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異世界転生した旅行手配員の予約記録 〜発券期限まで三十日、世界の旅程は私が結びます〜  作者: もしものべりすと


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第十一章 別れ

世界が発券されたら、私の予約記録のT欄が、ようやく埋まる。


 発券室を出て、私は王城の中庭に立っていた。明け方の光が、塔の影を石畳の上に長く伸ばしていた。


 ヴァレヌスが、地下三階から私を呼びに来た。


「あなた様のPNRが、整いました」


 彼は、両手で一枚の紙を捧げ持っていた。


 地下三階の円卓で、最初に私が見た、私自身のPNR。


 Tの欄が、空白ではなくなっていた。


 日付が、書かれていた。


 三日後の、夜明け。


「三日後の朝、あなたは元の世界に戻ります」


 ヴァレヌスは言った。


「世界の発券が成立した瞬間、世界はあなたを呼び寄せた義務から解放されました。あなた自身のPNRも、自動的にTの欄が埋まります。日付の延期はできません」


「分かりました」


 私は、紙を受け取った。


 戻る日が、決まった。


 三日のあいだに、別れがあった。


 最初は、ヴァレヌスとの別れだった。


 予約記録庁の地下三階。最初に出会った、紙の山積みの広間。


 私たちは、円卓の同じ位置に座った。最初の朝、彼が私に椅子を勧めた、あの位置に。


「ヴァレヌスさん」


「はい」


「あなたが私に、最初に問いかけてくださった質問の、答えを、もう一度言ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「私の指は、修正をします」


 彼は、深く頷いた。


 目の縁に、また、光るものがあった。


「最初にお会いしたとき、その答えを、あなた様は反射的にしてくださった。けれど反射の答えは、ご自身でその答えを信じていらっしゃるとは限らない。三十日のあいだに、あなた様は、ご自身でその答えを信じる場所まで、辿り着かれた。それで、十分です」


 ヴァレヌスは、ローブの内側から、一つの小さな印鑑を取り出した。


「これは、予約記録庁の旧長官印です。私の代までに使われていたもので、今は使われていません。あなた様にお渡ししたいのです」


「いただけません」


 私は、首を振った。


「私は元の世界に戻る人間です。こちらの世界で印鑑を持っていても、使えません」


「印鑑そのものは使えなくとも、印鑑を押した記憶は持って帰っていただけます」


 彼は、机の上に書類を一枚置いた。


「これは、地下三階の管理権限を、ロウ・ターニャに譲渡する旨の証文です。あなた様の指で、最後に一度、この旧長官印を押していただきたいのです」


 私は、印鑑を取った。


 手のひらに、その重みが、しっかりとあった。


 書類の右下、決められた位置に、印を押した。


 印影は、銅の艶を残したまま、紙の繊維にゆっくりと染み込んだ。


 書類の上の印影を見て、ヴァレヌスは静かに目を閉じた。彼の十年間の地下三階での暮らしが、その瞬間、閉じられたのだった。彼が地下三階で取り続けてきた写しは、これから、ロウとその商人組合を通じて、世界中に開かれていくことになる。閉じられていた地下三階が、開かれた地下三階になる――それが、彼が私に最後に押させた印影の、本当の意味だった。


「ありがとうございました、ヴァレヌスさん」


「こちらこそ。あなた様の指は、世界の予約記録に、ようやく一行を書き加えてくださいました」


 彼は、立ち上がり、最後に深く一礼した。


 地下三階の階段を上る私の背中に、彼の声が、もう一度かけられた。


「あなた様は、もう、修正の指ではなく、署名の指にお戻りになる」


 私は、振り返らなかった。階段を一段、また一段と上がりながら、私はその言葉を、心の中で反芻した。修正の指ではなく、署名の指。十年間、誰のものでもない場所で他人の誤りを直し続けた指が、今、自分の名で何かを結ぶ指に変わる――その変化は、地下三階の階段の途中で、一段ずつ、私の指先に染み込んでいった。


 次は、ロウとの別れだった。


 港町ミトロンから出立する商人組合の朝市に、私は彼に会いに行った。


 彼は、商人組合の見習いから、正式な組合員に昇格していた。これまでは小指に貝の指輪だったのが、薬指に銀の細帯が巻かれていた。


「姐さん、姐さんが俺を連名のNに入れてくれたから、組合の方で「世界発券に貢献した若年商人」として推薦が上がったんですよ。うちの旦那衆、目の色変えました。俺、独立して隊商を組めることになりました」


 彼は、嬉しそうに笑っていた。


 彼の声には、子どもの嬉しさと、大人になりかけた誇りが混ざっていた。


「最初の隊商の旅程は、もう、組まれていますか」


「いえ、これからです」


「では、これを」


 私は、ノートから一枚、新しい頁を破った。そこに、私が四日間で組んだ三都市縦走の改良版の旅程を、書き写した。


「これがあなたの、最初のPNRです」


 ロウは、紙を両手で受け取った。


「俺、姐さんの組んだ旅程で、最初の旅をしていいんですか」


「ええ。ただし、改良してください。あなたの目で、あなたの手で。私の旅程はあくまで参考。完成させるのは、あなたの指です」


 ロウは、しばらく紙を見ていた。それから、私の手を、両手で握った。


「姐さん、姐さんが俺の名前を覚えていてくれたこと、俺、一生忘れません」


「ロウ・ターニャ。あなたは、私の世界の発券担当を支えてくれた、三名のうちの一人です」


 私は、彼の手を、軽く握り返した。


 港の風が、塩気を運んで吹いた。


 ロウは、握った手を、しばらく離さなかった。


 離すとき、彼は最後にひとつ、訊いた。


「姐さんの世界では、姐さんは、何と呼ばれてるんですか」


 私は、少し考えた。


「入江、と」


「入江姐さん」


 ロウは、その響きを、口の中で何度か繰り返した。


「入江姐さん。覚えました。俺、自分の隊商の最初の旅程を組むときに、必ずその名を書きます。姐さんの旅程を継ぐ者として」


 彼の薬指の銀の細帯が、朝の光を受けて、わずかに輝いた。


 ロウは、最後に、自分の小指の貝の指輪を外して、私の手のひらに載せた。


「これ、見習い時代の俺の指輪です。組合員になった俺には、もう要らない。けど、姐さんなら使えるかも」


「私は組合員ではないので」


「いいんですよ、お守りとして。姐さんが俺の名前を覚えていてくれたから、俺は組合員になれた。それのお礼です」


 貝の指輪は、軽かった。手のひらの上で、ほとんど重さを感じなかった。けれど、その軽さの中に、十二歳の少年が見習いを終えるまでの三年間の、毎日の積み重ねが、確かに詰まっていた。私はそれを、肩掛けバッグの内ポケットに、PRINTノートと並べて入れた。


 最後は、エルナとの別れだった。


 辺境の丘。エルナが私を最初に乗せて駆けた、あの街道の途中の見晴らしの良い場所。秋の終わりで、麦は刈られ、空には薄い雲が一筋流れていた。


 彼女は丘の頂上で、馬を脇に休ませて、私の到着を待っていた。世界の発券からの三日のあいだに、彼女の左腕の包帯はようやく外れていた。完治とは言えなかったが、軽く動かす程度はできるようになっていた。彼女は、丘の頂上で剣を抜いた。


 空に向けて、剣を高く掲げた。


 その姿勢のまま、彼女は、しばらく動かなかった。


 顔は、私には見えなかった。


「お前」


 ようやく、彼女が口を開いた。


「お前のノートは、俺の人生で一番強い武器だった」


 彼女の声は、少し震えていた。


「最初に出会ったとき、お前は手配係だった。書類仕事の指だった。俺は、後方の連中を、心のどこかで舐めてた。けど、お前のノートは、ゼフィ村を救って、ミトロンの役人を黙らせて、世界の長官の十年間を一度に照合した。お前のノートは、剣じゃ届かない場所に、届いた」


 彼女は、剣を下ろした。


 振り返った。


 彼女の頬には、涙の跡があった。乾いていた。乾いていたけれど、そこにはあった。


「俺は、もう、お前を後方の連中だと思わない」


「私も」


 私は、丘の上で、彼女の前に立った。


「あなたの剣を、後ろから守ってくれる人だと、思っていたから。でも、本当は、あなたが、私の指を、前から守ってくれた人でした」


 エルナは、剣を鞘に納めた。


 そして、彼女の方から、私に手を伸ばした。


 私は、自分の方からも、手を伸ばした。


 二人の腕が、丘の上で、絡んだ。私はエルナを、エルナは私を、両腕で抱きしめた。彼女の鎧の冷たさと、彼女の呼吸の温かさが、同時に、私の体に伝わった。


 私は、彼女の肩越しに、空を見た。


 涙が、ようやく、出てきた。


 ゼフィ村のことを、思い出していた。村長の頭の下げ方を。子どもたちの石蹴りの音を。納屋の天井で揺れていた蜘蛛の巣を。あの村は、もう、戻らない。けれど、村のPNRの中の旅程だけは、世界の予約記録の中に、永遠に残っていく。Iの欄に、修復された三時間が、書き戻されたまま。私が指で書き戻した、その三時間が。


 彼らの一日は、世界のPNRの中で、これからも、繰り返されていく。


 それを思いながら、私は、エルナの肩で泣いた。


「達者でな、新長官」


「あなたも、エルナさん」


 離れたとき、彼女は私の頭を、手のひらで一度撫でた。


 その撫で方は、団長がエルナの頭を撫でたのと、ほとんど同じ手つきだった。粗っぽくて、けれど確かで、何度繰り返されても疲れない種類の手つきだった。私は、その手のひらの温度を、自分の頭の頂点で、しばらく覚えておこうと思った。


 彼女の馬は、丘の麓で待っていた。彼女は私の頭から手を離し、後ろを振り返らずに、丘を下っていった。鎧の音が、麦の刈り跡の上を、規則正しく遠ざかった。私は丘の上で、彼女の背中が地平線に消えるまで、立っていた。最後に消えるとき、彼女は一度だけ、剣を高く掲げた。空に向けて、私への合図のように。


 最後に、黒澤との別れがあった。


 地下牢に、彼女はいた。


 世界の発券が成立した日のうちに、彼女は王の正式裁定により、長官位を解任され、地下牢に収監された。同じ地下牢の、私が三日前まで居た、同じ独房だった。


 彼女は、独房の奥の壁にもたれて、座っていた。私が来たことに気づいて、目だけを上げた。視線は合った。けれど、彼女は何も言わなかった。


 私も、すぐには言わなかった。


 鉄格子の前で、しばらく立っていた。


「黒澤さん」


 名前を、元の世界の名前で呼んだ。


「あなたが私から奪っていたものは、奪われたままで、構いません。返していただかなくて、いいです」


 彼女は、目を逸らさなかった。


「けれど、これからは、あなたも、自分の名前で、自分のPNRを書いてください」


 彼女は、しばらく黙っていた。


「あなた、変わったわね」


 ようやく、彼女は、そう言った。


「変わった、と思うわ」


 ようやく、彼女は、それだけ言った。


 私は、頷いた。


 返事はしなかった。


 代わりに、肩掛けバッグの中から、PRINTノートの最初の頁を、破って取り出した。


 研修最終日の、若い字で書かれた頁。


 「黒澤さん、今日、私にありがとうと言った」


 その頁を、鉄格子の隙間から、彼女の独房の床に、そっと差し入れた。


「これは、お返しします。本当は、ずっとあなたのものでした」


 彼女は、その頁を見た。


 長い時間、見ていた。


 最後に、頁を拾い、自分の膝の上に置いた。


 彼女の口の端が、ほんの少し、上がった。それは笑いではなかった。けれど、笑いの一歩手前のような、何かだった。


 彼女は、頁を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。鉄格子の向こうから、私は彼女の指先を見ていた。彼女の右手の中指の付け根の、紙で切ったような小さな傷が、まだそこにあった。傷は、私が地下牢の独房に入っていたときに、彼女の手にあったものと同じだった。彼女は十年間、こちらの世界で、書類仕事の指を動かし続けた末に、その傷を増やしていた。


 そういう意味では、彼女もまた、修正の指の人だった。


 修正の方角だけが、私とは違っていた。


「あなたの傷、私のと、似てるわ」


 黒澤は、ようやく、そう呟いた。


 私は、自分の手を見た。私の手にも、書類仕事で出来た細かな傷がいくつもあった。彼女と私は、十年間、同じ職場で、同じ種類の傷を増やしながら、生きてきた。違っていたのは、その傷を誰のために負ったか、ということだけだった。


 私は、地下牢を出た。


 外の空は、明け方に近かった。


 予約記録庁の中庭に、ヴァレヌスとロウとエルナの三人が、私を待っていた。


 私の最後のPNRが、東の空からの最初の光に、淡く照らされた。


 光は、私の体の輪郭を、一筋だけ、なぞった。


 その瞬間、世界は、私を、解放した。

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