番外編:暁のヴィクアタール
マティアスは弟を殊更に可愛がっている。
それは彼の周囲では誰しもが承知していることであった。
六つにして既にその才気を発露させていた彼にとって、弟は取るに足らない存在で、己を脅かす恐れなど微塵も感じさせはしなかった。
両親の愛情を疑ったこともなければ、周囲が己よりか弱い弟の世話に手が取られることも当然であろうと理解していた。
そもそも赤子相手に嫉妬するほど、彼は己の存在を疑ってはいなかったのである。
繰り返すが、彼はこのとき齢六つであった。
その後マティアスは彼なりに少々の挫折や敗北は経験したのだが、それを周囲には悟らせなかった。
むしろその小さな失敗を糧に、身分や慣例という、本来なら彼一人の才覚では動かせないはずの壁でさえ、次々と打ち壊していく。
そしてそのうち、その発言一つで宮廷の空気すら動かす存在にまでなった。
しかし、彼はどこまでも正しく貴族であった。
身分や年齢が上の者には敬意を払い従順な姿勢を見せる可愛げがあり、王には忠実で、そして他者への施しを躊躇わない寛容さがあった。
それだけに、周囲はどんなに鼻持ちならなくとも、彼を嫌うことが難しかった。
そんなマティアスが十八の頃のことである。
あまり身体の強くなかった父から爵位を継承することになった。
実際のところはもうしばらく父が執務にあたるのだが、爵位だけは先にマティアスのものとしたのだった。
それは彼の人生において当然来るべき日であったので、本人としては特になんの感慨もなかった。
朝日が昇り、夕陽が沈んだようなものだったのだ。
王宮にて王との謁見を終えたその日、さすがのマティアスも少々気疲れしていた。
「おかえりなさい、兄上」
「今戻った」
邸に着いて早々、弟が軽い足音を立てて出てくる。
いかにも嬉しげな甘えた顔に、マティアスも頬を緩めた。
「走るな。咳はもういいのか」
「はい。あの、兄上、とてもお似合いです」
着飾った姿を尊敬の眼差しで見てくる弟を、思わず乱暴に撫で回した。
哀れにも父の体質を受け継ぎ、弟は少々胸が弱い。
無事に十二歳まで生き延びたことからも、医師にはもう少し大きくなれば落ち着くとは言われている。
だがそのか弱さはマティアスにとっては憐れみの対象でしかなかった。
「兄上。この度の叙爵、誠におめでとうございます」
恐らく何度も練習したのだろう。
辿々しく口上を述べ、弟は小さな箱を差し出してきた。
目の前で開けてやれば、それは小さな青い石をあしらったペンダントであった。
「これは?」
「兄上の瞳に似た石を探したのですが、見つかりませんでした。それでも近い色の石を選んだのです」
確かに自分の瞳の色ほど美しい宝石など世の中にはないだろうな、と思った。
そもそもそんなものを探そうということ自体が正気とは思えない。
だがマティアスは、この石をとても気に入った。
「美しい石だ。私はこの石とお前に、ヴィクアタールの繁栄を誓おう」
はにかむ弟の瞳を見る。
愚かな弟だ。
この石はむしろ、お前の瞳の色に似ているではないか。
自分の弟に生まれてしまったがゆえに、ウィルバートはこれから先もマティアスと比較されながら生きていくことになる。
生まれながらに絶対に勝てない戦いを強いられるとは。
あまりに運がないではないか。
だから己だけは何があってもこの弟を愛し続けてやらなくてはならない。
マティアスは改めてその胸に誓った。
ヴィクアタール辺境伯マティアス。
国境を守る我が一門こそが国一番の功労者であると言って憚らず、のちに侯爵位にも負けぬほどの地位と権力を持つ「辺境伯」という爵位をエヴェンディアに生み出した張本人である。
その破天荒で傍若無人な逸話は数知れず。
あらゆる貴族の日記に罵詈雑言と共にその名が登場するほどであった。
だが良き為政者としても広く知られており、数々の記録から、結局のところは周囲に愛された人物であったこともまた事実である。
なお彼自身かなりの愛妻家であり、その子らも溺愛した。
更には実弟とその妻を重用し、そうした一門の絆と誇りによって、その広大な領地を見事治め続けた名君としての顔も知られている。
辺境伯家の後世の繁栄は、すべてマティアスの時代に礎を置く。
ゆえに後の歴史家たちは、彼を『ヴィクアタールの礎』と称した。
彼が生涯を終えるときまで、その胸には常に青い石のペンダントが輝いていたという。
彼を描いた肖像画には、必ずそのモチーフが残されている。




