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十八話:癸眞

 青空。


 千切って放ったような白い雲が、緩やかな風に乗って流れている。湿った土の匂いと、枝葉の揺れる音。涼しいと肌が感じ取り、瞬いて、体がどこも痛くないことに気づいて。


「っ……あれ?」


 直之が飛び起きれば、周りは木々で囲まれていた。丸い草むらの上で寝ていたことがわかりもう一度見上げれば、変わらず雲が流れていて。


「ここ、どこ、」

「何処、そうさな、強いて言うなら思い出の中、であろうか。」


 背後から聞こえた声に振り向けば、切り株に腰掛けている、白装束の女性がいた。その顔に、直之は驚いた。


「……姉ちゃん?」

「ああ、いや違う、其方の姉から姿を借りているだけだ。人の姿である方が話しやすかろうと思うてな。」

「じゃあ……誰?」

「妾にはまだ名がない。ないが……そうさな、このような時に名がないと不便であるな、では仮に、ロクと呼んでくれ。」


 ロクは手元の巻物を閉じる。直之は何から聞けばいいのか分からなかった。あなたは何者? どうして俺はここに? 何が起きてる? それより、シンは?


「まぁ、妾に尋ねたいことは山積みであろうが、それよりも、昔話をしよう。」

「昔話?」

「然様。まだ其方はよく知らぬだろうしな。歩こう。目的地までは少々長い。」


 立ち上がるロクが手招く。直之は少しの間悩んだが、直之も立ち上がり、その背に着いて行くことにした。


 獣道のような森の中を歩く。何処かを目指すように歩きながら、ロクは語り出した。


「今となってはいつからであるかわからぬが、古くからこの地には、十の(えい)が存在した。」


 十の衛。彼らは厄や災から生命を護るために、この地を十に分けて座していた。彼らに名が付けられたのはかなり後になってからのことで、時には神、時には鬼と呼ばれた彼らは次第に、それぞれ甲仁(こうじん)乙義(おつぎ)丙礼(へいれい)丁智(ちょうち)戊信(ぼしん)己忠(きちゅう)庚孝(こうこう)辛悌(しんてい)壬和(じんわ)、そして、癸眞(きしん)と呼ばれるようになった。各々の地で多種多様な形で信仰されていた彼らだったが、次第に信仰は薄れ、一衛、また一衛と土地から消えていき、残ったのは癸眞のみであった。


 癸眞は土地の者に非常に好かれていた。真心もって命を癒し、支え、育む姿勢は多くの者の心に響き、また厄災と闘う姿からは皆に畏怖を刻んだ。癸眞は好かれていた。老若男女問わず。しかしその日々に、終わりが来た。


 癸眞の姿を見た人々はそれまでの信仰を捨てた。癸眞が、あまりにも醜かったからだ。代わりに人々は癸眞を邪鬼として扱うようになった。初めは癸眞も気にしていなかった。呼び名が変わったのみで、自身のやるべきことに大差はないと思っていた。

 だが少しずつ、癸眞は身体に異和を覚え出した。留め具を掛け違えているような、居心地の悪い異和を。その異和は村人達が癸眞を邪鬼として扱えば扱うほど広く、大きくなっていき、ついに喉を掻きむしる程の飢えへと変貌した。我慢のできなくなった癸眞は村に降り、人々を喰い殺した。我に返った時には既に遅く、癸眞の姿はそれまでの勇猛さを失い、力を、神気を失い、人を喰わねば生きられぬ食人鬼と成り果ててしまったのである。


「それが、今のシン……」

「真、世は無情とはこのことよ。しかし悲しむ勿れ、この世は形を変えながら繰り返されるのが常。現代に、ある者が産み落とされた。」

「ある者って、」

「其方の姉だ。癸眞を最後まで信じた村最後の祈祷師、其の生まれ変わりよ。」


 直之の姉は、前世癸眞の守護した村の祈祷師だった。また、生まれながらにして神気を纏い、癸眞を神に戻す役割を天から担っていた。

 直之は唐突に思い出した。姉が言っていた言葉を。


『ふっふっふ、それはねー……神様を復活させるの!』


「え……? じゃあ、」

「其方の姉は、癸眞に出会うべくこの世に舞い降りたようなものであったのだ。だが、その前に命を落とした。天は困り果てた。癸眞との縁を唯一繋げ続けていたのが其方の姉だったからな。輪廻転生には数百の時を要するため、それを待つ他ないかと思われた。しかし時を経て、如何なる運命の巡り合わせか、其方が癸眞に喰われた。これにより、其方を通して其方の姉の縁が癸眞に繋がったのだ。」

「てことは、シンに喰われた記憶が俺にあったのは……」

「繋がった縁故に、『辻褄合わせ』が一部作動しなかったのだと思われる。だがまさか、其方が積極的に癸眞に会おうとするとは、天もご想像なさらなかったようだが。しかし結果、其方は癸眞と出会った。其方が百に喰われたのを見た時は肝が冷えたがな。天はお焦りにならなかった上に、癸眞は其方を喰らった。天のご意向は成されたのだ。」


 淡々と話してながら、ロクの声音には少々高揚が混じっている。ふと、直之の頭に、癸眞に喰われる前が過った。


「あ……俺を喰った百は、どうなるんだ?」

「しばらくは天の罰により苦しむこととなるだろう。縁の繋がる先ではない鬼であったから、であるが……浅ましい欲のままに浄き其方を喰らうたのだ、相応の報いよ。」


 ロクは鼻を鳴らして笑う。直之は少し腑に落ちなかった。『咬み痕』のある人間を鬼が喰うとお互い消滅するはず。でも百も、直之も、消えていない。

 その疑問を読んだかのように、ロクは応えた。


「人間はな、『辻褄合わせ』で体を再構築される際、魂と肉体の距離が密接になることが多い。故に、再び喰われた際に魂ごと喰われかねないのだ。魂ごと喰われた場合、人間は本線に戻ることができず消滅する。」

「けど……俺はそうじゃない?」

「其方の肉体の再構築は、ほぼ其方の姉と癸眞の縁によるものが大きくてな。密接とまではいかなかった。変わった匂いを其方が纏っていたのもそれ故だろうと思われる。」

「ううん……じゃあ、鬼が消滅するのは?」

「『咬み痕』は本来、鬼との縁が繋がった証なのだ。だがそこに、別の鬼が縁を結ぼうとすると縁が拒絶反応を起こす。特に証をつけた鬼より特別弱い鬼が手を出した場合、手を出した鬼は拒絶反応に耐えきれず消えるという具合だ。つまりはそうさな、同じ鬼に喰われるという事象であれば、魂を喰われない限り人間は鬼に喰われても問題ないことになるな。さぁ、着いた。」


 些か縁の概念がよくわからない直之だったが、目の前が開けたと同時にその疑問が掻き消えた。森を楕円に切り取ったような広い芝生の地。岩が鎮座するその前に、巨木のように大きな、青い……。


「移り変わる速度を早め続けているこの現代、人々は世の安寧、その護りを求めている。天はその柱として、癸眞の復活を望んだ。これより癸眞は、取り戻した力で定められし指名を全うすべく、世を渡り歩くこととなるだろう。」

「つまり……ここで、お別れ……?」

「それは其方らが決めることだ。どうにも、かの鬼神はただ一人の生にご執心のようだからな。」

「へ?」

「其方が此処にいられる時間は残り少ない。言い残すことのないように。」


 とん、と背を突かれ、直之はたたらを踏む。姉に似た笑顔をするロクに、戸惑いつつも直之は、岩の前まで向かった。


「……シン。」


 青い巨体が振り向く。厳しい面構え、低い鼻に歪んだ口。青い二つの角と、吊り上がった目が、青い光を帯びている。


『……よく我と分かったな。』

「うん、なんか、びびっと来た。」

『醜かろう、我は。』

「そうかな。俺は好きだよ、その姿でも。」


 癸眞が伸ばしてきた岩のような手に、その冷たい指に直之は擦り寄る。見上げるその目は、見るものによっては震え上がるのだろうが、直之は寧ろ、ほっとしていた。最初に出会った時と変わらない、癸眞の眼差し。


 俺を見てくれてる、その目。


「なぁシン、今でも、俺のこと……」

『……ああ。喰らいたいと思う。腹に収めてしまいたいほどに御前が愛い。』

「えへへ……俺も。シンにならいくらでも喰われたい。」

『……これほど情け無い我でもか。』

「情けなくなんかない。シンはかっけぇよ。また会いたいって思うくらい……また会える、だろ?」

『時がかかるが、また。』

「……会いに、来てくれる?」

『必ずや。』

「ん……わかった。」


 その目の奥を覗き込むように見ながら。青い指先を抱きしめて、直之は言った。


「シン、俺のこと見つけてくれて、喰ってくれて、ありがとう。」


 細まる青。二度瞬いたその目をいつまでも見ていたいと思っていれば、後ろから呼びかける声が。


「時間だ。人間、行くぞ。」

「……じゃあね、シン。」

『……直殿、』

「ん?」

『……次会う時は、骨の髄まで御前を愛そう。』


 自然と溢れる、笑み。シンがここまで言ってくれてる。待ってなきゃ。シンがまた、俺に会いに来るまで。


「うん、待ってる。」


 眩い光が周囲を包む。ひんやりとした感触を最後に、直之は目を閉じた。




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