第一章 発券ファクトリーの片隅で
金曜日の夜、誰もいないオフィスで、私は今日もP・R・I・N・Tと唱えている。
午後十一時を過ぎた発券ファクトリーには、私のキーボードを叩く音だけが残っていた。蛍光灯のうち一本が切れかけていて、視界の右上で時折まばたきする。視線を上げれば、棚の上に積まれた未処理のバウチャーの束が、灰色の壁を背負って息を潜めている。
入江志保。三十二歳。所属は中堅旅行手配会社の発券課。肩書きは特になく、強いて呼ぶなら一作業者である。
モニターの中で予約記録の一行が赤く点滅していた。同じ便名が二度繰り返され、下に重なった旅程の出発時刻が一分だけずれている。誰かが手作業で複写した際の入力ミス。私は迷わずカーソルを合わせ、正しい値に置き換える。誰の指示でもない。誰に頼まれたわけでもない。それでも私は、毎晩こうして他人の卓に積まれた赤いセルを片付けて回る。
卓の左端には、夕方に投げ置かれた茶封筒がある。
封の表に走り書きで「これ今日中ね」と書かれている。書いたのは黒澤遥。同期の中で唯一、入社六年で課長補佐に上がった女。中身を開ければ、私の名で発信されたはずの社外メールに、私が一度も入力したことのない誤った旅程が添付されている。誤りは黒澤の卓で発生したもので、添付の作成時刻は彼女の出社前。私の手は使われていない。それでも宛名にはこちらの社員番号が打ち込まれていて、報告書の発信ログには私のIDが乗せられている。
夕方に黒澤が私の卓へ来て、口元だけで笑って言った。
「これ今日中ね。あ、ミス見つけたから報告しといた。次から気をつけて」
彼女の目元には影がなかった。声には抑揚もなかった。誤ったのが私だと、彼女自身は微塵も信じていない。それでも報告書を上げる。彼女の世界の中では、誰かが何かを誤った瞬間、その誰かの席に私の名前が滑り込むことになっているのだ。
返事ができなかった。私は頷き、封筒を受け取った。彼女が席に戻る後ろ姿を見ながら、左手で右肩を押さえた。
彼女の足音は、廊下のリノリウムを踏むときに、左足だけが半拍だけ重く落ちる。これは中学生のスニーカーで床を擦るときの癖が、今もそのまま残っているのだ、と私は思っている。研修の頃、彼女は左足をかばうようにして歩いていた時期があった。理由は聞かなかった。十年経った今も、彼女は同じ歩き方をしている。私はその足音だけで、彼女が三歩離れた向こうの卓に着いたことを、目を上げずに知ることができる。
今、その封筒の中身を一行ずつ突き合わせている。誤りの箇所はすぐに見つかった。出発空港のコードが一文字違う。HND(羽田)と打ち込むべきところに、HKD(記号としては存在しない)が入力されている。指がキーボードの隣のキーに引っ掛かっただけのよくあるミスだ。誰のミスかなんて、本当はログを見れば一秒で分かる。けれど私はそれを誰にも告げない。修正だけを行い、システム上では何事もなかったかのように差し戻す。
誰かに見せれば、黒澤の手柄が一つ崩れる。それは私が望むことではないし、課全体の士気にも関わる。そう自分に言い聞かせながら、私はもう五年、同じことを続けている。
「P、Phone。連絡先」
唇の中で唱える。声に出さない。声に出してしまえば、隣の卓にいる誰かに気づかれてしまう気がする。
「R、Received from。依頼者署名」
もう一度、左手で右肩を押さえる。これは緊張したときの私の癖だ。中学生の頃から変わらない。発表のとき、面接のとき、頭を下げるとき。誰にも見えないように、自分の右肩を一度だけ押さえる。
「I、Itinerary。旅程」
予約記録の五要素。航空券のPNRが有効に成立するための、世界共通の最低条件。新人研修で叩き込まれて以来、私はそれをPRINTの頭文字として暗唱できるようになった。
「N、Name。氏名」
画面の向こうの旅客の名が、半角ローマ字で並んでいる。SUZUKI/ICHIRO MR。MURAKAMI/SACHIKO MS。会ったこともない人たちの旅程を、私は毎晩結び直している。
「T、Ticketing limit。発券期限」
ここまで唱え終えると、私は深く息を吐く。胸の奥で何かが落ち着く。母の作るお粥の湯気の匂いを思い出すような、とても小さな安らぎ。
PRINTを最後まで唱えると、私は決まって母のことを思う。母は二年前から長期の入院生活を送っている。月に一度、私は病院に見舞いに行く。母は毎回、同じ質問をする。「会社で、ちゃんとしてる?」。私は毎回、同じ答えを返す。「ちゃんとしてる」。母はそれを聞くと、安心したように頷いて、布団の上で目を閉じる。母にとっての「ちゃんとしてる」が、どこからどこまでを意味するのか、私には分からない。けれど、私が頷いてくれることが、彼女の心の支えになることだけは、分かっている。
その時、廊下の方からコツコツと音がした。
「お疲れさま。今日も遅いのね」
清掃の橘さんだった。バケツとモップを手に立っている。六十を過ぎているはずだが、背筋がまっすぐで、ベテラン教師のような佇まいをしている。私は会釈を返した。
「ねえ、入江さん」
橘さんは床にバケツを置いた。
「あなたの仕事、ほんとはあなたがやってるって、上の人みんな分かってるわよ」
心臓が一拍だけ強く打った。
「いえ、私は」
反射的にそう答えていた。違うんです、ただの修正作業ですし、と続けたかったが、続けられなかった。
橘さんは何も言わなかった。ただ床を一回だけ拭いて、別のフロアへ歩いていった。スリッパが廊下を擦る乾いた音が、しばらく耳に残った。
モニターに戻ると、画面の右下が日付を更新していた。
私は引き出しの一番奥から、一冊のノートを取り出す。古い大学ノート。表紙にマジックで「PRINT」と書かれている。誰にも見せない。誰にも見られない。私だけのノート。
今日の記録を書く。
午後三時、黒澤さん卓の予約記録に旅程不整合あり。発券前に修正。報告せず。
午後五時、黒澤さんが本部に提出した報告書中、私の名で記載されたミス案件二件。実際にはどちらも黒澤さん卓発生。記録のみ。
午後八時、未消化アロットメント七室、リリース手続きを橘さん卓のついで作業で代行。署名は黒澤名義のまま。
書き終えてから、私はそのページを軽く撫でる。
誰にも見られないとしても、私が書いている。それだけのことを、私は十年近く続けている。
研修で初めてPRINTの意味を教わったとき、講師は黒板にマーカーで五つの文字を縦に並べて、こう言った。「君たちが扱うのは紙の予約じゃない。誰かの一日と、誰かの戻る場所を結ぶ、たった一本の線だ。線が一箇所でも切れたら、その人は家に帰れない」。当時の私はそれを少し大げさだと思った。けれど数年経つうちに、自分の指先が人の旅程を結んでいるのだという感覚は、確かに体の奥に染み込んでいった。
黒澤はその研修で隣の席に座っていた。彼女は講師の言葉を聞きながら、テキストの余白に小さく「面倒くさい」と書いていた。私はそれを横目で見て、何も言わなかった。十年が経ち、彼女は課長補佐になり、私はまだ一作業者のままでいる。
研修最終日の夜、私と黒澤は、研修棟の廊下で偶然すれ違った。彼女は手にお茶のペットボトルを持っていて、私は手にPRINTノートの新品を抱えていた。彼女は私の顔を一度見て、ペットボトルを少し持ち上げ、「ありがとう」と言った。何に対する礼かは、分からなかった。研修中、私は彼女のテキストの不備を一度だけ指摘していた。それのことだったのかもしれない。けれど、彼女ははっきりとは言わなかった。
あれが、彼女が私に礼を言った、最初で最後の瞬間だった。
帰り支度をしていたとき、外で雷が鳴った。
窓のないこのフロアからは光は見えないが、ビルが微かに震え、空調の音が一瞬乱れる。台風崩れの前線が来ているとニュースで言っていた。
部屋を出る前に、もう一度奥のキャビネットの方へ目をやった。普段は鍵がかかっているはずの一番下の段が、半分開いている。中から、紙の束がはみ出している。色のくすんだ手書きのバウチャーだ。古い書式。一九八〇年代の様式に見える。
誰かが鍵を閉め忘れたのだろう、と私は思った。けれど、この発券課で、最後にあのキャビネットを開けたのが誰なのか、私は正確に思い出せた。先週の金曜日、夜の九時過ぎに、黒澤が一度、その前にしゃがんで何かを取り出していた。彼女は私の卓の方を一度だけ振り向き、私が画面に向かっていると確認した上で、キャビネットを閉めた。鍵を回す音は、確かに聞こえた。
けれど今、鍵は開いていた。
不思議に思って手を伸ばした。指先が紙束に触れた瞬間、頭の上で雷光が炸裂したような白さが、視界を埋めた。
ファイルキャビネットの内側から、湿った冷気が一気に這い上がってきた。
私の指は、まだ紙束に触れたままだった。けれどその指の下にあるのは、もうペーパーバウチャーではなかった。羊皮のような厚みのある紙。インクの匂い。墨と、土と、それから――
目を開けたつもりだった。けれど何も見えなかった。
そして、見えた。
石。
頭の上、信じられないほど高いところに、石の天井があった。ところどころに鉄の格子が嵌められていて、そこから細い光が差し込んでいる。光は筋になって、足下の床に届く。床にも紙の束。山積みになった、無数の予約記録。
手にしていた革靴は、どこにもなかった。
私は、知らない場所の、知らない時間の、知らない床の上に立っていた。
PRINTのノートだけが、肩掛けバッグの中に残っていた。
遠くの方で、誰かが咳き込む音がした。




