惨劇
熱い夏の日差しと、見慣れた市街地。
逃げ惑う人々の荒波。
行きかう怒号……悲鳴。
「母さん! 母さん‼」
とある声が、サイレンの音にさらわれて。
誰一人、その子に目を向けることなく、一心不乱に走っていた。
子供は戸惑い、それでも倒れている母の手を放しはしない。
母は頭から血を流しており、人に押され転倒したために、意識を回復できないでいた。
「母さん! 母さん⁉」
なんとか引きずろうにも、九歳の力ではどうしようもできなかった。
やがて泣きじゃくりながら、誰かに助けを求めようと視線を動かしていた矢先。
「父さん……!」
見慣れたスーツ姿の背を見つけた。
父はこちらに気づいてはいない。
その子は精いっぱいの声を張り上げた。
「父さん! 父さああああーーーーん‼」
父は微かに肩を吊り上げる。
そして静かにこちらに振り返り、ようやく自分の子の姿を見つけたのだ。
「父さん……!」
母を助けられる。その一心で喉を干上がらせて、微かな希望を込めて。
しかし父の顔は、何故か躊躇いを交えていた。
「父さん?」
恐怖に蝕まれ、父は目を伏せて……。
あろうことか背を向けて走り出してしまう。
「なん、で」
子供ながらに頭で理解できなかった。
ただ漠然と、そこに立ちつくして、少年に運命の瞬間が迫った。
風が後方へと飲み込まれるように吹き荒れ――振り返ると、無限の闇が迫っていた。
◇◇◇
「っあああああ⁉」
嫌な汗を滲ませながら、目覚める援。
やがてそれが、未だに払拭しきれぬ悪夢だと気づくのに、一分もの時間を浪費した。
「どうして、今になって」
妙な緊張を交えつつ、スマホを見る。
時刻は深夜三時。
すっかり冴えてしまった頭を冷やすためにも、援は自分の部屋を出た。
洗面所で顔を洗い、目前の鏡に映る自身に対面する。
「アレ?」
違和感に気づいた。
黒蝕病で患った右目を中心に、赤い血管が皮膚から浮き出ていた。
「なんだ?」
洗面所から出て、玄関に繋がる廊下に出る。
「何か、居る?」
まるで本能が、警告しているようで……。
ズシン!
外から、質量のある物が一つ、落ちたような物音。
玄関の、扉を跨いだすぐ先からだった。
援は神経を強張らせ、ゆっくり玄関口に歩み寄る。
ドアの新聞受け隙間から漏れる、蛍光灯の光を遮り、何かが足を止めていた。
「ああ~しまった。せっかくのヒック! 貰ったお酒があ」
お隣に住む男性の声だった。
ガチャガチャと音を鳴らして何かを運んでいる。どうやらさっきの物音は、酒瓶でも落としてしまったのだろう。
足音が通り過ぎ、援はほっと胸を撫でおろして。
『ぐらああがああああああああああああああああああああああああああ‼』
鼓膜を一瞬にして支配する、何かの怒号。
後方にある居間の窓ガラスが粉々に砕け散り、巨大な『何か』が自身の住居に侵入した。
「お、お前、は⁉」
心臓を鷲掴みされたような恐怖。
同時に援の脳裏には、とある存在を想起させた。
夕方のテレビ番組。
狼に酷似した怪物。
右目を赤く濁らせた、驚異の生命体を。
「なんでアッシュがこんな街中に⁉」
援に考えている暇はない。
その場に留まれば襲われると、ドアの取っ手を反射的に掴みかけるが――。
狼アッシュは、鼻を引く付かせて援から視線を逸らす。
嫌な予感が過った。
それを必死に回避しようと、玄関口にあった消火器を取り、壁に打ち付ける。
「おい‼ こっちだぞ、こっち‼」
狼アッシュは再び視線を援へと戻した。
追いかけっこでもなんでも付き合ってやるつもりで、覚悟を決める援。
しかし狼アッシュの興味は削がれることなく、隣の襖を破り、母親の元へと直進した。
「ちくしょうなんで⁉」
援も一目散に駆けつける。
狼アッシュのデカい背中が、母親の布団の前でうずくまっていた。
匂いを嗅ぎ、そして母の頭を鷲掴みに持ち上げる。
その左腕、左足の太もも部分の黒く変色した皮膚が布団から晒された。
援が近寄ろうとすると、狼アッシュは母を自分の所有物のように、敵対心をむき出しにする。
「母さんを放せ‼」
援は狼アッシュへ向けて、消火器を振りかざした。
「放せってんだよ、この野郎‼」
母を鷲掴みにしている手元へ、思い切り振り下ろす。
しかし狼アッシュは動じない。
二度、三度、同じ場所に振り下ろしても、首を傾げるだけである。
やがてバキリ! と、追い打ちを掛けるように取っ手が破損。援から戦意が鈍ったその時。
狼アッシュの爪が、援の脇腹を捉えた。
援の身は簡単に薙ぎ払われる。
「ぐぶっっ…………っ⁉」
悲鳴が喉奥へ引っ込んだ。
隣にある押し入れの襖を破り、中へと勢いよく突っ込んでしまう。
全身が痺れて、力が入らない。援は動けないまま、鈍い視界で必死に母親を見据える。
そこで自分の脅威が、妙な行動を始めた。
狼アッシュは、自分の胴体に爪を立てる。
爪が徐々に皮膚へと飲まれ、赤い血脈が胸の中心から広がっていた。
そうやって狼アッシュは、力一杯に、自身の身体を引き裂いたのだ。
パカリと、胴体の皮膚が左右に別れ、中に広がるは黒い空洞。
臓器に当たる部位が全く見受けられない。どこまでも続きそうな真っ黒の空間に、狼アッシュはおもむろに手を突っ込み、そして“何か”を引きずり出した。
青白く、生気の通わない――それは『人間』だった。
まるで使い捨てるように床に落とし、狼アッシュは自身の胴体へ母を持ち上げる。
黒い空洞の中へ、母を押し込み始めた。
捕食なのか、奴が何をしているのかは分からない。
けれどこのまま見逃せば、母は絶対に戻ってこない。そう感じたからこそ、援は歯を食いしばる。
動けないはずであろう身体を必死に動かし、狼アッシュへ近づいた。
「母さんを、放せ……」
狼アッシュの手首を、弱々しく掴む。
体を引きずり、畳の床に血痕を擦りつけながら、援はフラフラでも立ち上がる。母を飲み込ませまいと。
掴んでいる握力が、徐々に強く。
援は自身の焼き尽くすような怒りと共に、体温が上がっていることを感じる。
それは右目にも現れ、熱と痛み疼きながら、援は激高する。
「母さんを、放せってんだよおおおおーーっ‼」
相手の眼が、敵意を剥き出しにした瞬間――。
ぎちりと、援の肩から胸にかけて、狼アッシュの巨大な牙がめり込んだ。
「あ、あぐああああああああああああああ⁉」
恐怖と重圧。全身が押しつぶされるような痛み。
ゴリゴリと体内に相手の犬歯が侵入し、アバラ骨や内臓へとその痛みは深く浸透していく。
噛みつかれたまま、援は体を持ち上げられ、そして意識は遠のいていった。
(母さん……⁉)
手を伸ばせば届く距離に居るのに。
助けられなかった。
怪物の胴体に全身を飲まれ――もはや顔と手だけが残された肉親を前に、涙を零し悔やむ。
そんな中だった。
「た、す、く」
耳を凝らせば分からないほどに。
他の光景や雑音が、時間を止めたように無音と化し、援の頭にこれだけが届けられた。
「生、き、て」
援の母は、狼アッシュの肉の細胞に覆われ、飲まれていった。
「母さん」
沈んでいた意識の淵で、模索し。
援の本能は、目的を定めた。
あらん限りの抵抗を、と――。
『がぐ、ぎああああああああーーっっ‼』
狼アッシュが奇声を上げて、援から歯を引き抜いた。
溢れ出る援の血しぶきが、周囲を濡らしていく。
しかし援は意に介さず、アッシュの首筋に歯を突き立てる。
相手からすれば、ほんの小さな傷だ。
にもかかわらず、狼アッシュは悲鳴を上げている。
狼アッシュの血管のように脈動する光の筋が、援に噛みつかれている位置から、どんどん体外へと流れていた。
援はその光を、本能のままにその身へ取り込んでいく。
『ぐらあが‼』
鉤爪を容赦なく振り下ろされた。
援は床へと振り落とされる。
そしてその視界には、相手の足蹴りが迫り……衝撃で援は部屋の壁まで突き飛ばされた。
途切れかける意識の中――最後に見たのは、狼アッシュが歓喜の咆哮を上げて、窓を突き破って行く姿であった。




