第五章 黒衣の宰相
謁見の間で、私はその顔を見た。十年前にはいなかったはずの、見覚えのある横顔を。
ドラケンザールに着いたのは、出発から十六日目の夜だった。山岳都市は石灰岩の崖の上に築かれていて、夜になると無数の篝火が崖の腹に並び、遠くから見れば崖そのものが燃えているように見えた。
崖を登る石段は、千二百段あった。途中に三度、平坦な踊り場があって、そこに茶店と物見台が設けられていた。私たちは最後の踊り場で一度休んだ。エルナは石段の縁に腰を下ろし、ロウは茶店で薄い茶を三杯買った。
「姐さん、頂上の都の宿屋、組合の紹介状が要るんですけど、俺の紹介状で大丈夫です。組合員見習いでも、組合員の名で紹介できるから」
「助かります」
崖の頂上の都の中心には、大きな石造りの広場があった。広場の中央に、銅製の巨大な滑車仕掛けが据えられていた。これは山下から物資を引き上げるための装置で、ドラケンザールの経済を支える生命線だった。
私たちが宿に入る前に、広場で小さな騒ぎがあった。
滑車の動力源――歯車を回す職人たちの中に、賃金未払いの問題で動きを止めた者がいた。十数人の職人が、滑車の周囲に座り込み、頭領の役人と押し問答をしていた。
「滑車が止まれば、明朝の配達が遅れる。組合の取引が三日連鎖で崩れる」
ロウが、低く呟いた。
私は、職人と役人のやり取りを、しばらく聞いていた。
役人の手元に、賃金台帳らしき書類が一冊あった。書類の表紙が見える位置から、私はその日の支払予定額の記載に目を留めた。
「お訊きしてもよろしいですか」
私は、頭領の役人に近づいた。
「賃金台帳の表紙、本日付の予算項目欄、合計額が記載されていますね。見せていただけますか」
「あなたは」
「予約記録庁から、世界の発券業務の補佐で来ました」
私は身分の銅板を見せた。役人は、しぶしぶ書類を開いて見せた。
私は、表紙の合計額と、職人たちが要求している額を、頭の中で照合した。差額は、職人たちの主張する未払い分に正確に一致していた。
「役人様、この台帳の合計額は、職人方の要求額を含んだ、正規の支払予算でございます。今日付の支払予算が、本日支払われていないのは、台帳上は別の支出に流用された記録になっています。流用先は、長官府の別案件への補填――でございますね」
「君、なぜそれを」
「今朝、王都を発つ前に、長官府の補填一覧を覗き見ました」
嘘だった。けれど、私の表情は変わらなかった。実際には、長官府の癖を知っている人間が見れば、この種の流用は容易に推察できた。
役人は、ぐっと言葉を詰まらせた。
「本日の流用は、規定上、職人方への賃金支払いを優先した上で、余剰分のみが認められる流用です。本日の余剰分は、私の計算ではゼロ。よって、流用は無効。職人方への支払いを、ただちに執行されますように」
頭領は、腕を組み、しばらく私を睨んだ。それから、不意に折れた。
「分かった。すぐに執行する。あなたの名は」
「入江、と申します」
その夜、滑車は再び動いた。職人たちは仕事に戻り、配達は予定通りに発進した。
ロウは、宿の食堂で私を見て、目を丸くしていた。
「姐さん、ドラケンザールの賃金問題、姐さんが一晩で解決した。組合の旦那衆でも、こんなに早く解決できないですよ」
「規定を読んだだけです」
「それが出来ないから、規定があっても解決できないんですよ」
エルナが横で、黒パンを千切りながら、笑った。
ドラケンザールからカラリスへの街道は、山岳から平地に降りていく長い下り坂だった。
二日かけて坂を降り切ると、視界の先に、湖の縁が遠く見え始めた。湖面は鈍く光り、その向こう岸まで霧が薄く流れていた。湖畔都市カラリスは湖を抱くように半円形に広がっていて、都市の中心部は石造りの三階建てが連なり、外周部は漁師の小屋が点在しているのだと、ロウが組合の文書から得た情報を私に伝えた。私たちはまだ、その都市の輪郭を遠くから見ているだけだった。
街道沿いの宿場で、私たちは一晩を明かした。私はそのあいだに、ヴァレヌス宛ての伝書を二通、書き上げた。一通は世界の予約記録の最新の改竄状況の報告書。もう一通は、私が独自に組んだ補給隊の代替経路図だった。
宿の食堂で夕食をとっているとき、隣の卓の老婆が、私たちの会話を聞いていた。彼女は湖畔から運ばれてきた魚を商う行商で、王都への出荷が、この一年に三度差し戻されたと話した。差し戻しの理由は、納品書の押印が長官府の様式に合っていない、というものだった。けれど彼女の手元の納品書には、長官府の正式印が押されていた。
私は、彼女から納品書を一枚見せてもらった。
押印そのものは正規だった。けれど、押された位置が、長官府の旧様式の位置だった。新様式では押印は右下に寄せるが、彼女の納品書では中央に押されていた。新様式は、三年前に長官府の事務長――黒澤の従弟――が独自に制定したもので、正式な手続きを経た様式変更ではなかった。
「お婆さん、この納品書は規定に違反していません。差し戻された理由は、長官府の事務長が私的に新様式を主張しているからです。新様式は、創建期様式から三年前に勝手に派生したものです」
私は、納品書の余白に、創建期様式の根拠条文を書き加えた。
「次の出荷で差し戻されたら、この余白の条文をそのまま見せてください。長官府の事務長の私的様式は、創建期様式に対して劣後します」
老婆は、しばらく私を見ていた。それから、両手で納品書を胸に抱えた。
「あなた、湖畔の女神様か何かか」
「いえ、ただの手配係です」
翌日、北の湖畔都市カラリスに向かう手前で、私たちは王都からの早馬に追いつかれた。
馬上の使者は王の親衛隊の紋章を腰に下げていた。
「予約記録庁、入江志保様。陛下より、王城への即時帰参を命ず」
使者の手にあった巻物には、正式な王の押印があった。エルナはそれを横から覗き込み、眉間に皺を寄せた。
「印影は本物だ。だが、文面に違和感がある。陛下が直接命じる文章には、必ず一節、地方の天候への言及が入る。それがない」
「代筆ですか」
「代筆だ。だが、断れる文書ではない」
ロウは反対した。
「姐さん、これは罠だ。帰ったら出てこられないかもしれない」
私は、巻物を二度読み直した。
文面は完璧だった。けれど、最後の一行――発信者の側の押印の下に、小さく墨で添えられた一文字が、私の目を捉えた。
「黒」
長官の頭文字。それも、彼女の癖のある手書きで。
私は決めた。
「行きます。長官と直接、話します」
「お前、正気か」
エルナは私の腕を掴んだ。
「正気です」
私は彼女の手を、自分の指でそっと外した。
「この国を旅しながら、私はずっと、長官と直接話すことを避けてきました。けれど、避けても結局向かい合うしかないのなら、こちらから赴く方が、こちらの足取りで歩けます」
エルナとロウは、街道の入り口まで私を送ると言って譲らなかった。私は折れた。三人で来た道を半分戻り、王都の手前で、私たちは旅装を解いて、二人を街道脇の隠れ宿に残した。
「無事に出てきたら、合流しろ」
エルナはそう言った。
「もし三日経っても出てこなかったら――」
「来ないでください」
私は遮った。
「あなたとロウさんは、湖畔都市カラリスへ先行してください。Pの欄、連絡先の取得を、私がいない間に進めておいてください。私が戻れなかったとしても、世界の発券は止めないでください」
エルナは、奥歯を噛んだ。
「了解した、新長官」
彼女は初めて、私をその称号で呼んだ。
王城の謁見の間は、十年前の私が想像しうるどんな宮殿よりも、冷たかった。
大理石の床の中央に、緋色の絨毯が一筋、玉座まで続いている。両脇には鎧を着た衛士が並び、天井からは銀の燭台がいくつも下がっている。火が灯されてはいたが、火の暖かさは床に届かなかった。
玉座には、白髪の細い王が座っていた。
その玉座の右脇に、黒衣の人物が一人、立っていた。
顔は、覚えていた。
十歳ほど老けていた。けれど、口元の薄さも、眉の角度も、私の知っている黒澤遥そのものだった。彼女は十年ぶんの何かをこちらの世界で過ごし、その上でなお、彼女の癖のすべてを保っていた。
「久しぶりね」
彼女は私と目が合った瞬間、口の中だけで笑った。
「あなたが来てくれて、助かった」
王が、彼女の方を見上げた。
「卿、紹介したまえ」
黒澤は王に対して、深々と一礼した。
「陛下。これなる者、世界の予約記録の発券を補佐するため、私が直接呼び寄せた者にございます。元の世界では、私と同じ職場で、長く真面目に勤めておりました。名は、入江志保。本日付で、世界の予約記録の発券業務を、新長官である彼女に一任したく」
王は、深く頷いた。
長官は私の方を向いた。
「異議はないわね、入江さん」
彼女は、私を旧姓で呼んだ。
「陛下。新長官・入江志保、本日付をもちまして、世界の予約記録の発券業務に着任いたします」
私は反射的に、左手で右肩を押さえた。
謁見が終わり、私は黒澤に促されて、玉座の間の隣の小部屋に通された。
小部屋は天井が低く、壁の上半分には織物の壁掛けが下がっていた。壁掛けの図柄は古い世代の織物職人による作で、世界の予約記録庁の創建神話を描いていた。中央に大きな円卓があり、その周りに七人の創建者が座っている。創建者たちはそれぞれ別の方角を向いていて、誰一人、同じ方向を見ていなかった。古文書の創建期様式の根幹が、この絵の中にすでに描かれていた――世界の予約記録は、誰か一人の方向ではなく、複数の方角の合意でしか結ばれない、という思想が。
扉が閉まると、彼女は背もたれに体を預けて、長く息を吐いた。
「あなた、変わらないわね」
その声は、十年前のオフィスで聞いたあの抑揚のない声と、全く同じだった。
「黒澤、さん」
「ここではもう黒澤じゃない。〈黒の手配長官〉、テオドラ・ノアと呼ばれてる。覚えなくていい。あなたとは、私と私の問題で話せばいいんだから」
彼女は、目線で椅子を勧めた。私は座らなかった。
「私の話を、聞いてくれる?」
黒澤は両手を膝の上で組んだ。彼女の右手の中指の付け根に、紙で切ったような小さな傷があった。
「世界の発券は、もう間に合わないの」
彼女の声は、感情を含んでいなかった。
「十年前にこちらに落ちて、私はあなたの想像する以上に必死で働いた。前任の長官は腐敗していて、書類は山のように溜まっていて、王は無能で、宰相たちは権力闘争しかしていなかった。私はそれを一つずつ片付けて、ようやく長官位に就いて、ようやく王の信任を得た」
「それは」
「最後まで聞いて」
彼女は、初めて私の方を真正面から見た。
「最初の三年は、ほぼ眠らなかった。書類の山を一人で片付けたから。四年目以降は、自分の手で書類を作るようになった。前任長官の旧様式を、私の様式で塗り直した。私の様式は、私だけが読める様式になっていった。そうしないと、せっかく整えたものを、また誰かに崩されると思ったから。世界中の予約記録が、徐々に私の手の中だけで回るようになった。それが、効率だと信じてた」
彼女の口調は、淡々としていた。けれどその淡々の下で、何かが、わずかに揺れていた。
「気づいたときには、私の様式以外で書かれた予約記録は、長官府の入り口で全部弾かれるようになっていた。世界中の予約記録の九割が、私一人の手に集中していた。そこから先は、もう、後戻りできなかった。後戻りすれば、私の十年が、無かったことになるから」
「世界の発券に必要な五要素は、もう、揃わないの。ここ十年、削ってきたから。Pの連絡先は私の親戚筋が独占してる。Rの依頼者署名は、私が王の代筆を独占してる。Iの旅程は、私が組んだ三都市縦走以外、認可されない。Nの氏名欄は、私だけが書ける契約に書き換えた。Tの発券期限は――今日からあと十四日」
彼女は、薄く笑った。
「だから、世界を一度、自動取消する。白紙にする。そして新しい予約記録を、私の名と、あなたの名で書き直す。新世界では、私たちは正当な創立者になる。あなたはずっと、私の補佐としてここに残る。元の世界には、戻らなくていい」
私は、息ができなかった。
戻らなくていい。
その言葉が、肋骨の内側を冷たく撫でた。
戻らなくていい。元の世界の発券課に、あの蛍光灯の下に、あの茶封筒に、あの「これ今日中ね」に、戻らなくていい。
黒澤の言葉は、私が一番疲れた瞬間に、最も弱い場所に刺さるように、用意されていた。
彼女は、十年前から私のことをずっと観察していた人だった。
「考えて、入江さん」
彼女は立ち上がった。
「答えは三日後、世界の発券期限を九日後に控えた日に、聞かせて。その日までは、新長官として動いていい。動いた分だけ、私の仕事の補佐になるから」
扉が開き、彼女は出ていった。
私は小部屋に一人残された。
左手で、右肩を押さえた。
もう一度押さえた。
三度目に押さえたとき、自分の指が、わずかに震えていることに気づいた。
壁掛けの七人の創建者を、もう一度見上げた。彼らは別々の方角を見つめていた。私は、彼らのうち一人と目が合った気がした。誰かは、分からなかった。けれど、その視線は、私を励ましているのでも、責めているのでもなく、ただ、「お前はどちらの方角を見るのか」と、問うているように感じられた。
私は、目を逸らさなかった。逸らせなかった。逸らしたら、もう二度と、自分の方角を取り戻せない気がした。




