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異世界転生した旅行手配員の予約記録 〜発券期限まで三十日、世界の旅程は私が結びます〜  作者: もしものべりすと


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第八章 闇夜をさまよう魂

ノートを開いた。十年ぶんの照合が、そこにあった。


 地下牢に何日いただろう。看守の交代が四度あったから、おそらく二日。鉄格子の向こうで、看守の足音が遠ざかると、私は壁にもたれて座り、PRINTノートを開いた。


 最初は、ただ読んでいた。


 研修最終日の若い字から始まり、半年後の字、一年後の字、五年後の字。徐々に筆圧が均一になり、文字は小さくなり、行間は詰まっていった。十年のあいだに、私の字は痩せていった。


 書かれていることのほとんどは、業務記録だった。誰の卓の予約記録に、何月何日、どんな種類の不整合があったか。修正の手順。差し戻しの結果。報告の有無。


 その中に、黒澤の名前が、繰り返し現れた。


 数えてみた。


 十年間で、黒澤の名前は四百三十二回登場した。


 そのうち、彼女の作業上のミスを私が修正した、と書かれている回数は二百八十五回。彼女が私の手柄を彼女の手柄として上に報告した、と書かれている回数は百九十一回。彼女が私のミスとして上に報告したが、実際にはミスは別の人(主に彼女自身)のものだった、と書かれている回数は五十七回。


 十年で、四百三十二回。


 一年あたり、四十三回。


 月にして、三回半。


 週にして、ほぼ一回。


 彼女は、週に一回、私の卓の何かを彼女の手の中に流し込んだ。それは新人研修の頃から、欠かさず続いていた。私はそれを、毎週、ノートに記録し続けていた。


 彼女の中で、私はずっと、彼女の業務処理の都合のいい一つの「変数」だった。


 私はノートを閉じて、両手で抱えた。


 怒りが、湧いてこなかった。


 怒りの代わりに、奇妙な静けさがあった。胸の中で、何かが、ゆっくり、自分の輪郭を整え直していた。


 四百三十二という数字を、私は何度か頭の中で繰り返した。繰り返すうちに、その数字は数字ではなくなり、四百三十二回ぶんの黒澤の手の動きが、私の脳裏で、ひとつの巨大な手の癖として、結晶していった。彼女の四区画分割の改行、斜め二回の削除線、右下に寄せた印影。それらの癖が、私のノートの中に、私の十年と並んで、彼女の十年として、刻まれていた。


 看守が交代した。新しい看守は、年若い男だった。手元の鍵束を石壁に当てて鳴らしながら、退屈そうにあくびをした。


 私は鉄格子越しに、彼に小さな声で頼んだ。


「水を、もう一杯だけ、いただけますか」


 看守は、少し迷ってから、水差しから木の杯に水を注いで、格子の隙間から差し入れた。


「ありがとうございます」


 私は杯を受け取り、ゆっくり飲んだ。水は地下水で、鉄分の味がした。


 飲み終えると、私は杯を返した。看守は受け取り、鍵束を鳴らし、また退屈そうにあくびをした。彼の制服の襟元には、長官府の事務長の判子が一つ、押されていた。彼は事務長の直属の部下だった。けれど、彼自身は、長官府の権力闘争には関心がなかった。彼の関心は、夜の交代時間と、賄いの食事の質だけだった。私は、その関心の薄さこそを、利用できると判断した。


 私は、PRINTノートの最後の方の頁を、また開いた。


 今度は、字を読まなかった。


 書かれた線の癖を、見ていた。


 私は十年前、研修の隣の席で、黒澤の手書きの字を観察し続けていた人間だった。彼女が誤った書類を破棄するときの斜め二回線、彼女が新しい書類に旅程を書き起こすときの、Iの欄を四つの区画に分割する独特の改行癖、彼女が押印を入れるときに、印影をわざと右下に寄せる傾き具合。


 すべて覚えていた。


 覚えているだけだった、十年前から、ずっと。


 私は、ヴァレヌスから持たされたままになっていた、世界の予約記録の写しを、肩掛けバッグの底から取り出した。


 ヴァレヌスは謁見の前夜、私に「もしものとき、世界のPNRそのものの最新の写しが必要になるかもしれません」と言って、表紙を黒く塗った帳面を渡してくれた。長官府の正式記録ではなく、彼が独自に十年間、毎日複写してきた裏帳面だった。


 帳面を開いた。


 最新の頁。世界のPNR、最新版の写し。


 Iの欄の旅程に、黒澤の癖が、はっきり見えた。


 四つの区画に分割する改行。斜め二回の削除線。右下に寄せた印影。


 世界の予約記録は、長官府公式の手で書かれているように見えて、実は黒澤が私的に書き換えてきたものだった。十年間、彼女は世界のPNRそのものを、自分一人の癖で更新してきた。


 PRINTノートの十年と、世界のPNRの十年が、同じ筆跡で結ばれていた。


 私は、息を吸った。


 黒澤が世界の予約記録に対してやっていることは、現実世界での彼女の手柄横取りと、まったく同じ手口だった。


 他人の作業を自分の名で塗り直す。原本の名を消し、自分の名を上書きする。そうして十年間、すべての成果を自分の業績にしてきた。


 現実世界での私は、それを毎日見ていた。誰よりもよく、その癖を知っていた。


 ならば、世界規模の同じ手口を、私は誰よりも先に、見抜ける。


 私は、ノートを閉じた。


 膝を立てて、立ち上がった。


 立ち上がるとき、左手は右肩に行かなかった。


 肩は、震えていなかった。


「看守さん」


 私は鉄格子に近づいた。


「すみません、もうひとつお願いがあります」


「なんだ」


「ヴァレヌスという、地下三階の老司書を、ここに呼んでいただけませんか。私が地下牢に入ったあと、彼に渡し忘れた書類があるので、それを直接受け渡したいのです」


 看守は、しばらく考えた。


「あの爺さんなら、書類運びの権限を持ってる。問題ない、呼んでくる」


 看守が立ち去った。


 私は、鉄格子に背を向けて、また石床に座った。


 半時ほどして、ヴァレヌスが鉄格子の外に立った。彼は私を見て、深く頷いた。


「お呼びと聞きました」


 彼の手元には、書類運びの少年に化けたときの服装ではなく、いつもの鼠色のローブと、首から下げた青銅の鎖の印鑑があった。地下牢の看守たちには、彼がただの古い書類運びの老人としか映っていなかった。けれど、私の前に立った彼は、紛れもなく予約記録庁の元長官だった。


「ヴァレヌスさん」


 私は、彼の目を、まっすぐに見た。


「あなたが私に最初に問いかけた質問を、覚えていますか」


「あなたの指は、修正をしますか、と」


「はい」


 私は、自分の指先を見た。


 地下牢の鉄格子越しに見る自分の指は、まだ書類仕事の指だった。爪は短く整えられ、指の腹には、ペンを長く握ったときに出来る小さなタコがあった。そのタコは、十年前から少しずつ大きくなり、ここに来てからの三十日のあいだに、また一回り大きくなっていた。


「私は、修正をします。ただ、書類だけではなく、世界のPNRそのものも、修正します」


 ヴァレヌスの口元に、微かな皺が寄った。それは、彼の笑い方だった。


「そのために、必要なものは」


「五要素です。Pの連絡先、Rの依頼者署名、Iの旅程、Nの氏名、Tの発券期限。そのすべてを、長官の手を通さずに、私自身の指で集めます」


「長官府の正式手続きを、すべて迂回することになります。新長官位は、停職中です。署名する権限は、ない」


「権限は、要りません」


 私は、ノートを胸に抱えた。


「世界の予約記録は、長官府の権限で発券されるものではなく、世界の住民の合意で発券されるものです。古文書の創建期の規定にそう書いてあると、あなたが教えてくださった。私は、住民の合意の上で、五要素を集めます」


「具体的には」


「Pの欄、連絡先。これは、辺境の通信塔の鐘を一つ、世界の発券担当者の連絡先として登録します。鐘の音が、私の連絡先になります。誰でも、鳴らせば、世界の発券担当者に届く」


 ヴァレヌスは、目を細めた。


「鋳造銘の刻まれた鐘でなければなりませぬが、それは塔の老看守と話せば、一日で刻めます。よろしい」


「Rの欄、依頼者署名。これは、現王陛下の真筆をいただきます。代筆ではなく、王自身の手で。これにはエルナの最後の働きが要りました――彼女が王の真筆を最後に取り付けた書類が、まだ王の私室に残っているはずです」


「Iの欄、旅程。これは、私が三都市縦走で組んだ旅程記録、そのものを使います。長官の改竄は私のノートで照合できます」


「Nの欄、氏名。これは、私と、ロウさんと、エルナさんの三名連名にします。世界を一人の名で結ぶことはできない、と古文書の規定にあります。三名以上で連名すれば、世界の発券は有効になります」


「Tの欄、発券期限。これは、今日が世界の発券期限の最終日です」


 ヴァレヌスは、深く息を吐いた。


「すべて、世界の規定の中で動いていますな」


「規定の外には、出ません」


「動けますか、お一人で」


「動けません」


 私は、首を振った。


「だから、ロウさんを呼んでください。彼はカラリスから王都に戻っているはずです。それから、辺境騎士団の団長と、地方の村長たちと、商人組合の旦那衆に、合計三百名分の連名同意書を集めてください。最後に、王陛下の私室に、私が直接謁見する許可を取ってください」


「期限は」


「残り四日です」


 ヴァレヌスは、鉄格子の鍵を見た。看守はその場にいなかった。


「鍵は、私が手配します」


 彼はそう言って、足音もなく去っていった。


 私は、PRINTノートを胸に抱えたまま、立っていた。


 ヴァレヌスが去った後、地下牢には、また私一人が残された。けれど、もう、一人ではなかった。鉄格子の外の世界に、私の依頼を受け取った人が、確かに一人、いた。彼が地下三階の階段を上り、王城の各所に伝令を送るところを、私は目を閉じて思い描いた。彼の姿は、私の頭の中で、書類運びの少年に化けたときの軽い足取りと、元長官の威厳のある背筋の両方を、同時に持っていた。


 左手で右肩を押さえる癖が、もう、出てこなかった。

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