Ave Maria (わたしたち罪びとのために)
面会謝絶のがかかった病室の前で、秋生は立ち尽くしていた。
病室の横の椅子には、姉さんたちがしょんぼりと座っていた。
秋生とさっきまで一緒にいた、男はナーススティーションで年配のナースと話していた。
ほんの1日前まで、秋生の腕の中にいた、真理愛が今はドアを隔てた病室にいて、意識がないという。
冗談だないと、秋生は叫びたかった。
なぜ、なんだなぜ過酷な運命を真理愛は背負わなければならないのかという理不尽さが、体の奥底から湧き上がってきた。
「真理愛の彼氏だろ、ここに座り」
とお姉さんの一人が、秋生に手招きをした。
秋生は促されるままに、お姉さんの横に座った。
「真理愛は少し前化に調子が悪かったんだけど、あんたに会うときはとても元気だったから、私たちも気づかなかったんだ、こめんね。無理してたんだね。」
秋生は無言だった。自分こそ築いてやれなかった。
ただ、真理愛に会えるだけでよかった。
それだけだったから、舞い上がっていた。
もっと、真理愛のことをよく見ていれば気づけたはずだ。
秋生は膝の上のこぶしを握り締めた。
お姉さんはそっと秋生のこぶしに手を置いた。
「恋しい人に会えることは、女にとって何ものにも変わらないんだよ、未通女でもそうでなくとも思いは同じなのさ。私らにとって、信じたいものなのさ。愛しい人のことは。」
秋生は下を向いた目から涙があふれてくるのが分かった。
夜の姫たちは、自分の母親もそうだったように、人の悲しみに寄り添って生きてきた人たちだ。
そうしなければ、生きていけない人たちだ。
なぜなら、最古の女性の職業は買春といわれている。
ヨハネによる福音書の中に、イエスを陥れようとしていた人たちが、姦淫を犯した女性をイエスの前に連れてきて石打の刑にするべきだと言ったときに、イエスは"あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい"といい、その女性を許した。
それと同じように、罪深い女とされたマグダラのマリアの罪を許した。
真理愛がいつも言っていた。
そして、真理愛は教会の礼拝堂で十字架とメダイを握り締めながら
"天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン"
とささやくような声で真剣に主の祈りを唱えていた。
きっと、罪深い行いだとしても、人が生きていくために必要なこともあっるのだと。
秋生はキリスト教徒ではないが、教会で祈る真理愛を見て、神々しさを感じていた。
人が神に祈るとは、自分の弱さすらさらけ出すことで、そこから生きていくことが大事なことを意味している。
「でも、あたいは、耶蘇の神さまになぜ、真理愛なのといいたい。あんないい子が、こんなことに・・・」
とお姉さんは泣いていた。
「山口さん」
とさっきの男に向かっていった。
山口と呼ばれた男は、
「もう、みんなも帰りな。今日は台風で停電してるから店は明日からにする。臨時休業だ」
といった。
きっと、朝早くから真理愛の傍にいたのだろう。
安堵したのか、山口に頭を下げてエレベーターに向かって歩いて行った。
山口は秋生の横に腰を下ろすと、ハンカチをだした。
「男が泣くんじゃない」
といった。
秋生はハンカチを受け取ると涙をぬぐった。
「前から、体調は悪いことがあってな、病院にいけとは言っていたんだ。だが、もう少しで店の借金も終わるからといって、余計に働きやがって。今思えば、秋生と出会ったからだ。毎日楽しそうにとていたのは、これを振って喜んでたぞ」
と秋生の目の前に鈴がついたポケベルを差し出した。
秋生はポケベルを受け取った。
鈴の音色がとても寂しく感じた。
「今朝だ、部屋で血を吐いて倒れている真理愛を見つけて、病院へ運んだ。」
山口の口調はとても静かだった。
たぶん、秋生が知りたいことを全部知っている口ぶりだった。
「真理愛は、大丈夫なんですよね」
と秋生は語尾に力を込めた。
山口は答えなかった。
「今は、意識がないため、人口呼吸器をしている。」
と淡々と山口は語った。
「意識は戻るんですよね」
と秋生は声を荒げた。
すると近くにいた、見舞いの人たちや入院患者が秋生を見た。
「ふう・・・・」
と山口はため息を吐いた、とても深いため息だった。
「俺は医者じゃない。そんなことはわからん。だが、親族を呼んでくれとは言われた。今夜が峠らしい。」
と絞り出すように言い、うなだれた。
秋生は何も言えなかった。
初めて、身近に人の死に直面していた。
それも、初めて愛した人の死に直面していた。
膝の上の固く握ったこぶしが震えだし、呼吸が早くなった。
山口が秋生の肩に手をまわした。
「神様は、ここにはいないのかって、言いたい。」
と山口は怒りがこもった声で言った。
「なんで、真理愛なんだ。あの子が何をしたというんだ。好きな男を見つけてキラキラと輝いていた、普通の娘だ。」
と山口は言いながら、秋生の肩を強く揺さぶった。
秋生はもう、何も聞こえなかった。
耳の奥で、山口の嗚咽がかすかに聞こえたが、頭が真っ白になって胃が何かにつかまれる気がした。思わず、口に手を当てたが、胃液が喉奥から上がってきて苦く感じた。
秋生は立ち上がると、トイレの洗面台の前で吐しゃした。
黄色い胃液が、だらたらと口から洩れた。
口を漱ぐと、すぐにまた吐き気がした。
なんども秋生は吐き続けた。
水道の蛇口から勢いよく水が流れて吐しゃ物を押し流した。
もう吐くものがなくなったのか、胃が重く感じた。
病室の前に戻ると
「だいじょうぶか」
と山口が声をかけてきた。
秋生は、ベンチに腰かけて
呆然とした目で天井を眺めた。
「昨日まで一緒だったんですよ。真理愛は笑っていた。この手で触れていたんですよ。うそでしょう。もう目を覚まさないなんて。テレビの悲劇のヒロインじゃないんだ。そんなことはありえない。明日も、真理愛に会えるんだ」
と秋生はかすれた声で絞り出すようにいった。
山口は秋生の背中をポンポンとたたいた。
「俺は、奇跡っては信じない。起きないから奇跡っていうんだそうだ。だから奇跡なんてない。」
山口はかみしめるように言った。
「だけれども、信じたい真理愛が、元気になることを」
山口は立ち上がって、天井を仰いだ。
病室からけたたましいアラーム音が響き、廊下をナースと医師が、真理愛の病室まで早歩きできた。
秋生は、うつろな目で、病室にはいっいてく、医師とナースの姿を見ていた。
もう、なにも考えたくなかった。
真理愛のいない明日なんて・・・・




