第十章 世界の照合作業
黒澤は新しい世界の最初の予約記録に、自分の名を書こうとしていた。私はそれを、照合した。
発券室の中央には、一枚の長机が置かれていた。机の上に、一枚の予約記録、一本のペン、一つの硝子の砂時計。砂時計の上半分には、まだ砂が残っていた。残量は、見たところ、半時ぶんもなかった。
「ちょうど発券期限の最後の半時よ」
黒澤は、机の向こう側に立っていた。
「あなた、ここに来るまでに何日かかった?」
「四日です」
「速いわね。十年早く来た私より、よほど機転が利く」
彼女は微かに笑った。皮肉ではなかった。淡い、感心のような笑みだった。
私は、机を挟んで彼女の正面に立った。エルナは私の左斜め後ろ、ロウは扉の内側に控えた。
黒澤の前にあるPNRは、半分書きかけだった。私の手の中には、私が四日間で集めたPNRの完成稿があった。
二枚のPNRが、机の上で向かい合った。
「私が書いたのを、あなたが上書きするか」
黒澤が言った。
「あなたが書いたのを、私が上書きするか。世界のPNRは、最終的に発券印を押された一枚しか効力を持たない。発券印を押せるのは、この部屋に正式に入室した者の中で、王の最後の認可を得た者ただ一人」
「王の最後の認可は、私が今朝、いただきました」
私はバッグから、王の真筆署名を入れた書類を取り出した。
黒澤の目が、書類を捉えた。彼女の眉が、ほんの一瞬、上がった。
「いつの間に、王の私室に通じたの」
「辺境騎士団長を通じて、夜半に。長官、つまりあなたのご許可は、要りませんでした。古文書の創建期様式は、まだ廃止されていません」
「あなた、本当に、十年前と同じね」
黒澤は息を吐いた。
「真面目で、地味で、誰にも気づかれずに、こちらの隙を突く」
「気づかれていなかったとは、思っていません」
私は、PRINTノートを机の上に置いた。
「あなたは、十年前から、私のノートの存在を知っていました。私が修正をするたびに、あなたは私の卓を一度だけ見て、また自分の卓に戻る癖がありました。あなたは私のノートを盗み見たことはありませんが、その存在は知っていました」
黒澤は、ノートを見ていた。
「読んでもいい?」
「いいえ」
私は、ノートを彼女の手の届かない位置に引いた。
「これは、あなたを断罪するためのノートではありません。これは私自身のために書いたノートです。けれど、これを使って、世界のPNRの照合作業をします」
「どうぞ」
黒澤は、両手を机の上で組んだ。
「あなたの照合を、聞かせて」
私は、彼女の半分書きかけのPNRを手前に引き寄せた。
砂時計の砂が、また少し落ちた。
砂の落ちる音は、聞こえなかった。聞こえないはずの音が、私の耳の中では、明瞭に響いていた。一粒、また一粒。残された時間が、目の前で、ゆっくり、確実に、減っていく音。
「Pの欄、連絡先」
私は、ノートの該当する頁を開いた。
「あなたの記入は、長官府の魔導通信網の番号、十二桁。これは長官府の私的な通信網で、世界の住民の誰でもアクセスできるものではありません。古文書の創建期様式によれば、Pの欄には、世界の住民の誰でもアクセス可能な公的連絡先が必要とされます。よって、あなたの記入は、規定違反です」
「私のは、私的でも、機能はしてる」
「機能ではなく、規定の問題です。規定に違反した記入は、世界の発券印を受け取れません。ご自身も、長官位に就かれた際、規定の重要性を一番ご存じのはずです」
私は、自分のPNRの該当欄を見せた。
「私のPの欄は、辺境通信塔の鐘です。誰でも鳴らせる、公的な連絡手段です。鋳造銘は昨日、入りました。証人は塔の老看守と、ヴァレヌス様」
黒澤は、何も言わなかった。
「Rの欄、依頼者署名」
私は次の欄に進んだ。
「あなたの記入は、王の代筆署名。あなた自身の手で、王の名を模写しています。代筆そのものは長官府の規定で許容されていますが、世界のPNRに対しては、創建期様式により、王の真筆が必要です。代筆は無効です」
彼女の指が、わずかに動いた。
「私のRの欄は、王陛下御本人の真筆。今朝、王の私室にて、団長同席のもと、ご自身のお手で書かれました。これも証人があります」
「Iの欄、旅程」
私は、二枚を並べた。
「あなたの記入は、四区画分割の旅程。これは私が三都市縦走として組んだ旅程と、骨格は同じです。けれど、十一箇所、改竄が入っています。中継宿場の変更、補給隊の経路変更、護衛馬車隊の出発時刻の変更。そのすべてが、エルナさんとロウさんの居所を炙り出すための変更でした」
私は、PRINTノートを開いて、改竄箇所を一つずつ示した。
「ここ、ここ、ここ。三日前、引継ぎ書として私の机に置かれた紙束で、私はすでに改竄を確認しました。改竄の癖は、十年前のあなたが研修で書類を破棄するときの、斜め二回線の癖と同じです」
黒澤の口の端が、ほんの少しだけ歪んだ。
「Nの欄、氏名」
「あなたの記入は、あなた一人の名。古文書の創建期様式によれば、世界を一人の名で結ぶことはできません。三名以上の連名が必要です。これは、世界のPNRが一人の独裁を生まないための、創建期の知恵です」
「私のNの欄は、入江志保、エルナ・グラフ、ロウ・ターニャ。三名連名」
黒澤は、三名の名前を、机の上で目で追った。彼女の眉間に、わずかな皺が寄った。
「あなたの三名は、よく揃ってる。手配係と、騎士と、商人。世界の各層の代表」
「偶然、揃いました」
「偶然じゃないわよ」
彼女は、薄く笑った。
「あなたが選んだのよ、その三名を。三都市縦走の途中で、あなたは無意識に、世界を結ぶ三名を選んでた。私には、それが出来なかった」
私は、答えなかった。彼女の言葉は、私を讃えているのか、自分を哀れんでいるのか、どちらにも聞こえた。けれど、どちらでもよかった。
「Tの欄、発券期限」
私は、最後に砂時計を見た。
「砂時計の残量、おおよそ十二分。私たちは、十二分以内に、合意の上で、発券印を押さなくてはなりません」
黒澤は、立ったまま、机の上の自分のPNRを見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
「あなたに、何ができるの」
ようやく、彼女は口を開いた。
「誰も見ていなかったあなたに」
私は、答えた。
「私が、見ていました。あなたを、十年間」
「私を?」
「あなたを、です」
私は、PRINTノートを軽く撫でた。
「私のノートに、あなたのことが四百三十二回、登場します。ミスを修正した回数、手柄を私から奪った回数、私のミスとして報告した回数。日付付きで、文字付きで、状況付きで。あなたの十年間の手の動きを、私は誰よりも詳しく覚えています」
「だから?」
「だから、世界のPNRに紛れ込んだあなたの十年間の改竄を、私は誰よりも先に、見抜けました。あなたが現実世界でやっていたことと、世界規模でやっていることは、まったく同じです。手口を知っている人間に、その手口を再演しても、勝てません」
黒澤の指が、机の上で、一度、強く握られた。
爪が机を引っ掻く音がした。
「ずっと知ってたの?」
「ずっと、知っていました」
「なぜ、止めなかったの?」
「止める権限が、私にはありませんでした。報告する勇気も、なかった。代わりに、書きました。誰にも見られないと知りながら、書き続けました。書くことだけが、私が私を保つ唯一の方法だったから」
私は、自分のPNRに、ペンを取った。
ペンの軸は、私が研修最終日に支給された、何の変哲もない事務用のペンと、同じ重さだった。インクの匂いも同じだった。指先の握り方も、十年来の癖そのままで、何ひとつ変わっていなかった。
Tの欄に、今日の日付を書き込んだ。
Pの欄に、辺境通信塔の鐘の鋳造銘番号を書き込んだ。
Rの欄に、王の真筆を貼り付けた。
Iの欄に、改竄前の正本を貼り付けた。
Nの欄の三名連名は、すでに書かれていた。
最後に、ペンを持ち替えて、PNRの右下に、自分の指で発券印を押した。
印は、長官府の正式印ではなかった。
古文書の創建期様式に記された、もう一つの発券印――「世界の住民連名による、合意の印」。三百二名の連名同意書を、印に代えて貼付する様式だった。
砂時計の砂が、残り三粒で止まった。
世界の予約記録、発券完了。
部屋の壁の継ぎ目から、薄い金色の光が一筋、にじみ出した。光は天井に向かって伸び、天井の石に吸い込まれて消えた。
その瞬間、王城の外で、辺境通信塔の鐘が、自然に一度、鳴った。
遠かったが、聞こえた。
鐘の音は王城の壁を抜けて、発券室の小さな窓の外を通り過ぎ、通り過ぎる際に、私の耳の中だけにわずかな振動を残していった。私は両耳を澄ませた。鐘の音の余韻は、長く続いた。空気の中に、まだ残っていた。世界中のどこかで、誰かが、その鐘の音を聞いていた。誰かが、その鐘の音を聞きながら、自分の今日の予約記録を、書き加えていた。
黒澤は、机の向こうで、ゆっくり座り込んだ。彼女の手は、机の上の自分のPNRに、置かれたままだった。
「負けたわ」
彼女は、言った。
「あなたに、ではなく、自分のやり方に、ね」
彼女の声は、最後に小さく震えた。
彼女は、自分の半分書きかけのPNRを、ゆっくり手前に引き寄せた。Iの欄の四区画分割の旅程を、指先でなぞった。Nの欄の一人だけの名を、爪で軽く引っ掻いた。彼女は十年間、これを書き続けてきた。十年分の彼女の癖が、その一枚の中に、すべて凝縮されていた。
「ねえ、入江さん」
彼女は、私の方を見ずに、机の上の自分のPNRを見ながら、呟いた。
「私は、こちらの世界で、ずっと一人で書いてきた。私以外に、誰の名前も、書かなかった。Nの欄に、誰の名前を書けばいいのか、分からなかった。元の世界でも、こちらの世界でも、私には連名する相手がいなかった。あなたには、いた。三人も」
「黒澤さん」
「言いたいのは、それだけ」
彼女は、自分のPNRを、机の上に伏せた。
私は、机を回って、彼女の前に立った。
手を、差し出した。
彼女は、その手を見た。
見て、頷いた。
握らなかった。
手は、握り返されないまま、私の体の脇に下りた。
それでも、私は、彼女の前で立っていた。十年前の、研修最終日に、彼女が私に「ありがとう」と言った日に、私が立っていたのと、同じ場所に、立っていた。
扉の外で、エルナの剣が鞘に納められる音がした。続いて、団長の隊が衛士たちを引き上げさせる足音が、廊下を遠ざかっていった。発券室の小さな窓から、朝の最初の光が、机の天板に細い線を引いた。光の線は、机の上の二枚のPNR――発券されたものと、伏せられたもの――の両方を、同じ強さで照らした。
ロウが、扉の内側から、私を呼んだ。
「姐さん、出ます」
私は、頷いた。
黒澤の方は、もう一度見なかった。見る必要が、なかった。彼女は伏せられたPNRの上に、両手のひらを重ねて置いていた。その手の位置は、何かを守っているのか、何かを送り出しているのか、外からは判別できなかった。けれど、判別する必要も、なかった。
私は、発券室を出た。




