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十七話:咬み痕

 鬼、癸眞は、すぐに動くことができなかった。目前で行われた行為を、現実として受け止めることができないあまりに。


「んん……っはぁ……なんて上質な血……控えめな匂いにしては濃く、それでいてすっきりとした味わいなんて、何百と喰ってきましたがこれほどのものは初めてです……そしてたまらなくイイ声でしたね、期待以上ですよ……」

「っ、ぁ、っ、いっ」

「嗚呼、痛みで震えが止まらないんでしょう? 可愛い……でももう少し耐えてくださいね。」

「な、にし、」


 直之を仰向けにした百は、鋭い爪で直之の服を引き裂く。その爪の先が胸元に触れようとするのが見えて、癸眞は地を蹴り叫んだ。


「百貴様ァ!」


 だが癸眞と百の間に牢舌が割り込む。横振りの刺又を金棒で受ける牢舌は、愉快そうに口端を上げた。


「よそ見されちゃあ困るなぁ、癸眞様? 先に俺の相手してくれよ。」

「そこを退け牢舌!」

「おいおいさっきは褒めてくれたじゃねぇか。もう少しやり合おうぜ。」

「喧しいっ、貴様の相手などしている暇は」


 途切れ途切れの絶叫が、牢舌の背後から響いて。癸眞が刺又に込める力を強めるが牢舌も同等の力で押し返す。金属部が擦れる、二鬼の足元にひびが入る。

 埒が明かないと悟った癸眞は僅かに牢舌の力を横へ流した。体勢を崩した相手への回し蹴り。その足を牢舌は器用に金棒で防ぐ。下手に腕で受け止めれば骨が折れることはわかっていた。続けて蹴りを数発入れる癸眞を牢舌は躱しながら、真っ向目がけ拳を振るった、が、癸眞は難なく避けこちらからも拳を。


「っ」


 避けられたが、それを見越していた癸眞が刺又を突く。先端の又は牢舌の腹を捉え、牢舌は腹に押し込まれた刺又から逃げられないまま横に放り投げられた。


「がっ、は――なんてな。」


 体が地面に落ちる前に落下地に四角い膜を張り、その箇所を足場に蹴り飛ばした牢舌が癸眞の方へ飛び込む。その動きは予測していなかった癸眞だったが、素早く刺又を振って牢舌の持つ金棒を払い飛ばし、隙のできた横腹に張り上げる声と共に鋭い蹴りを入れた。


「なっ――」


 ごき、と鳴る音。ストレートに入った一撃により、牢舌の動きが止まる。膝が地に崩れ、片手をつく。勝敗は、決した。


「っ、は、くそ、いっ、てぇ……っは、まち、やがれ!」

「離さぬか! 貴様はもう動けぬ、自身の未熟さを痛感したろう、疾く諦めよ!」

「ハッ、やな、こった、まだ俺は生きてる、最期までやれや! 生温い!」

「貴様――」


 刹那、ごうっと何かが燃え上がる音がした。癸眞が牢舌と共にそちらを見やれば、そこでは百が、目の覚めるような青い炎に包まれていた。


「なんですかこれは……熱くない、何やら気分が良い……嗚呼、なるほど、某は神になる未来を引き当てたのですね!」


 その声に呼応するかのように、炎の先から金色の粒子が舞う。その光景は消滅するようにも餓鬼に変貌するようにも見えない。まさか、本当に神になるなんてことが。それより、直殿は。


 癸眞のいる場所から見えるのは血溜まりの中横たわっている直之、その身体が動いているように見えず、癸眞は血の気が引きながらも駆け寄ろうとした。しかしその前に、百を包む炎の勢いが強まった。金の粒子が百の周りを囲うように円を描く。百は喜び露わに笑っていた。だが。


「なんだか涼しいですね、炎であるのにこれまた不思議な……いや、これは少し寒い……冷た……う、あ……ぁ……ひ、ぃ……」


 百の様子がおかしくなる。体を両腕で抱え体を小刻みに揺らしていて。すると金の粒子が百の首元に集まる。百が首を引っ掻く様は苦しみもがいているような。徐々に発光を強める金の輪は百を締め上げているようにも見える。


「っ、が、な、っぁ、っっ、あがっ……」


 がくついていた百が地面に倒れる。炎の青が深くなり、冷気が空気を伝染して癸眞らの方まで届く。寒い。息が白くなるほど気温が低くなっていて。炎の勢いが弱まっていき、ふっと炎が掻き消え温度が戻る。後に残されたのは、動かない百。見える肌は重度の凍傷のような紫色になっていて。


「っおい百!」


 体を引きずりながら百の元へ向かった牢舌が空間を裂き、百の体を抱え裂け目の中へ飛び込むのを横目に、癸眞は直之に駆け寄った。だが、血溜まりの中のその身を見て、自身のあまりの無力さに、瞬きすらできなかった。


 直之は、既に虫の息だった。至る所から血が流れ出ている。食い散らかされた肉は骨が見えていて、腑が、覗いていて。息があるだけ奇跡。それほど、惨たらしい姿。寧ろ、眠らせてやった方がいいのではないかと思うほどで。


 癸眞が側に膝をついても、動かない直之に癸眞は言葉も発せなかった。それでも存在を、どうしても確認したいばかりに、その名を。


「……直殿。」

「……し、ん?」


 枯れた返事が聞こえ、まさか返ってくるとは思っていなかった癸眞がなんと言って良いか分からないでいると、直之が呟くような声で言った。


「わりぃ……さっきから、暗くて、よく、見えねぇの……」

「……我はここにいる。直殿。今ここには我と直殿しかいない。」

「そ、か……」


 癸眞が直之の血塗れの手を包めば、直之の手が癸眞の指を掴もうとするように小さく動く。その仕草があまりに、痛々しくて。


「やっぱ、シン、癸眞、だったんだな、」

「……何が癸眞だ。直殿一人守れず。」

「俺を見つけて、くれた、だけで、十分だよ……けど……シンに、喰われた証、なくなっちゃった……」

「……そんなことを気にしておるのか。」

「だって、俺が生きてた、意味だ、シンが俺に、意味をくれた、俺を、認めてくれた、その、証、だったのに……」


 証。少し考えた癸眞は、行き着いた思考があまりにもすとんと胸に落ちてきた。自身で驚きつつも、何やら、それが至極当然のことのような気もして。癸眞は思ったままを、口にした。


「……では、もう一度その証をつければ良いのか。」

「……え?」


 腹を満たすためでもない、飢えを凌ぐためのものでもない、ただ、純粋に、


「直殿、我は今、直殿を喰いたい。」


 直之の口元に微笑が浮かぶ。へへ、と喉奥で笑う音がして、直之が甘えるように言った。


「いいの? 消えちゃう、かもよ、」

「構わぬ。直殿と消えられるならそれも良かろう。」

「餓鬼に、なっちゃうかも、」

「直殿を喰らうこと以上の喜びなど何処にもないわ。」

「さっきの鬼みたいに、なったら、」

「であればそれまで。我は直殿を喰いたい。直殿でなければならぬのだ。直殿はどうか。」

「そんなの……シンに、喰われたい、に、決まってる、」


 癸眞が血に濡れた直之の青白い腕を持ち上げ、変色しかけている血を舐めると、「……喰って。」と強請ってくるものだから。口を開き、咬みつけば腕がびくりと震える。口腔に広がるは甘みある生の香り。咬みちぎった肉を咀嚼して、舌の上で味わって、濃厚で滑らかな舌触りをもったいないばかりに何度かに分けて飲み込む。その余韻を残した、柔らかく爽やかな後味も相まって……大変、美味。感動と喜びと、愛おしさのあまり溜息をついてしまう。思わず、身震いして。


「っ、は……美味い……?」

「ああ……すこぶる美味い。」

「よかっ、た……」


 微かな声を最後に、何も聞こえなくなる。何も。何も。息の音、すらも。


 嗚呼。


 癸眞の頬に、一筋、雫が伝って。




 鬼は躊躇いなくその身に喰いついた。骨の髄まで、喰らい尽くすほどに。




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