第九章 PRINTを集める
五つの要素を、世界中から集める。三十日のうちの、残り四日で。
地下牢を出たのは、夜明け前だった。
ヴァレヌスは衛兵詰所の鍵掛けから三本の鍵を借り出し、地下三階の旧い扉から書庫を抜け、長官府の裏側から城外に出る秘密通路を案内した。通路は石の天井が低く、肩を縮めて歩かなくてはならない箇所が三度あった。出口は、王都の城壁の外、麦の刈り入れが終わったばかりの畑の中だった。
畑のあぜ道で、私を待っていた人影が、二つあった。
一つは、ロウだった。右腕に布で吊り紐をかけ、商人の旅装に身を包んでいた。
もう一つは。
「お前、こんな所で何してる」
私は、その声を聞いた瞬間、膝が一度抜けた。
エルナだった。
左腕は包帯で吊られ、頬の右側に新しい火傷の跡があり、髪は不揃いに切られて短くなっていた。けれど、立っていた。両足で、ちゃんと、立っていた。
「あの宿で、お前」
「死ななかった」
彼女はそれだけ言って、私の方に一歩、踏み出した。
「裏口の床下に、隠し穴があった。あの宿は十年前に俺の父親が逃亡用に作ったやつだった。襲撃を予感して、宿を移った時点で、俺は床下穴を確認してた。屋根が落ちる前に潜り込んで、騎士団が引き上げるまで、丸一日、息を殺してた」
「ロウさんは、知らなかった」
「逃がしたかったから、教えてなかった。あいつが見たのは、俺が表で剣を抜いた瞬間だけだ」
ロウが横で唇を尖らせた。
「姐さん、悪い癖だ、それ」
「悪かった」
エルナは、ロウの頭を、健康な右腕で軽く撫でた。
私は、彼女の前に立って、彼女の兜を抱えていた両手を差し出した。
「これ」
エルナは、自分の兜を見て、目を細めた。
「拾ってくれてたのか」
「はい」
「ありがとう」
彼女は兜を受け取り、片手でくるくる回した。それから、私の頭にそれを被せた。
「お前が今日、被れ。世界の発券担当者なんだろ」
兜は重かった。けれど、頭の上で、温かかった。
四日。
私は手帳を広げ、四日間の旅程を組み直した。
第一日。Pの欄、連絡先。
目的地は北の辺境、通信塔の立つ岩山。距離は王都から三百ロワ。馬で全力で駆ければ、二日で行って二日で戻れる。それでは間に合わない。
ロウが、商人組合の隠し馬車網を提案した。組合は緊急時のために、街道沿いの宿場に専用の馬を控えていて、宿場ごとに馬を乗り継ぐと、距離を半分の時間で踏破できる。私たちは組合の身分証で馬を借りた。
通信塔の老看守は、ヴァレヌスの友人だった。事情を聞くと、彼はすぐに頷いて、塔の最上階の鐘を一つ、鋳造銘を新たに刻ませた。
「世界発券担当・入江志保連絡用、誰でも鳴らせ」
鋳造銘を刻む鎚の音は、岩山の谷に何度も反響した。老看守の手は震えていたが、刻む文字は一筆も乱れなかった。彼は鎚を置いて、私の方を振り返った。「これで、あなたの連絡先が、世界に開かれました」
鐘は、夕方の風に乗って、音を一度鳴らした。深い、低い音だった。岩山の谷を抜けて、北の空に消えていった。
Pの欄、登録完了。
第二日。Rの欄、依頼者署名。
目的地は王城、王の私室。
王の私室への直接謁見は、本来、宰相の許可が要る。けれど、エルナがゼフィ村で別れる前、辺境騎士団の団長宛てに彼女が書き残した手紙が、すでに団長の手に届いていた。団長は王の旧友で、団長の連名で謁見申請を上げれば、宰相を通さずに王へ届く道筋がある、とエルナは言った。
団長は、私たちを夜半過ぎに王城の裏口から私的に招き入れた。彼は背の低い、白髪の老人で、エルナを見るなり、彼女の生存に何も驚かなかった。「お前は死なないとも」とだけ言って、彼女の頭を粗っぽく撫でた。
王の私室は、玉座の間の重厚さとは対照的に、こぢんまりとした寝室だった。高窓に厚いカーテンが下ろされ、銀の燭台が机の脇で一つだけ灯っていた。机の上には、古い本が三冊と、未開封の文箱が一つ。寝台は奥にあり、王はそこで上半身を起こして、私たちを迎えた。彼の手元には、毛布の上に置かれた、書きかけの私的な日誌があった。
王の私室で、私は古文書の創建期様式に基づき、世界の予約記録への依頼者署名を、王に直接お願いした。
王は、最初、戸惑った。
「卿、長官は」
「長官は本日、ご欠席でございます」
団長が答えた。
「世界の発券は数日のうちに迫っております。陛下の真筆を、ここに、お願い申し上げます」
王は、しばらく筆を持つ手を震わせた。けれど、震えながらも、書いた。
書く前に、王は私の方を一度、見た。彼の瞳は、私が想像していたよりも澄んでいた。十年間、黒澤の代筆に頼り続けた瞳とは思えない、まだ自分の意思を持ち続けている瞳だった。「卿の手の動きは、わが宰相の手の動きと、よく似ているな」と、王は囁くように言った。「けれど、結ぶ方角が、違う」。私は何も答えなかった。答える必要は、なかった。
古びた紙の右下に、王の真筆が一文字、書き加えられた。
Rの欄、登録完了。
第三日。Nの欄、氏名。
これは三名連名、私とエルナとロウ。
私は、ノートの空白頁に、三人の名を縦に並べて書いた。
「入江志保」「エルナ・グラフ」「ロウ・ターニャ」
ロウが照れたように頭を掻いた。「俺の本名、姓まで覚えてくれてたんですね」「組合の身分証に書いてありましたから」「あれ、姐さん、字、見てたんですか」「はい」
エルナが横で笑った。
「お前、相変わらず、見るところは見てるな」
三人で円形に並んで、書類の右下に、それぞれの直筆署名を書き加えた。私が一番上、エルナが二番目、ロウが三番目。三人の筆跡はそれぞれ全く違っていて、私は丸みのある事務字、エルナは角張った剛直な字、ロウは細く流れるような商人字。三つの違う字が一枚の紙の上で並んでいるのを見て、私はしばらくその紙を眺めていた。世界を結ぶというのは、こういう違う三つの字を、同じ紙の上に並べることなのだ、と私は思った。
「これで、Nが揃った」
ヴァレヌスが書類を回収した。
Nの欄、登録完了。
Iの欄は、私が三都市縦走で組んだ旅程記録、そのもの。
PRINTノートの中ほどに、私が手書きで残していた完成版の旅程が、すでに存在していた。私はその頁を、世界の予約記録に挟み込む様式で、写しを作成した。
ヴァレヌスが、長官府の改竄版と、私のオリジナル版を並べて照合し、改竄箇所をすべて特定した。改竄は十一箇所。すべて、黒澤の癖で書かれていた。
照合作業は、地下三階の円卓で行われた。ヴァレヌスは私の隣に座り、二枚の予約記録を、一行ずつ指でなぞって読み比べた。読みながら、彼は時折、独り言のように呟いた。「ここの分割は、彼女の癖です」「ここの削除線は、彼女の癖です」「ここの印影の傾きは、彼女の癖です」。彼は十年間、地下三階で世界のPNRの写しを取り続けてきた人だった。彼の指は、誰よりも先に、改竄の手癖を見抜けた。
私のオリジナル版を正本とし、長官府の改竄版を副本とする旨の確認書を、ヴァレヌスと団長と村長と組合の旦那衆、合計三百二名の連名で作成した。
Iの欄、登録完了。
Tの欄、発券期限。今日。
第四日の朝。
その朝、私たちは王都の北門の外で、最後の合流をした。ヴァレヌスは地下三階から長い階段を上って、団長は王城の正門から、ロウは商人組合の隠し馬車網を通って、エルナは辺境騎士団の僅かな精鋭を引き連れて、四つの方角から私のもとに集まった。
団長が、白髪を風になびかせながら、最後の打ち合わせを口にした。
「正面の発券室の扉まで、衛士は全部で二十七名。私の隊で十二名、内側に引き込む。残りはエルナの精鋭で抑える。新長官、ヴァレヌス殿、ロウ殿の三名は、扉が開いた瞬間に発券室へ。発券に要する時間は、最大半時。半時のあいだ、外を抑える」
ロウが頷いた。
「俺は中で、姐さんの脇に控えます。書類の差し替えは、俺の手が一番速いんで」
エルナは黙って、剣の柄を一度握り直した。
ヴァレヌスは私の隣で、創建期様式の根拠条文を、もう一度、私の耳元で読み上げた。
四日間で、私たちは世界の発券に必要な五要素のうち四つを、長官府の手を通さずに揃えた。残るは、Tの欄、発券期限の今日。今日中に発券室に入り、発券印を押す。
団長の合図で、私たちは静かに動き出した。王城の正門から内城へ、内城から発券室のある最上階へ。階段を上るたびに、足音は石の螺旋の中で反響し、私たちの吐息と混ざった。誰も、口を開かなかった。
私たちは、王城の予約記録庁、最上階の発券室に向かった。
発券室は、長官府の中で唯一、世界のPNRに正式な発券印を押す権限を持つ部屋だった。扉は厚い樫の一枚板で、鍵は二重。鍵を持つのは、長官と、長官府事務長(黒澤の従弟)の二人だけ。
私たちは、扉の前に立った。
扉の手前で、エルナが私に並んだ。ロウが半歩後ろに控えた。ヴァレヌスは、通路の角で待機した。団長は、王城の正門で衛兵隊を抑える役割を引き受けていた。
「鍵は、ない」
エルナは言った。
「破る。お前の指がペンを持って待ってるあいだに、俺の腕がここの扉を斧で割る」
彼女の左腕は吊り紐の中だった。けれど、右腕は健全だった。
私は、頷いた。
扉が、内側から開いた。
黒澤が、自分から扉を開けたのだった。
彼女は、机に向かっていた。机の上には、新しい予約記録が一枚、すでに半分書きかけられていた。
Iの欄に、彼女の癖の四区画分割の旅程。Nの欄に、彼女一人の名。Rの欄に、王の代筆署名。Pの欄に、長官府の電話番号に相当する魔導通信網の番号。Tの欄に、今日の日付。
もう少しで、彼女は世界を、自分の名で再発券するところだった。
部屋の壁際には、銅製の砂時計が一つ据えられていた。砂時計の上半分には、まだ砂が残っていた。下半分には、もう半分以上の砂が、落ちていた。砂の落ちる速さは、私の心拍より少しだけ速かった。私はその速さを、自分の体の中で、一度、合わせ直した。
「来ると思ってた」
黒澤は、ペンを置いた。
「入って」




