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異世界転生した旅行手配員の予約記録 〜発券期限まで三十日、世界の旅程は私が結びます〜  作者: もしものべりすと


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第三章 辺境騎士団と七つの予約記録

剣で世界は救えない。だがお前の指は、世界に署名できる――そう私に最初に言ったのは、エルナだった。


 地下三階から階段を上った私を、王城の中庭で待っていたのは、年若い騎士だった。鎧の袖は擦り切れていて、ブーツの先には乾いた泥がついていた。背は私より頭一つ高く、目つきは鋭いが、首だけが少し細い。


「あんたが新長官の助手か。志保。覚えた」


 彼女は、エルナと名乗った。


 ヴァレヌスからは、「あなたを王都の外まで護衛してくれる、辺境騎士団の若手をひとり呼んであります」とだけ聞いていた。


 エルナは挨拶もなしに私の腕を引いた。


「悪いがゆっくりはできない。長官の手の者が、あんたを見つける前に出る」


 王城の裏門は、思ったよりも貧相だった。漆喰の崩れた壁の前で、小柄な少年が二頭の馬を控えていた。


「ロウ。出すぞ」


「了解、姐さん」


 少年は私を見て、目だけで会釈した。年は十二か三か。商人らしい簡素な革帯を腰に巻き、左の小指に小さな貝の指輪をしている。商人組合の見習い印だと、後でエルナが教えてくれた。


 馬は二頭。エルナは私を自分の鞍の前に乗せ、ロウは別の馬に荷物と一緒に乗った。私は馬に乗ったことなど一度もなかったが、エルナは私の戸惑いを最初の数秒で見抜き、何も言わずに私の腰に革ベルトを巻き付け、自分の鎧の留め金にそれを連結した。落ちても私は彼女から離れない仕組みになっていた。


 王都を出るまでに、エルナは二度、検問の兵士に書類を見せた。書類はヴァレヌスから預かったもので、私の名がそこには書いてあるはずだった。兵士は何かを呟き、書類を返した。エルナは何度かそれを「いつもの嫌味な書類検査」と毒づいた。私は黙って馬の鬣を見ていた。


 石畳が途切れ、土の道に変わる頃、空が薄紅に染まり始めた。


「あんた、しゃべらないんだな」


 エルナが背中越しに言った。


「すみません」


「謝らなくていい。ただ、しゃべってくれた方が、こっちは楽だ」


 私は何を話してよいか分からず、結局、業務のことを話した。十年勤めた発券課のこと。PRINTの五要素のこと。誰にも見られないノートに、毎日不整合を書き留めてきたこと。


 エルナはしばらく黙って聞いていた。


「それ、つまり、誰かの旅程が壊れないように直してきたってことだろ」


「そう、なります」


「剣で世界は救えない。だがお前の指は、世界に署名できる」


 彼女は、顎の下で笑うような息を漏らした。


「うちの団長の口癖だ。書類仕事をする後方の連中を、団員たちは舐めがちなんだが、団長はいつもそう言って怒る。今日からその台詞、お前のために言っておこう」


 私は何も返せなかった。胸の奥で、皿の上に置かれた角砂糖が、ゆっくり水に溶けていくような感覚があった。


 馬の鬣が、夕日を受けて、わずかに金色を含んでいた。私の体の前に座るエルナの背中は、鎧越しでも、確かな体温を持っていた。背中越しに、彼女の心拍が、馬の歩調と少しずれた拍子で、一定の速さで打っているのが、伝わった。私はその二つのリズム――馬の歩調とエルナの心拍――の重なりを、しばらく耳の中で聴いていた。


 誰かの背中の温度を、こんなに近くで感じたのは、母を最後に病院に見舞ったとき以来だった。母は私の手を取って、「ちゃんとしてる?」と訊いた。私は「ちゃんとしてる」と答えた。今、エルナの背中越しに、私はもう一度、自分の心の中で、「ちゃんとしてる」と呟いていた。誰に答えているのかは、分からなかった。


 最初の村は、王都から二日かけて到達した。


 二日のあいだに、街道の景色が三度変わった。


 最初の半日、王都から東の野原を抜ける道は、左右に菜種の畑が広がっていた。黄色い花は風に揺れて、鞍上の私の目には、地面そのものが揺れているように見えた。エルナは菜種の蜜の匂いが好きだと言って、何度か深呼吸をした。


 次の一日、街道は針葉樹の森に入った。木々の幹はまっすぐで、樹皮に白い苔の縞模様が走っていた。森の中は薄暗く、馬の蹄の音だけが、湿った土を踏みしめて響いた。エルナは森に入った瞬間、口数が減った。彼女は野盗の襲撃に対して警戒を上げていた。けれど、襲撃は来なかった。


 最後の半日、森を抜けると、丘陵地帯が広がった。麦畑が三日月形に連なって、その先に、ようやくゼフィ村の屋根が見えた。屋根の煙突から、料理の煙が三筋、細く上っていた。


 道中、エルナは私に多くのことを話した。


 彼女は十六歳で辺境騎士団に入り、最初の三年は補給隊の護衛から始めて、二十歳になった頃に騎士の正式な称号を授かった。今は二十三歳。剣の腕は団内で五本指に入るが、書類仕事はからきしで、報告書はいつも団長の代筆に頼っている。


「だから、お前みたいな手配係を、一人くらい、団長は欲しがってるんだ」


 彼女は鞍の上で笑った。


 ロウは、別の馬の上で、商人組合の暗号を私に教えてくれた。組合員同士でやり取りする手紙には、表向きの文章の頭文字を縦に読むと、別の意味が出てくる仕掛けがある。彼は十二歳でその暗号をすべて覚えていた。


「姐さん、PRINTって五要素も、一種の暗号みたいなもんですね」


 ロウは私の方を振り返った。


「頭文字で覚えるって、商人組合のやり方とおんなじだ」


「そう、ですね」


 私は、頷いた。


 頷きながら、十年前の研修最終日に、講師がPRINTを縦に並べて板書したときのことを、もう一度、思い出した。あの板書は、ある意味で、私の人生の暗号だった。五つの文字の頭文字に、私の十年が埋め込まれていた。Pは連絡先、Rは依頼者署名、Iは旅程、Nは氏名、Tは発券期限。けれどその五つの文字を縦に読むと、もう一つの意味が浮かび上がる。「PRINT」――刷る。誰かの一日を、紙の上に、繰り返し刷り続けてきた、私の十年の意味が。


 名は、ゼフィという小さな農村で、麦畑と果樹園の間に石造りの家が三十軒ばかり並んでいた。村に入ると、すぐに異変が分かった。


 村人たちが、虚ろな目をしていた。


「五日前から、こうなんだ」


 迎えに出た村長は、エルナとロウに頭を下げた。


「みんな、明日のことを覚えていない。畑に水をやる順番が分からない。鶏に餌をやる時間が分からない。そして、一日のうちに、決まって午後の三時間だけ、誰の記憶も飛んでしまう」


 村長の手は荒れていた。爪の縁に、土と煤の混じった黒いものが残っていて、それは何度水で洗っても落ちなかった種類の汚れだった。彼の年齢は、おそらく六十前後。けれど、目元の皺が深く、声には疲労が滲んでいた。


 村の井戸の周りに、子どもたちが数人、集まって石蹴りをしていた。けれど、石を蹴る順番が、誰も分かっていなかった。順番を決めるための数え歌を、子どもたちは半分ほど歌ったところで、忘れてしまうのだった。


 ヴァレヌスから持たされた携帯用の予約記録読取器――銅と硝子で作られた小さな装置――を、私はエプロンの下から取り出した。


 村のPNRを呼び出してみる。


 Iの欄。旅程。村人たちの一日の流れが、本来そこに書き込まれているはずの場所。そこから、日に三時間ぶんが、毎日綺麗に削除されていた。削除された時間帯は均一で、正午を一時間過ぎたあたりから始まり、十五時に終わる。削除のされ方には特徴があった。手書きの上から、別の手で線が引かれている。線は丁寧で、無駄がなく、けれど書き手の癖が滲んでいた。


 私はその線の癖を、見たことがあった。


 黒澤の手だ。


 彼女は研修の頃から、誤った書類を破棄するときに、必ず「斜め下に向けて二回」線を引く癖があった。罫線に対して斜めに、上から下へ、二回。村のPNRの削除線は、まさにその癖で書かれていた。


「直せます」


 私は呟いた。


 削除されたのは時間帯であって、内容そのものではない。元の旅程を別の冗長な記録から復元できる。村の倉庫の出納台帳、井戸の利用簿、教会の鐘の記録――これらを照合すれば、削除された三時間に何が起きていたかを再構成できる。


 私はその夜、村の集会場の一隅で、ロウとエルナに手伝ってもらいながら、村のPNRを修復した。


 Iの欄に、本来の旅程を書き戻す。Pの欄の連絡先、村長の名のもとに統一されている。Rの欄には、村長から長官への正式な依頼署名。Nの欄には村人全員の名簿の写し。Tの欄には、来年の収穫祭の日。


 書き終えると、村のPNRは静かに金色に発光した。


 光は集会場の天井まで上り、しばらくそこに留まり、それから天井の梁の隙間に吸い込まれて消えた。村の屋根全体が、一瞬だけ、薄く金色を帯びた。けれど、見上げた村人たちのほとんどは、その光に気づかなかった。気づいたのは、夜更かしをしていた井戸番の老人だけで、彼は翌朝、村長に「夜中に屋根が光った気がする」と報告した。村長はその報告を、私に伝えた。「夜中に屋根が光るのは、村に良い知らせが訪れる前兆です」と、彼は静かに言った。


 翌朝、村人たちは午後の三時間を取り戻した。鶏の餌の時間を覚えていた。井戸の順番を諍うことなく決めていた。子どもが石蹴りをしていて、犬が吠えていた。


 村長は、私に向かって深く頭を下げた。


「あなた様は、長官様より大きな仕事をなさいました」


「いえ、私は」


 私は反射的にそう言いかけて、口をつぐんだ。


 代わりに、エルナが胸を張った。


「俺の手配係はすげえんだ」


 ロウが小さく笑って、彼女の脇腹を肘でつついた。


 その夜、村の納屋を借りて寝床にした。麦藁の上に毛布を敷いただけの床で、私はなかなか寝付けなかった。エルナはすぐ近くの梁にもたれて、剣を抱えたまま目を閉じていた。


「お前」


 目を閉じたまま、エルナが言った。


「なんで、お前の手柄を、俺に取らせる」


 私は答えなかった。


 答えられなかった。


 暗い納屋の天井の隅で、蜘蛛の巣が揺れていた。私はその揺れを目で追いながら、十年前の研修の終わりに、隣の席の黒澤が「ありがとう」と一度だけ言ったことを、不意に思い出した。それ以来、彼女は私に礼を言ったことがない。


 私はその「ありがとう」を、引き出しの奥に大事に仕舞ったまま、生きてきたのだと思う。


 仕舞ったまま、私は十年間、自分の手柄を、誰のものでもない場所に置き続けた。誰のものでもない場所、というのは、結局、誰のものでもないままに消えていく場所だった。私が修正した予約記録は、修正された後、ただそのまま、誰の名前にも紐づかずに、システムの中に流れていった。私の指の動きだけが、誰にも見えない場所で、ただ、空回りを続けた。


 エルナの問いは、その空回りの十年に、初めて、外側から差し込んできた光だった。


 なぜ、と問われれば、私はこう答えるしかなかった――そうすることでしか、私は私を保てなかったから、と。けれど、答えなかった。


 返事はしなかった。けれどエルナは寝息を変えなかったので、私の沈黙はおそらく、返事として伝わっていた。

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