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異世界転生した旅行手配員の予約記録 〜発券期限まで三十日、世界の旅程は私が結びます〜  作者: もしものべりすと


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第七章 完全なる喪失

炎が手配書を舐めていた。エルナの兜が、地面にひとつだけ残されていた。


 ゼフィ村の出火の知らせが届いた翌朝、私は新長官として、長官府の正式な書類を携えて、王都の北門を出た。書類には「ゼフィ村出火に関する現地調査」と書かれていた。


 書類を承認したのは、皮肉なことに黒澤本人だった。


 彼女は朝の挨拶代わりにそれを差し出して、「あなたが直接見に行くなら、止めない」とだけ言った。私は彼女の目を見なかった。彼女の手だけを見ていた。彼女の右手の中指の傷が、新しく増えていた。


 北街道を二日駆けて、ゼフィ村に到着したのは、出火から三日目の夕方だった。


 村は、なかった。


 石造りの家の輪郭だけが、黒く焼け残っていた。屋根はすべて落ち、壁の上半分は崩れ、麦畑は焼け、果樹園は炭になっていた。風が吹くたび、灰色の灰が空に舞った。井戸の周りに、生き残った村人たちが集まっていた。


 集まっていたのは、十数人だった。三十軒の村で、生き残ったのが十数人。私が修復したPNRの中で、村人全員の名簿は百二十一名分あった。残った人数を見て、その差を、私は一瞬で計算した。計算してから、計算したことを、後悔した。


 子どもの姿は、見えなかった。


 石蹴りをしていた、あの子どもたちの姿は、井戸の周りには、いなかった。


 村長が、私を見つけて立ち上がった。


「新長官様」


 彼の右の頬には大きな火傷の痕があった。額が煤で黒く、白くなった髭が震えていた。


「お知らせします、新長官様。火は、夜中の二刻過ぎに、東の麦倉から出ました。出火の前、西の街道から、王都の紋章を腰に下げた騎士団が二十騎ばかり、村を通っていきました。彼らは何も言わず、村の真ん中で馬を止めて、しばらく地図を広げて見ていきました。それから、騎士の一人が我々に向かって、こう言いました。『この村は、長官府の判断により、立ち入り禁止区域となる。明日までに退去せよ』と」


「退去命令の文書は」


「ありませんでした。口頭でした」


 私は、村長の手を取った。


 彼の手は、火傷で皮が剥けた箇所が多く、触れた瞬間、彼は痛みに顔をしかめた。私は手を離した。


「立ち入り禁止区域、と言ったのですね」


「はい。間違いなく」


 私は、街道脇の隠れ宿の方角を見た。エルナとロウのいる宿は、ここから北東に八ロワほどの位置にあるはずだった。


 村人の証言を、私は手帳に書き留めた。三十一件、書き留めた。書き終える頃には、夕日は完全に沈み、井戸の周りは篝火の橙色だけになっていた。


 その時、街道の方から馬の蹄の音がした。


 駆けてくるのは、一頭。


 馬の上に、小さな影が一つ。


 ロウだった。


 彼は私を見つけると、馬上から滑り落ちるように降りた。膝が地面についた。彼の右腕が、肩から不自然に下がっていた。脱臼だった。鎧は身につけていなかったので、商人の旅装そのままで、襟元が裂けていた。


「姐さん」


 ロウの声は、震えていた。


「姐さんが伝言で言ってた通り、姐さんとエルナ姐さんは、宿を移したんだ。ヴァレヌス様の鳩が届いて、すぐにカラリスに先回りされる前に、宿を移した。けど、移った先の宿で、エルナ姐さんが――」


「ロウさん、息を整えて」


 私は彼の前にしゃがみ、彼の左手を取った。


 ロウは唇を噛んで、息を整えた。


「移った先の宿に、騎士団の二十騎が来た。エルナ姐さんは、俺を裏口から逃した。彼女は表で剣を抜いた。俺は宿の裏の麦畑を二十ロワ走って、振り返ったとき、宿の屋根が燃えてた」


 ロウは私の手を強く握った。


「俺、戻れなかった」


「いいんです」


 私は、彼の頭にそっと手を置いた。


「あなたが生きていることが、エルナさんが選んだことです」


 ロウは、声を立てずに泣いた。


 私は彼の肩を抱きながら、街道の北東の方を見た。


 夕暮れの空に、煙が一筋上がっていた。それはゼフィ村の煙ではなかった。もっと先の、別の場所の、もっと小さな煙だった。


 私は、村長に頼んでロウを村の生き残りの納屋に預け、馬を借りて、その煙の方角に向かった。


 夜半過ぎに到着した宿は、もう半分以上が崩れていた。


 屋根は焼け落ち、二階の床も抜けていた。表の地面には、数体の遺体があった。鎧を着ているのは騎士団の側で、商人の身なりのものはなかった。


 遺体の脇に、エルナの兜が一つ、転がっていた。


 顎紐が切れていた。中身は空だった。


 私は兜を拾い、土を払い、両手で抱えた。


 兜の内側の革が、まだ少し温かいような気がした。気のせいだったかもしれない。けれど、その温かさを感じた瞬間、私は膝を地面についた。


 声は出なかった。


 涙も出なかった。


 ただ、左手で右肩を押さえた。何度も押さえた。押さえる手が、自分の肩の骨に当たって、痛みだけが指先に返ってきた。


 夜気の中で、焼け跡の梁の一部が、まだ赤く燻っていた。風が吹くたびに、燻った木の表面が一瞬だけ明るくなり、また鈍く沈んだ。私はその光を見ていた。光と影が交互に私の顔を撫でた。私は、その撫でられる感覚を、どこか遠い場所のことのように受け取った。


 兜を抱えたまま、私は立ち上がった。立ち上がるとき、膝が泥で汚れた。汚れを払う気力はなかった。私はそのまま、馬を繋いだ場所まで歩き、兜を鞍の脇に括り付けた。括り付けるとき、革紐が私の指の腹を一度、強く引っ掻いた。指から血が一筋、出た。私はその血を、自分の唇でなめた。鉄の味がした。生きている味がした。


 夜明けに王都に戻った私を、長官府の入り口で、衛兵が待ち構えていた。


 彼らは、私の腕を掴んだ。


「新長官・入江志保。長官府の判断により、職務の一切を停止する。ゼフィ村出火の責任、および辺境街道宿場の襲撃事件への関与の疑いにより、地下牢にて取り調べを受けよ」


 私は反論しなかった。


 黒澤は、玉座の間の入り口から、私が連行されるのを見ていた。


 目が合った。


 彼女は、口の中だけで何かを言った。私には聞こえなかった。けれど唇の形で、こう言ったのだと分かった。


 「結局あなたは、何も変わらない」


 地下牢は、湿った石の匂いがした。


 窓はなかった。床と天井と壁の四方が石で、鉄格子の扉だけが外との接点だった。


 私の旅装は剥がされ、囚人服に替えられた。けれど私は、肩掛けバッグだけは手放さなかった。看守は、最初それを取り上げようとしたが、中身を改めて、ノート一冊と古い大学ノートしか入っていないと確認すると、「魔法の道具ではない」と判断したのか、私の手元に残してくれた。


 彼の判断は、長官府の規定の中では正しかった。長官府の規定では、収監される者の所持品のうち「魔法の道具」と「武器」のみが没収対象だった。書類とノートは、対象外。彼らの規定では、紙と文字は、武器ではなかった。けれど、私の手の中で、ノートは、最も鋭利な武器に変わろうとしていた。看守は、そのことに、気づいていなかった。気づかれていないことが、私にとって、最後の一つの幸運だった。


 石の床に、私は座った。


 膝を抱えた。


 左手で、右肩を押さえた。


 オフィスの自分の卓を思い出した。蛍光灯の切れかけた光を思い出した。茶封筒を投げて去っていく黒澤の後ろ姿を思い出した。橘さんが床を拭く音を思い出した。


 あの頃の私は、ここに居たのと同じだった。


 地下三階で、誰にも見られず、毎日、紙の上の他人の誤りを直していた、あの頃の私と。


 誰にも見られない場所、というのは、こういう場所だった。窓のない、声の届かない、誰の視線も注がれない、四方を石で囲まれた箱の中。私は十年間、その箱の中で働いていた。今、私は世界の異世界の地下牢で、また同じ箱の中にいる。


 違いは一つだけあった。


 箱の中で、私はもう、自分一人ではなかった。


 ゼフィ村の村人たちが、私を待っていた。彼らはもう焼け出されてしまったが、それでも、私が修復した彼らの旅程は、私のノートの中にまだ残っていた。


 ロウが、私を待っていた。彼は脱臼した腕を吊り紐で支えながら、村の生き残りの納屋で、私の帰りを待っているはずだった。


 ヴァレヌスが、私を待っていた。彼は地下三階の円卓で、私から呼び鈴の合図が来るのを待っているはずだった。


 そして、エルナが――エルナのことを、私はまだ、考えるのが辛かった。けれど、考えないことが裏切りになる気がして、私は彼女のことを、考えた。彼女は私を後ろから守り、最後まで剣を抜いて、宿の表で立っていた。


 彼らのために、私は箱の中で立ち上がらなくてはならなかった。


 そして、誰にも見られない場所で、私はノートを書き続けていた。誰にも届かないと知りながら。


 代わりに、私は最後に、肩掛けバッグからPRINTノートを取り出した。鉄格子の隙間から覗ける範囲で、ノートの最後の頁を開き、新しい一行を書いた。


 「黒澤遥――十年間、私を観察し続けた人。私もまた、十年間、彼女を観察し続けた人」


 書き終えてから、私はノートを閉じて、もう一度肩掛けバッグに戻した。


 看守が再び戻ってくる足音がした。


 私は鉄格子に背を向けて、また石床に座った。膝を抱え、両腕で自分の体を抱きしめた。冷えた石の温度が、囚人服の薄い布地越しに、皮膚に染み込んできた。私はその冷たさを、しばらく受け止めていた。受け止めているうちに、冷たさは少しずつ、私の体の輪郭そのものになっていった。


 箱の中で、私は、私自身の輪郭を、確かめていた。


 私は、肩掛けバッグの中から、PRINTのノートを取り出した。


 第一頁を開いた。


 十年前の日付があった。研修の最終日の日付。最初の一行は、若い字で、こう書いてあった。


 「黒澤さん、今日、私にありがとうと言った」


 その下の行に、九年と十一ヶ月分の沈黙が続いていた。


 私はページをめくった。


 私の十年が、誰にも見られず、ここに残されていた。


 めくりながら、私は気づいた。私のノートは、ただの愚痴帳ではなかった。それは、十年間の、業務の正確な記録だった。改竄を見抜くための、最も精度の高い照合用台帳だった。誰かに見せるためではなく、私自身が私を保つために書いたノートだったが、結果として、それは武器になり得るものだった。


 私は、最後の頁を開いた。


 最後の頁には、まだ何も書かれていなかった。


 私は、肩掛けバッグの底から鉛筆の芯の折れたものを取り出して、新しい一行を書いた。


 「世界の発券担当者・入江志保、職務継続中」


 書き終えてから、私は鉛筆をしまった。


 ノートを閉じた。


 石床に、一瞬、温かいものが触れた気がした。それは私の手の中のノートが、わずかに発した熱だったのかもしれないし、私の体温が床に移った熱だったのかもしれない。けれど、温かさは確かにあった。


 外の通路で、看守の足音が、再び遠ざかった。

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