十三話:姉
『直、ご飯できたってさ! 早く食べよ!』
人は、相手のことを声から忘れていくという。言われたことは想起できても、その声音を再生することは、できなくなっていくのだと。無慈悲なまでに失われていく記憶は、取り戻すことは不可能で。
『わっ直見て! カブトムシ! カメラカメラ!」
最後まで残るのは、匂い。相手と過ごした日々の中で嗅いだ匂いは、忘れたくても忘れられないほど記憶に刻み込まれるらしい。巷でよく聞く元恋人の香水の匂いが忘れられないというのは、そういうことらしいが。
『ナーオ、えへへ。呼んでみただけー。』
もう二十年以上も前の記憶。既に直之は、匂いすら、思い出せなくなっている。
公園を出て、行きの道を戻り駅前まで向かう道中。蝉の鳴く声を聴きながら、直之は伸びをして言った。
「あー腹減った! シン、どっか店入ろうぜ。」
「ああ。何を食いたいのだ。」
「んー、なんか安くてうまいもんって感じだから、ハンバーガーショップとか?」
「であれば、確か向こうの角にあったろう――」
鬼の指差す方へ歩きながら、直之は遠い記憶の中とは大きく変わってしまった街並みを目に映していた。見たことのないブティックがある、昔通い詰めた駄菓子屋がなくなっている、車道だけだった道に広い歩道ができている。家族で過ごした家を一目見たい思いから、就職前に訪れ元我が家がなくなっていることを知った時以上に、街は様変わりしていて。
直之は無意識に鬼を見た。鬼は千年以上生きているらしい。五十年や百年そこらじゃない、千年。途方もないほど長い月日で想像もつかないが、きっとその日々の中で、多くを目にしたはず、多くの出会いと、別れがあったはず。
シンは、思い出せるのかな。思い出したい記憶を。
繁盛しているらしい客の多い店内に入り、注文した品ができるのを待つ間、直之は徐に切り出した。
「シン、人間ってさ、思い出を、音とか声から忘れていくんだって。俺はもう、声どころか姉ちゃんとの思い出も思い出せなくなっちゃってるくらい忘れちゃってんだけどさ、シンはどうなの? 思い出したいもん思い出せる?」
鬼は直之を一瞥した後、視線を下げた。先程店員が置いていった水を一口飲んで、神妙そうに。
「……わからぬな。思い出したい、と思ったことがない。思い出そうと思えばできぬこともないのだろうが。」
「へぇ。じゃあシンはさ、思い入れがある相手とか、覚えておきたい出来事とか、特にないの?」
直之の問いに、鬼はしばらく思考に沈んだ。特別そう思った瞬間がないとは言い切れないが、そこまで記憶に思いを馳せることをしないため、答えに悩む。だが少し、思う相手はいる。
「……一人、いないことはない。」
「お、誰誰?」
「……なんとも妙な奴だった。周りが我を忌む中で、彼奴だけは我を信じた。死を目の前にしながら、それでも我に祈りを捧げる、思うたことは何があろうと曲げぬ奴だった。」
「それ……シンが神様だった時のこと?」
「そうだな。……辛うじて、と言うのが正しいだろうが。」
「辛うじて? それって――」
直之が続きを言おうとしたところで、店員が番号を呼ぶ声が聞こえてくる。直之が手元のレシートを見れば、書いてある番号と同じで。
「あ、俺取りに行ってくる。」
「ああ。」
店員のいるカウンターへ直之が向かえば、他の客が注文の品の受け取りをしていたためにその後ろへ並ぶ。鬼の言っていた内容を反芻して、直之は少し懐かしい思いに浸っていた。直之の姉も、一度決めたら絶対に曲げない人間であったからだ。
『直、見ててよ、あたし、絶対すごいことやってみせるから!』
その言葉は、直之が物心ついた時から聞いていた。事あるごとに目を輝かせてはそう宣言する姉に、幼い直之はよくわからないなりに応援していた。何故なら何をするのか聞いてみても、内緒と言われるだけだったからだ。ただ、一度だけ答えてくれたことがあって。
『それいっつも言ってるけどさ、どんなことすんの?』
『ふっふっふ、それはねぇ――』
楽しそうに笑いながら、得意げに、自分にできないことはないと言わんばかりの口調で……。
あの時、姉ちゃんはなんて言ったんだっけ。
その言葉を思い出そうとしていた直之は、周囲の歪みと後ろに立った存在に気づくことができなかった。
「直殿、」
「……ん、あれ? シンもこっち来っんぐ」
振り向いた刹那。見えたのは二つの赤い光、周囲の音が消え入り、口を塞がれ身を拘束される。シンじゃない、と気づくが早いか、直之の耳元で、低く唸るような声が。
「相当懐いてたんだな……声真似だけでこんな簡単に騙せるたぁ楽なもんだ……」
「っ、ふ、んん!?」
「やべ、アイツもう気づきやがった、一旦移動だ、百。」
「はいはい。」
鋭い爪が宙に裂け目を入れる。もがこうとするも何故か体が動かない直之は、暗い裂け目の中へと連れ込まれて。
「――直殿!」
「っ、ぃ、シンっ――」
遠くから呼ばれる声が聞こえ、喉をこじ開けるようにしてなんとか応える。だが出てきたのは掠れ声、その上殴られたような衝撃と共に意識が遠のいて。力の入らなくなるそのままに、直之は気を失った。




