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第8話 消えた声

逃げなさい。

その一行を、鋼二は三回読んだ。

それ以上でも、以下でもない。

冴子らしい、無駄のない言葉だ。

だが——

冴子が「逃げろ」と言う時は、もう遅い時だ。

あの女が知っている。

鋼二はコートを掴み、部屋を出た。

霞ヶ関までタクシーで十八分。

桐島事務所のビルの前に立つ。

外観は、変わらない。

だが——

一階のコンビニの店員が、外を気にしている。

向かいのビルの窓が、一枚だけ開いている。

路駐の車が、一台。

エンジンが、かすかにかかったままだ。

「……囲まれてるか」

通りすぎるふりをして、路地に入る。

ビルの裏に回る。

非常階段を上る。

五階。

窓から中を確認する。

電気がついている。

だが——

部屋の中が、荒れていた。

書類が散乱している。

ホワイトボードが倒れている。

コーヒーカップが、床で割れている。

冴子はいない。

鋼二は窓から入る。

音を立てない。

床のガラスを避けながら、部屋を見渡す。

争った痕だ。

だが、血はない。

「連れて行かれたか」

机の上を確認する。

書類は荒らされている。

だが——一つだけ、引き出しが閉まったままだ。

開ける。

中に、小さな封筒があった。

表に、一言書いてある。

北条へ

路地に出てから、封筒を開けた。

中には、USBメモリが一本。

そして、メモが一枚。

走り書きだ。

急いで書いたことが分かる。

九条の資金源を掴んだ。財界の会合の三日前から動いていた。

三島は九条に弱みを握られている。逆ではない。

九条が本当に仕えているのは——組織ではなく、一人の人間だ。

名前は、USBの中に。

私のことは、構わなくていい。

でも——

そこで、文字が乱れていた。

あなたは、生きなさい。

鋼二は、メモを畳んだ。

静かに。

丁寧に。

コートの内ポケットに仕舞う。

「……余計なことを言う女だ」

低く呟く。

だが、声が——わずかに掠れた。

近くの漫画喫茶に入った。

個室のPCにUSBを挿す。

ファイルは一つだけ。

開く。

名前が、あった。

御堂隆三

鋼二は、画面を見つめる。

知っている名前だった。

財界人ではない。

官僚でもない。

政治家でもない。

民間軍事会社「アーク」代表。

表向きは、海外のリスク管理コンサルタントだ。

だが——

「アーク」は知っている。

砂漠の任務で、一度だけその名前を聞いた。

武装勢力への資金提供に、民間の迂回ルートが使われていたという話だ。

与田の背後に——その影があったという話だ。

つまり。

与田は駒だった。

九条は、その駒を動かす手だった。

だが——九条自身も、駒だった。

御堂隆三が——王だ。

「そういうことか」

画面を閉じる。

USBを抜く。

頭の中で、全てが一本の線に繋がった。

砂漠。

取引。

与田。

九条。

三島。

冴子。

そして——御堂。

最初から、全部——一つの絵だった。

漫画喫茶を出る。

夜の街に溶ける。

歩きながら、考える。

冴子は生きている。

死なせる理由が、向こうにはない。

口を封じるためなら、もっと早く動いていたはずだ。

だとすれば——人質か。

鋼二への、牽制か。

「分かりやすい手だ」

だが、効いている。

否定できない。

足を止める。

コンビニのガラスに、自分の顔が映る。

選択肢は、二つだ。

逃げる。

冴子を見捨てて、全てを消して、どこか遠くで生きる。

それができる人間なら——最初から、この道には来ていない。

もう一つ。

御堂まで、辿り着く。

九条を使う。

三島を使う。

使えるものは全部使って——最上段まで登る。

答えは、最初から一つだ。

鋼二は歩き出す。

携帯を取り出す。

九条の番号に、電話をかける。

三コール。

出た。

「早いな」

「冴子を返せ」

沈黙。

「条件は」

「御堂に会わせろ」

長い、沈黙だった。

十秒。

二十秒。

やがて——

「……度胸だけは、本物だな」

九条の声に、初めて——わずかな熱があった。

「三日後。場所は追って連絡する」

「冴子は」

「生きている。それだけは保証しよう」

通話が切れた。

鋼二は携帯を仕舞い、空を見上げた。

雲の切れ間に、星が一つ見えた。

御堂隆三。

民間軍事会社の代表。

砂漠の取引の黒幕。

九条を動かす、本当の王。

三日後。

全部、決着をつける。

煙草に火をつける。

今度は、一発で点いた。

煙を吐く。

「待ってろ」

誰に言うでもなく、呟く。

夜が、深くなっていく。


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