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十六話:狂鬼

「みぃつけた」


 その声を聞くや否や、直之は走り出そうとした。だが襟首を掴まれ勢いよくうつ伏せに押し倒される。背中に乗り上げてくる少女、百はその小柄な見た目に反し石像かと思うほど重く、直之は肺の中の空気を吐き出した。


「っかは」

「嗚呼、嗚呼……良い匂い、神気のように透明で、若葉のように柔らかな、甘い甘ぁい肉の匂い……やはり、シン様が独り占めにしたくなるのもわかります……ですがシン様は何故すぐに喰わなかったのでしょう、喰らうのが勿体なかった? 『咬み痕』があるから? それとも……それとも……? 嗚呼もしそうだったら……腹立たしい、腹立たしい! 屑人のくせにシン様の情をこれほどまでに注がれる身になるとは……なぁ人間、一体何をした? シン様にあそこまで怒りを覚えさせる存在にどうやってなった? 答えろ。」


 ざく、と左腕に刺さる斧の刃。ぎりぎりと骨まで削っているのがわかる激痛に声を出すのもままならない。だが素直な性格は健在で、直之はもがきつつも声を絞り出した。


「な、なにも、してな、ぃ」

「何も……? じゃあなんですか、貴様には某にないものがあるとでも言うのですか。そんなことあるわけが……そんなことあるわけが! シン様はあの日某に微笑みかけてくださった、あの日シン様の過去を慰めたのは某! 貴様如きがシン様の過去の苦痛を解るわけがない!」

「……か、こ……?」


 気になる言葉に直之は動きを止める。百はそれを快く受け取ったらしくにんまりと笑った。


「おや? やはり知らない? 知らないのですね? シン様は貴様に話していない! くふふ、ええ、ええ、そうでしょうとも、解るわけがないのです、一屑人などに、シン様の痛みなど。愛していた村の民達をシン様ご自身が、一夜にして喰らい尽くしてしまったその痛みなど!」

「くらい、つくし……」

「しかし……並行世界に連れ込まず殺し尽くしてしまったというのに、何故シン様は餓鬼に堕ちなかったのか……まぁ、そこは鬼の誰よりも気高いシン様のこと、天罰を免れたのでしょうが――」


 殺し尽くした、堕ちる、天罰。直之は、シンから聞いた話を思い出した。そのままで人を喰らうと天罰が下る、だから食人鬼は並行世界に獲物を連れ込み、『辻褄合わせ』のサイクルを利用して腹を満たしていた。でも今の話だと、シンはそのまま人を喰らった、しかし天罰が下っていない――いや、違う、


 天罰は下ったんだ、神様だったシンが食人鬼に堕ちるという天罰が。


 けど……シンは辛うじて神様だった時がある、辛うじて……? 神様じゃないものになりかけていたってこと……? そこで蘇るは夜聞かされた昔話、鬼神が人々に忌まれ『邪鬼』と呼ばれるようになる話。そしてもう一つ。


 鬼とは総じて、信仰を強さの糧に変える存在。


 もし、神様が鬼として信じられるようになったことで、神様が鬼そのものになることがあるのなら。もしシンが、鬼として扱われるようになったことで鬼のようになってしまい、人々を喰らってしまった結果食人鬼となったのなら――


 シンが、あの鬼神、『癸眞』なのなら。


「いえ、そんなことはいいのです。一番の問題が解決していません。何故シン様は貴様のような屑人を大事に大事にしているのか。腹立たしい、嗚呼苛々する。やはり貴様には何かあると考えるべきですね。そういうことなら……ええ、喰ってしまえばいい。」

「……え」

「そうすれば某が貴様を取り込めるでしょう、某にないものを持つ貴様を某が取り込めば、きっと某に足りないものが埋まるはず、ええ、ええきっと……くくっ、ふふふ、そう! そうすれば! シン様は某を見てくれる! シン様がその手で、某に触れてくれる! きゃーっ!」


 ……狂ってる。直之の感想は、そのまま口から出た。頬を染めながらにこにこしていた百は、その声を耳にして口を一旦閉じると、うっそりと笑った。


「狂ってる? はい、某は狂っています。牢舌様からは狂い鬼の意を込めてよく『狂鬼』と呼ばれたものです。嗚呼、呼び名すら狂気じみていて良いですねぇ……そしてこの時が何よりも楽しい。か弱い獲物を抑え込み、この百の在り方を狂ってると感じられながら、獲物の躰を生きたまま喰い荒らし長い長い断末魔の叫びを聞く! ……想像するだけで、嗚呼、骨の髄まで震えてしまいます……」


 直之の上で体を抱え込み震える百の表情は、とてもじゃないが少女とは言い難いほど妖艶に蕩けている。少女の姿をして、狂気に自ら身を任せることを快楽とする、化物。直之はこの世の何よりも恐ろしいものを見ているような気になって、なんとしてでもこいつから逃げなければと足掻いた。だが重過ぎる百はびくともせず、いとも簡単に直之の背中からうなじにかけてが撫で上げられた。


「くくっ……さて、どこから喰ってやりましょうか。足? 腕? 腹……目玉もいいですね、しかし……そうですね、ここにしましょうか、ここ、この首筋の『咬み痕』……某より前に貴様を喰った鬼の一口目でしょう? 苛々しますね、そいつは某より先にシン様からの視線を享受できるようになったわけですか……嗚呼苛々します。ええ、ここからにしましょう。手始めにこの痕を咬みちぎってやりましょう。」


 直之は今までにないほどの焦燥と拒絶を全身で覚えた。俺の首筋にある『咬み痕』、シンに喰われた証、それが消される、嫌だ、それだけは嫌だ、絶対にいやだ。


「運が悪ければ、消滅、餓鬼への堕落、ですが、貴様の匂いはかなり特殊、もしかしたら貴様は、喰えば神になれる可能性の高い獲物なのかもしれない……狂っている某が神になる……ふふふ、それはいい響きですねぇ……」


 逃げろ、逃げなければ、早く。地面を這おうと必死に手足を動かすがミリも動かない。シンの方へ声を上げようとするも息がうまく吸い込めず叫べない。まずい、まずい――喰われる。


「さぁ、身の程知らずの屑人、喰われるために生まれてきたような匂いを漂わせる、貴様の肉……ゆっくりと咬み殺してあげましょう。血も髄液も全て飲み込んであげますから、イイ声、聞かせてくださいね?」

「やめ、や、め、やめっ――」


 肌を突き破る牙の感触。深々と食い込み、血が噴き出し、肉が剥がされる、血管が、神経が、千切れる。


 真っ白な視界、真っ白な頭で、喉が張り裂けそうなほどの声が自分のものだと知る。遠くで、ごく、と飲み込む音がした。


「っん……くくっ、ふふふ、あははははははははははは」




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