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異世界転生した旅行手配員の予約記録 〜発券期限まで三十日、世界の旅程は私が結びます〜  作者: もしものべりすと


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第十二章 終わりの光景

金曜日の夜、誰もいないオフィスで、私はP・R・I・N・Tと唱えた。今度は、声に出して。


 目が覚めると、ファイルキャビネットの前に座り込んでいた。膝が冷たい床に接し、手のひらが古いバウチャーの束に触れていた。


 切れかけの蛍光灯が、視界の右上で、まばたきを続けていた。


 時計の針は、午後十一時四十二分を示していた。私が紙束に触れた時刻から、二分しか経っていなかった。


 二分。三十日と二日のあいだに私が経験したすべては、こちらの世界の二分の中に、収まっていた。私の体は、座り込んだ姿勢のまま、まだここに残っていて、こちらの時間の流れの中では、ほとんど動いていなかった。けれど、心の中の時間の流れは、確実に三十二日ぶん、進んでいた。私はその時間の差を、自分の指の動きで確かめた。指を曲げ、伸ばし、もう一度曲げた。指は、地下三階で発券印を押したときと同じ動きを、覚えていた。


 ゆっくり立ち上がった。膝に痛みはなかった。肩掛けバッグは、私の肩に下がっていた。中を覗くと、PRINTノートと、家の鍵と、予備の単三電池が二本。それ以外は何もなかった。


 ノートを開いた。


 最後の頁の手前に、私が地下三階で書き加えた、三人の連名同意書の控えが、そのまま残っていた。


 夢ではなかった。


 けれど、夢のように、戻っていた。


 翌朝、月曜の朝、いつも通り出社した。


 地下鉄の階段を上り、駅前のビルの六階の発券課に出社した。同じ蛍光灯。同じ机。同じ卓上のモニター。同じ朝の挨拶。


 地下鉄の中で、私は窓ガラスに映った自分の顔を、しばらく見ていた。三十日と二日のあいだに、何が変わったのかは、自分でもまだ分からなかった。鏡に映る輪郭は、出社前の私と、変わらなかった。けれど、目の奥のどこかが、わずかに違う角度で光を受けていた。気のせいだったかもしれない。けれど、ホームに降り立ったとき、私の足音は、自分が思っていたよりも、しっかり地面を踏んでいた。


「おはようございます」


 私は、自分から声を出した。


 誰よりも先に出社していたのが、橘さんだった。彼女はモップとバケツを廊下に置いて、私を見て、目を細めた。


「おはよう、入江さん。今朝は、声、聞こえたわよ」


「はい」


 私は、頷いた。橘さんの言葉を、否定しなかった。


 橘さんは、何も言わずに、廊下の奥に消えた。


 九時を過ぎて、黒澤が出社した。


 異世界の地下牢に居た黒澤は、もうここには居ない。ここに居るのは、現実の同期で、課長補佐の黒澤遥。彼女は私の卓の脇を通り過ぎる際、いつものように、茶封筒を投げ置いた。


「これ今日中ね。あ、ミス見つけたから報告しといた」


 いつもの台詞。いつもの間。いつもの抑揚。


 私は、封筒を開けた。


 中身は、社外メールに添付するための予約記録の修正案件。誤りは旅程の出発空港コード。HND(羽田)の一文字目が違っている。指がキーボードの隣のキーに引っ掛かったよくあるミス。


 私は、目を上げた。


 黒澤の背中が、自分の卓に向かって歩いていく途中だった。


「黒澤さん」


 声をかけた。


 彼女は振り向いた。


 目が合った。


 私は、立ち上がった。封筒の中身を、彼女の方に差し出した。


「ここ、Tの欄が空欄になっています。発券期限を入力していただかないと、このPNRは無効です。Tを入れていただけますか」


 黒澤は、私の顔を見た。


 しばらく、彼女は何も言わなかった。


 彼女の目に、わずかな揺れがあった。十年間、私に対して見せたことのない揺れだった。


「あ、悪い」


 彼女は、それだけ言った。


「私の卓で直す。返して」


 私は、封筒を、彼女に返した。


 彼女は、それを受け取り、自分の卓に戻った。


 返した封筒の表書きの、「これ今日中ね」の字は、彼女の癖でいつものように書かれていた。けれど、十年間で初めて、その字の下に、別の含意が透けて見えた気がした。「これ、今日中ね」――今日中に直すべきは封筒の中身だが、もう一つ、私たち二人のあいだの何かが、今日のうちに、密かに直された。彼女自身は、まだそれに気づいていなかった。気づいていなくても、直されたものは、直された。


 私は、自分の椅子に座り直した。


 左手は、右肩に行かなかった。


 肩は、震えていなかった。


 その日の業務は、いつも通りに過ぎた。けれど、いくつかの場面が、いつもとは違って終わった。


 昼休み、私は、初めて、課のフロアで一人ではなく、橘さんと一緒に弁当を食べた。彼女が誘ってくれた。私は素直に、応じた。


 橘さんは、休憩室の窓際の席に、二人分の湯呑みを用意してくれた。湯呑みには熱いほうじ茶が注がれていて、湯気が窓ガラスに薄く曇りを作った。彼女は私の前に座り、自分の弁当の蓋を開けた。中身は、煮物と、玉子焼きと、白いご飯だった。彼女は割り箸を割り、煮物の里芋を一つ口に運んでから、私の方を見た。


「私ね、入江さん」


 彼女は、ゆっくり話し始めた。


「あなたが直してきた書類は、全部上に届いてた。届いてたけど、誰も声を上げなかったの。直したのが誰かを、上はちゃんと知ってた。知ってたうえで、見て見ぬ振りをしてた。直されることが、ずっと続いている方が、上にとって都合が良かったから」


 私は、湯呑みを両手で包んだ。手のひらに、お茶の熱が、ゆっくり染みてきた。


「私はね、清掃の仕事を四十年やってる。四十年のあいだに、この会社で、あなたみたいな人を、何人か見てきた。みんな、どこかで折れて、辞めていった。声を上げる前に、辞めていった」


 彼女は、煮物の里芋を、もう一つ口に運んだ。


「私は、あなたが先に声を上げる日まで、待ってた。やっと言えたわね、入江さん」


 私は、頷いた。声は出なかった。けれど、頷くことが、私の声の代わりだった。


 午後、別の同期から、ある旅程の組み立てについて相談を受けた。彼女は私に頭を下げて、「入江さんの組む旅程が、課で一番きれいだと前から思ってたから、相談に乗ってほしい」と言った。私は、相談に乗った。


 夕方、課長が私の卓の脇に立ち寄った。彼は、黒澤の卓から戻ってきたところだった。


「入江さん、来期から、発券手順の改善プロジェクトのリーダーを、頼んでもいいか」


 私は、頭を下げた。


「お引き受けします」


 声は、いつもより低く、けれど明瞭に出た。


 課長は、頷いて、自席に戻った。彼の足音が遠ざかった後、私はしばらく自分の椅子の背もたれに、深く体を預けた。引き受けます、と一言だけ口にしたあの一瞬の前に、私は十年分の自分を、心の中で一度だけ抱きしめた気がした。誰にも気づかれずに修正をしてきた十年分の私が、ようやく、自分の名前を冠したプロジェクトを引き受ける場所まで、辿り着いた。橘さんが廊下の奥で、ほうきを止めて、こちらを一度だけ見ているのが、視界の隅に映った。彼女は何も言わなかった。けれど、彼女の顎は、わずかに上がっていた。


 夜、私はまた、誰もいないオフィスで残業をしていた。


 けれど、卓に積まれた赤いセルは、いつもよりずっと少なかった。それは私が処理したからではなく、課全体が、午後のうちに自分たちで処理を済ませていたからだった。


 私は、PRINTノートを開いた。


 新しい頁に、その日の業務記録を書いた。


 午前九時十五分、黒澤さんに、初めて誤りを直接指摘。彼女、自分の卓で修正。報告は不要だった。


 昼十二時、橘さんと弁当を共にする。橘さんから、「上の人みんな分かってる」発言の真意を初めて聞く。「あなたが直してきた書類は、全部上に届いてた。届いてたけど、誰も声を上げなかったの。私は、あなたが先に声を上げる日まで、待ってた」と。


 午後四時、菅原さんから旅程相談を受ける。改良案を一緒に組む。


 午後五時、課長より、来期の改善プロジェクトリーダー就任の打診。受諾。


 書き終えて、私はそのページを軽く撫でた。


 誰にも見られないノートでは、もう、なかった。


 ノートの中に、私の十年が残っているのと同じように、これからの私の一日一日も、このノートに書き加えられていくはずだった。書き加えられるたびに、ノートは厚くなり、私はその厚さの中に、自分の輪郭を、より確かなものにしていくはずだった。


 私は、最後に、ノートの巻頭の頁を開いた。


 研修最終日の若い字で書かれた、最初の一行。


 「黒澤さん、今日、私にありがとうと言った」


 その頁の右下が、わずかに破れていた。地下三階の私が、黒澤に渡した跡。


 私は、その破れた箇所を、指でなぞった。


 帰り支度をしながら、ファイルキャビネットの前を、もう一度通った。


 一番下の段の鍵は、いつものように、しっかり閉まっていた。


 けれど、一番下の段の上、上から二段目の段の引き出しが、わずかに開いていた。


 私は、それを、開いた。


 中には、私が知らない手書きのバウチャーが、一枚だけ、置かれていた。


 書式は古い。一九八〇年代の様式に見えた。けれど、書かれた文字は、見覚えのある字だった。


 Pの欄に、辺境通信塔の鋳造銘番号。


 Rの欄に、王の真筆署名。


 Iの欄に、三都市縦走の旅程。


 Nの欄に、三つの名前。


 「入江志保」「エルナ・グラフ」「ロウ・ターニャ」


 Tの欄には、今日の日付。


 その下に、もう一行、小さな手書きが添えられていた。


 「世界の予約記録、本日も無事、結ばれたり。発券担当者の指、健在なり。――ヴァレヌス代筆、辺境騎士エルナ・グラフ、商人組合員ロウ・ターニャ連名」


 私は、そのバウチャーを、両手で持って、しばらく立っていた。


 窓の方を見た。


 窓のないこのフロアからは、外の空は見えない。けれど、見えない空の向こうに、雷は落ちていなかった。


 私は、バウチャーを、PRINTノートの最後の頁に、そっと挟み込んだ。


 ノートを閉じて、肩掛けバッグに戻した。


 肩掛けバッグの内ポケットに、ロウが餞別に渡してくれた貝の指輪が、まだ入っていた。私はそれを取り出して、しばらく手のひらに載せた。指輪の貝の部分は、蛍光灯の薄明かりの中でも、わずかに虹色を帯びていた。私はそれを、自分の左手の小指に通してみた。少し緩かった。けれど、外れない程度の緩さだった。


 外れない指輪を左手にしたまま、私はその手で、ノートを閉じた。


 切れかけの蛍光灯を、消した。


 オフィスの非常灯だけが、フロアの隅で、低く灯っていた。


 私は、自分の足音を聞きながら、エレベーターホールに歩いた。


 エレベーターに乗った。


 ドアが閉まる前に、私はもう一度、フロアの方を振り返った。


 誰もいなかった。


 誰もいないけれど、私の卓の上のモニターは、まだ薄く光っていた。


 私が、消し忘れたわけではなかった。


 画面の中央に、ひとつの予約記録が、表示されていた。


 Pの欄、Rの欄、Iの欄、Nの欄、Tの欄。すべてが埋まっていた。Tの欄には、今日の日付が、入っていた。


 発券完了の小さな緑のチェックマークが、画面の右上で、静かに点いていた。


 ドアが閉まった。


 エレベーターは、地上階に向かって、ゆっくり下りていった。


 その夜、私は家に帰り、母に電話をかけた。来月の見舞いの予定を、確認した。母は嬉しそうに笑った。


 電話を切ったあと、私は、PRINTノートを机の上に置いた。


 ノートの最後の頁に挟まれたバウチャーが、薄く、温かく感じられた。気のせいだったかもしれない。けれど、その温かさを感じながら、私は新しい頁を開いた。


 新しい頁の、一行目に、こう書いた。


 「今日、世界の予約記録は、ちゃんと結ばれている」


 二行目に、もう一行、書いた。


 「私の指は、修正をする」


 三行目は、書かなかった。書かないことが、明日のための余白だった。


 ペンを置き、窓の外を見た。


 雷は、落ちていなかった。


 星が、いくつか、見えた。


 遠い、低い音が、耳の奥でひとつだけ、聞こえた気がした。鋳造銘の刻まれた鐘の音だった。気のせいだったかもしれない。けれどその音は、今夜の私の部屋の窓から、確かに、空のどこかへ向かって、結ばれていた。


 左手の小指の貝の指輪を、もう一度、確かめた。緩いままで、外れずに、そこに在った。


 明日、課に出れば、また誰かの誤りを、私の指は直すことになる。けれど、明日の私は、もう、誰にも見られない場所で直す指ではない。改善プロジェクトのリーダーとして、誰の指も、誰かのために動けるように、仕組みごと組み直していく指になる。私一人ではなく、課の全員の指で、世界の予約記録の小さな一部を、結んでいくことになる。


 ノートを閉じ、机の引き出しに仕舞った。


 ベッドに入る前に、一度だけ、窓の外の星を見た。


 星々は、それぞれ別の方角を向いて、それぞれ別の場所で輝いていた。創建期の壁掛けに描かれていた、七人の創建者のように。世界は、誰か一人の方角ではなく、複数の方角の合意で、結ばれている。


 私は、明かりを消した。


 眠った。


 夢は、見なかった。けれど、眠りに落ちる直前の、ほんの一瞬だけ、私は地下三階の円卓を、もう一度見た気がした。円卓の上に、誰かが、新しい予約記録を一枚置いていた。Iの欄に、明日の私の旅程が、まだ書かれていなかった。Tの欄も、空白だった。私は、その空白を、明日の自分の指で書き加えていく。書き加えるたびに、世界中のどこかで、誰かの一日が、結ばれていく。眠りに落ちながら、私は、そのことを、確かに感じていた。



(了)

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