第二章 予約記録庁地下三階
目が覚めると、紙の海の底にいた。山積みの予約記録は、誰の手も入れずに腐っていた。
最初に意識を取り戻したのは、嗅覚だった。
冷えた石の匂い。そこに、書庫の奥で何十年も眠った紙の匂いが重なり、さらに一段下に、湿った苔と鉄分の混じった水の匂いが沈んでいる。鼻の奥で混ざり合うそれらの匂いは、どれも私の知っているオフィスのどこにも属さなかった。
次に、頬に押し当てられた紙の硬さがわかった。羊皮ではなかった。けれど、業務用のコピー用紙でもなかった。麻の繊維が混ざった、厚みのある手漉き紙。指でなぞると、わずかな引っかかりを残して滑る。
私は身を起こした。
肩掛けバッグだけが、いつも通り左肩から下がっていた。中を覗けば、PRINTのノートと、家の鍵と、予備の単三電池が二本。それ以外は何もなかった。財布もスマートフォンも、ロッカーに置いてきていた。
石造りの広間だった。
天井ははるか頭上にあって、高いところに嵌められた格子窓から、薄青い光が筋となって落ちていた。光の筋の中で、空気中の埃が静かに舞っている。床は石。壁も石。柱も石。広間の中央には大きな円卓が一つ据えられていて、その上にも、その周りの床にも、無数の紙束が積み上がっていた。
円卓の脚は、一本一本が私の腰ほどの太さがあって、卓の天板には深い傷と、染み込んだインクの黒い斑点がいくつも残っていた。何百年もの間、誰かがこの円卓で書類を書き続けてきた跡だった。卓の縁の、私の右手側の一箇所だけ、木目がわずかに磨り減って、滑らかになっていた。誰かがその位置に、長年、肘をついて書類を読み続けていたのだろう。
すべて、見覚えのある書式だった。
いや、正確には、見覚えのある書式に似た、別の書式だった。
行頭の左側に、「P」「R」「I」「N」「T」の五文字が縦に並んでいる。文字は明らかにアルファベット。けれどその間を埋める文字は、見たことのない、けれどなぜか意味だけが頭に直接届くような奇妙な記号で書かれていた。
予約記録だ。
私はそれを、瞬時に理解した。
「お目覚めになられましたか」
声がした。
円卓の向こう側から、痩せた老人が一人歩いてくるところだった。鼠色のローブを着て、首から青銅の鎖でぶら下げた印鑑のようなものを下げている。歳は七十をいくつか越えているように見えた。けれど背筋は曲がっていない。両手は紙束を抱えていた。
彼の足音は、石床の上をほとんど立てなかった。長くこの広間で暮らしてきた者の歩き方だった。彼は私のすぐ手前で立ち止まり、私の目の高さに合わせるようにして、わずかに体を屈めた。彼の目の縁には、書庫の埃と、長年の憂いとが、薄く層をなして積もっていた。
「ここがどこか、お訊きになる前に、こちらから一つだけお訊きしてもよろしいでしょうか」
老人は静かに紙束を円卓に置いた。
「あなたの指は、修正をしますか」
その問いは、私の中の何かを直接撫でた。
「修正、というのは」
「他人の紙の上に、誤りを見つけたとき。あなたはそれを、自分の指で直しますか」
私は答えた。
「直します」
考える前に答えていた。声は震えていた。けれど内容は震えていなかった。
「それで結構です」
老人は深く頷いた。
「私はヴァレヌスと申します。この予約記録庁の、元長官です。今は地下三階の管理係――というのは正確ではありません、追放されて、地下三階に住んでいる老人です」
彼は私に椅子を勧めた。私は座った。
「ここがどこか、ご説明しましょう」
ヴァレヌスの説明は短かった。
ここは予約記録庁。世界の魂と運命を結ぶ契約様式――この世界では「予約記録」と呼ばれる――を管理する、唯一の機関である。すべての国、すべての都市、すべての村、すべての人。生まれた瞬間に一枚のPNRが起票される。生きている間、それは更新され続ける。死ぬ瞬間に、Tの欄、つまり「発券期限」が書き込まれて、ようやく完成する。
ただし、人間個人のPNRとは別に、世界そのもののPNRが一枚、存在する。
それは世界が「自動取消」されないために必要な、最後の一枚だった。
「世界の予約記録の発券期限は、十年ごとに更新されます」
ヴァレヌスは紙束の一番上の一枚を、私の前に静かに置いた。
「十年前、当代の手配長官が任に就いて以来、その更新は止まりました。ごまかしごまかし、形式だけが続いてきましたが、ついに今、本物の発券期限が迫っています」
彼の声は淡々としていたが、その淡々としていることが、かえって事態の重さを伝えた。彼は十年間、地下三階でこの瞬間を予期して暮らしてきた人だった。十年間、形式だけの更新を内側から見続けてきた人だった。彼の手の中の紙束には、その十年分の「形式だけ」の記録が、堆積していた。
紙の右下に、小さく日付らしき数字が並んでいた。意味は分からなかったが、ヴァレヌスは指で示した。
「あと、三十日です」
三十日。
私は、その数字を、頭の中で反復した。三十日。三十日のあいだに、世界そのもののPNRを発券するか、発券できなければ、世界が自動取消される。「自動取消」は、私の業務の中では一日に何度も発生する平凡な処理だった。予約記録の発券期限を過ぎた航空券は、システムが勝手に取消す。それと同じことが、世界の規模で、起ころうとしていた。
「世界が、自動取消――される、ということですか」
「そうです。発券期限を過ぎた予約記録は、自動的に取消され、すべての要素が白紙に戻される。世界そのもののPNRが取消されれば、世界そのものが白紙に戻ります。誰も、何も、覚えていない場所へ」
私は、自分の指先を見た。
修正の手癖が、まだ少し疼いていた。
「なぜ、私が、ここに」
「あなたを呼んだのは、私ではありません。これを呼んだのは、世界の予約記録庁そのものです。期限が迫る世界は、自分自身を結び直すための指を、自ら呼び寄せる仕組みになっている」
ヴァレヌスはローブの内側から、もう一枚の紙を取り出した。
古い書式。けれど整えられていた。表題には「Iries Shiho」と、私の名前のローマ字。
PRINTの五要素のうち、Pには「東京都中野区」までの情報。Rには私の母の旧姓らしき署名。Iには昨日までの私の日々の旅程――通勤経路、休日の散歩道、母の見舞いの行き帰り。Nには「入江志保」。
そしてTの欄だけが、空白だった。
「これは、私の」
「あなたのPNRです。あなた自身の予約記録は、十年前にあなたが研修でPRINTを覚えた瞬間、自動的にこの世界の登録簿に組み込まれました。世界の登録簿に名を刻んだ者は、世界の発券期限が危機に瀕したとき、こちらに呼ばれることがある。この十年でほんの数人だけ、そういう者がいました」
「何人ですか」
「正確には、二人です」
二人。私は目線を上げた。
「もう一人は」
「現・手配長官です。十年前にこちらへ落ちて、この国の宰相位に上り詰め、世界の予約記録を握っている方。あなたが帰るためには、その方を一度、説得しなければなりません」
「説得、というのは」
「世界の予約記録を発券期限内に、正しく発券する。そのためには長官の協力が要ります。けれど、長官はもう、世界を発券するのではなく、世界そのものを白紙に戻して、自分の名で再発券することを望んでおられる」
私の喉が、乾いた音を立てた。
「お名前は、なんと」
ヴァレヌスは少し迷ったあと、口の中だけで答えた。
「黒衣の宰相は、こちらへ来てから新しい名で呼ばれていますが、元の世界での名は確か――黒澤、遥」
石の床が、音もなく一段下がった気がした。
私は俯いた。膝の上の自分の手を見た。指先がかすかに震えていた。
黒澤、と私は心の中でその名を呟いた。呟いた瞬間、十年分の彼女の姿が、頭の中で一気に流れた。研修の隣の席。最初の配属の朝礼。三年目の昇進辞令の発表。五年目の課長補佐就任のスピーチ。茶封筒。茶封筒。茶封筒。「これ今日中ね」。「これ今日中ね」。「これ今日中ね」。十年分の彼女の声が、地下三階の石の天井に反響して、自分の耳に戻ってきた。
彼女が、十年早く、ここに落ちていた。
彼女は、こちらの世界で、十年早く、何かを始めていた。
そして、私が今、追いついた。
ヴァレヌスは静かに紙を畳み、続けた。
「あなたが帰る方法は、一つだけあります」
「世界の予約記録を、発券する」
「正確には、発券に必要な五要素を集め、長官ではなくあなた自身の指で署名する。それだけで、あなたのPNRのT欄は自動的に埋まります」
帰る、と私は呟いた。
帰る。家に。母の見舞いの予定がある。来月には会社の発券試験がある。同期に置いていかれることに、もう慣れているけれど、それでも私は、私のいる場所に戻りたい。
帰るためには、世界を発券しなくてはならない。
そして発券のためには、十年早くここに落ちていた、私のもっとも苦手な人と、一度向き合わなくてはならない。
立ち上がった。
立ち上がるとき、左手で右肩を押さえた。誰にも見えない癖。世界の地下三階で、私はまた同じ癖を繰り返した。
「ヴァレヌスさん」
「はい」
「最初に、何から手をつければよいですか」
老人は深く頷いた。彼の目の縁に、わずかに光るものがあった。
「ご自身の指を、信じてあげてください。この十年、あなたが誰にも見られず修正してきたものを、こちらの世界の人々はずっと、見続けてきました」
ヴァレヌスは、円卓の上の紙束を、ゆっくり整えた。
「予約記録庁の地下三階は、本来、世界中の予約記録の最終記録庫です。ここに保管されているすべての記録は、世界のどこかで誰かが書いた、誰かの一日の写しです。私はこの三階で、十年間、写しを取り続けてきました。長官府の手の届かない場所で、世界の本当の予約記録を、保ってきたのです」
彼は私に、紙束の中から一枚を引き抜いて見せた。
その紙には、私の知らない誰かの一日の旅程が、丁寧に書かれていた。朝、井戸まで水を汲みに行く。昼、畑に出る。夕方、子どもを学校から連れて帰る。夜、家族で夕食を食べる。
「これは、ある辺境の村の、ある母親の、一週間前の予約記録の写しです。彼女のことを、誰も知らない。けれど、彼女の一日は、世界のPNRの一部になっている」
私は、その紙を、両手で受け取った。
「あなた様が、これを修正してくださる」
ヴァレヌスは、静かに言った。
「世界中の、誰にも見られていない一日のすべてが、あなた様の指によって、結ばれます」
私は、紙を、もう一度見た。
文字は、知らない言語のように見えて、けれど意味はそのまま頭に届いた。母親の名前、子どもの名前、夕食のメニュー。誰かの、ささやかな、一日。
私は、紙を畳んで、肩掛けバッグの中に、PRINTノートと並べて入れた。
「行ってきます」
ヴァレヌスは、頭を下げた。
地下三階の階段を上がる足音が、私の背中を、押してくれた気がした。




