらしい。
マティアスは再度喉を鳴らし、体勢を少し前のめりにする。
「エリアーヌ。お前にも兄と呼ぶ許可を与えてやる。お前ならば、我が名をうまく使えるな?」
——試されている。エリアーヌは直感した。
目の色が変わった。義兄は今、本当に笑っている。
迂闊なことは言えない。
今ここでの振る舞いが、今後の自分の立場を決めることになるだろう。
エリアーヌはなけなしの勇気を振り絞り、できる限り不敵に笑ってみせた。
「きっと、お役に立ってみせますわ」
「——上出来だ」
マティアスはその鋭い歯を見せるようにして口の端で笑い、そして立ち上がった。
そしてついでのように弟の頭を撫でて、そのまま退出していく。
どうやらもう領都に戻るらしい。嵐のような人だ。
深く深く息を吐いて、ウィルバートは手足を投げ出すように姿勢を崩した。
「大丈夫?」
「気が気でありませんでした。よくそんな……兄が恐ろしくはなかったのですか?」
「偉そうなひとだったわ」
「悪い人ではないのです」
「そうね。最初から私に悪意がある感じではなかったわ」
ウィルバートはまだ立て直せていないらしい。
妙な姿勢のままで顔を青くしている。
「威圧する意図もなさそうだった。お義兄様って、単に態度が大きいひとなのね」
「あの人相手にそんなことを言うのは貴女だけです」
「貴方があの人を呼んだの?」
「そうと言えばそうなのですが……」
ウィルバートはやっと姿勢を直す。
それでも膝に手をつくようにしていて、身体に力が入っていないようだ。
「手紙を書きました。一度、正式に婚姻が成立する前にきちんと婚約者を紹介したいと」
「普通はこちらから伺うものではないの?」
「そうです。兄の予定を聞いてから日程を調整して、と考えていたし、そのように書いたはずなのですが」
疲れ果てたようにぐったりしている。
万事この調子なら大変そうだ。義兄との距離感は間違えないようにしようとエリアーヌは心に誓った。
「まぁでも、貴方の家族にご挨拶できてよかったわ」
「……それなら、よかった」
ウィルバートは当初、隣国から誰かを連れてくることを提案した。
だが彼女はそれを跳ね除け、単身こちらへと移った。
恐らくは商会の誰一人として自分のために故郷や家族と引き離したくないという、彼女の優しさゆえなのではないだろうか。
ウィルバートは事前に彼女の両親含め、商会の従業員たちにすら挨拶をさせてもらっている。
しかし色々と折り合いが悪く、こちらの家族は誰もエリアーヌと直接顔を合わせられていなかった。
ウィルバートはいずれ、とのんびり構えていた。
だが、先日の夜のことで彼女の気持ちを考えたら急ぐべきことだったと気付かされたのだ。
しかし結果はこの有様である。
ウィルバートは密かに自分の立ち回りのまずさを悔いていた。
エリアーヌが身を寄せてくる。
ウィルバートは抵抗せずに受け入れた。
「なんだか疲れたわ」
「そうですね」
「ウィルバート。次からお義兄様にお手紙を書くときは気をつけてね」
「そうですね。努力します」
ウィルバートはそっと、エリアーヌの手に自分の手を重ねた。




