番外編:ヴィクアタールの冬
ヴィクアタールには冬が訪れている。
初めてこちらで過ごすエリアーヌだったが、周囲があれこれと気を回してくれたこともあって、万全の体制で初雪を迎えた。
今日はいよいよ冷えてきたので、執務室にお茶を運ぶ。
妻が自ら運んできたそれに、ウィルバートは頬を緩めた。
「すごいのね。さっきまで粉のような雪だったのに、気付いたらもう一面真っ白」
「夜にはもっと風が出てきますから、音で眠れないかもしれませんよ」
「……そうかもしれないわね」
エリアーヌには不安があった。
雪ではない。
夫となったウィルバートの咳である。
思い返せば少し前、秋の終わりの頃から、ウィルバートは眠りながら咳をするようになった。
本人は慣れているのか眠気が勝つのか、あまり気にしていないらしい。
だがエリアーヌはその咳が気になった。
小さく軽いものではあるが、あれでは本当に眠れているとは言えないだろう。
冬が近づくにつれ頻度が増すそれを、どうにかできないものかとずっと考えていた。
翌朝。
すっかり積もった雪を楽しみながら、アデラの元へ向かう。
「おや。奥様じゃないか」
「もう! その呼び方はやめてったら」
「そこにいると冷えるよ。入りな」
テーブルについて待っていると、少し刺激的な香りのする飲み物が出てきた。
「アデラ、これは何?」
「何と言われてもね。私が適当に、その日良いと思ったものを混ぜているだけだよ」
そう言いながら、アデラはお茶をすすった。
「じゃあ、毎日違うのね」
「体調や気温に合わせて、今必要なものを飲む。そのために、これだけ色々蓄えているんだからね」
アデラはそう言って、チラと部屋の中を見まわした。
思わずエリアーヌも部屋の中を見て、納得した。
「それで? 今日は何を聞きにきた」
「ウィルバートの咳のことを相談したいの」
「あぁ。あの子ね。昔から胸が弱いんだ」
「知っていたの?」
「もっと小さいころ、度々療養でこっちにきていたからね。ここには医者はいないから、診てやることがあった」
なるほど、どうりでウィルバートがアデラのことを知っていたわけだ。
「あの兄貴がここにあの子をよこしたのも、こっちの方が胸にいいからだろう」
「あぁ、お義兄様ならやりそう」
辟易とした表情を浮かべるエリアーヌに、アデラは堪えきれないように吹き出した。
そして、ひとしきり笑うと、真剣な顔をした。
「それで? ひどいのか」
「夜になると咳をするの。あれでは眠れているとは思えないわ」
「部屋が乾燥すると咳が出る。何か水気のあるものを部屋においてやるといい」
「分かったわ。他にやれることはある?」
「いくつか薬になる葉を分けてやる。それぞれの効用を覚えて、その日、あの子に必要なものを入れてやるんだ」
「……責任重大ね」
「そうさ。あんたは魔女の弟子で、奥様なんだ。それくらいやってみせな」
そう言ってアデラはニヤリと笑った。
そこまで言われては、エリアーヌの負けん気が顔を出す。
「任せてちょうだい。絶対に完璧に覚えて帰ってやるんだから」
言ったが最後、魔女の指導は厳しかった。
心の中で後悔しながら、エリアーヌは必死に食らいついた。
「エリアーヌ? 先に眠っていてよかったのに」
「遅くまでおつかれさま」
その夜、ウィルバートは仕事のせいで寝室に向かうのが遅れた。
きっともう妻は眠っているだろうと思っていたが、どうやら自分を待ってくれていたらしい。
その胸に愛しさが広がる。
「大変だったわね」
「ただ量が多かっただけで、簡単ではあったのです」
そう言いながら、ベッドに倒れ込んだ。
甘えるようにエリアーヌの膝に頭を乗せる。
「がんばったのね」
「少し。疲れました」
そっとその金髪を撫でる。
自分とは違う、細くて柔らかい髪だ。
しばらく甘えさせてやると、ウィルバートがうとうとし始める気配がした。
「あ、待って待って。眠る前に飲んでほしいものがあるの」
「ん?」
もう半分目が閉じている。
エリアーヌは慌てて立ち上がり、用意していた茶葉にお湯を注いだ。
「はい、どうぞ」
「……これは」
「魔女の弟子のお薬よ」
「やっぱり」
ウィルバートは嫌そうな顔をした。
「苦いでしょう」
「え?」
「小さい頃、何度も飲まされました」
「あら」
「……すみません。咳がうるさかったですか?」
「ちがうわ。私が、あなたが心配でやりたかったことよ」
そう言えば、しばらくためらったあと、ウィルバートは意を決したように口をつけた。
しかし小さく喉を鳴らすと、意外そうな声を出す。
「苦くない」
「あなたが大人になったんじゃない?」
「そういうことなんでしょうか……」
真剣な顔で言うので、エリアーヌは吹き出した。
本人は訳がわからないと言う顔できょとんとしている。
「冗談よ。私も味見して苦いと思ったから、蜂蜜を入れたの。でもそれだけ」
それでも不思議そうな顔でカップを覗くウィルバートに、幼い彼の面影を見た。
「さ、飲んだら寝ましょう。せっかく私がベッドを温めておいたのに、また冷えちゃうじゃない」
そそくさと寝床に戻る妻を追って、ウィルバートも布団に潜った。
寝台に手をついたとき、少し湿っていることに気づく。
目を滑らせれば、濡れた布巾が干してある。
全てエリアーヌがやったのだ。
きっと、自分のために。
小さい頃、ここで過ごす夜が嫌いだった。
冷たいベッド、止まらない咳、苦い薬。
体調を崩すたび、またここに来させられると恐怖さえした。
だが今はどうだ。
あたたかいベッド、愛しいひと、甘いお茶。
ウィルバートはその夜、酷い咳はしなかった。
エリアーヌは静かな寝息を確かめると、その額にそっと口付けをした。




