惨劇
熱い夏の日差しと、懐かしき市街地。
人々の逃げ惑う荒波。
行きかう怒号……悲鳴。
「母さん! 母さん‼」
とある声が、サイレンの音にさらわれて。
誰一人、その子に目を向けることなく、一心不乱に走っていた。
子供は戸惑い、それでも倒れている母の手を放しはしない。
頭から血を流しており、人に押され転倒したために、意識を回復できないでいた。
「母さん! 母さん‼」
なんとか引きずろうにも、9歳の力ではどうしようもできなかった。
やがて泣きじゃくりながら、誰に助けを求めようと視線を動かしていた矢先。
「父さん……!」
見慣れたスーツ姿の背を見つけた。
父はこちらに気づいてはいない。
その子は精いっぱいの声を張り上げた。
「父さん! 父さああああーーーーん‼」
父は微かに肩を痙攣させる。
そして静かにこちらに振り返り、ようやく自分の子の姿を見つけたのだ。
「父さん……!」
母を助けられる。その一心で喉を干上がらせて、微かな希望を込めて。
しかし父の顔は、何故か躊躇いを交えていた。
「父さん?」
恐怖に蝕まれ、父は目を伏せて……。
あろうことか背を向けて走り出してしまう。
「なん、で」
子供ながらに頭で理解できなかった。
ただ漠然と、そこに立ちつくして、少年に運命の瞬間が迫った。
風がまるで後方へと飲み込まれ――無限の闇が、自分を含めて丸ごと飲み込んでいった。
「っあああああ⁉」
嫌な汗を滲ませながら、目覚める援。
やがてそれが、未だに払拭しきれぬ悪夢だと気づくのに、一分もの時間を浪費した。
「どうして、今になって」
ここ数年で乗り越えていたと思っていた過去が、再びぶり返した。
時刻は深夜三時。
すっかり冴えてしまった頭を冷やすためにも、援は自分の部屋を出た。
洗面所で顔を洗い、目前の鏡に映る自身に対面する。
「アレ?」
違和感に気づいた。
黒蝕病の後遺症に陥いった右目を中心に、赤い血管が周囲の皮膚に浮き彫りにさせていた。
「なんだ?」
洗面所から退出し、玄関に繋がる廊下に出る。
「何か、居る?」
まるで心の内に居る自分が、本能で警告を促しているようで……。
ズシン!
外から、質量のある物が一つ、落ちたような物音。
玄関の、扉を跨いだすぐ先からだった。
援は神経を強張らせ、ゆっくり玄関口に歩み寄る。
ドアの新聞受け隙間から漏れる、街灯の光を遮り、何かが足を止めた。
「ああ~しまった。せっかくのヒック! 貰ったお酒があ」
お隣の男性の声だった。ガチャガチャと音を鳴らして何かを運んでいることから、さっきの物音は酒瓶でも落としてしまったのだろう。
足音が通り過ぎ、援はほっと胸を撫でおろして。
『ぐらああがああああああああああああああああああああああああああ‼』
鼓膜を一瞬にして支配する、何かの怒号。
後方にある居間の窓ガラスが粉々に砕け散り、巨大な『何か』が自身の住居に侵入した。
「お、お前、は⁉」
心臓を鷲掴みにできるほどの恐怖に身を震わせて、援の脳裏に相手の姿が横切った。
夕方のテレビ番組。
狼に酷似した怪物。
右目を赤く濁らせた、驚異の生命体。
「なんでアッシュがこんな街中に⁉」
援に考えている暇はない。
その場に留まれば襲われると、ドアの取っ手を反射的に掴みかけるが――。
狼アッシュは、鼻を引く付かせて援から視線を逸らす。
嫌な予感が過った。
それを必死に回避しようと、玄関口にあった消火器を取り、壁に打ち付ける。
「おい‼ こっちだぞ、こっち‼」
狼アッシュは再び視線を援へと流した。
追いかけっこでもなんでも付き合ってやるつもりで、覚悟を決める援。
しかし狼アッシュの興味は削がれることなく、隣の襖を破り、援の母親の元へと直進した。
「ちくしょうなんで⁉」
援も一目散に駆けつけた。
狼アッシュのデカい背中が、母の横たわる布団の前でうずくまっていた。
匂いを嗅ぎ、そして頭を鷲掴みに持ち上げる。
母の左腕、左足の太もも部分の黒く変色した皮膚が布団から晒される。
狼アッシュは、母を自分の所有物のように、近寄る援へ敵対心をむき出しする。
「母さんを放せ‼」
援は狼アッシュへ向けて、消火器を振りかざした。
「放せってんだよ、この野郎‼」
母を鷲掴みにしている手元に思い切り振り下ろされたその攻撃に、狼アッシュは動じない。
二度、三度、同じ場所に振り下ろしても、首を傾げるだけである。
やがてバキリ! と、追い打ちを掛けるように取っ手が盛大に破損し、援から戦意が鈍ったその時。
狼アッシュの爪が、援の脇腹を捉え、そして薙ぎ払う。
「ぐぶっっ…………っ⁉」
悲鳴が喉奥へ引っ込んだ。
援は押し入れの襖を破り、中へと勢いよく突っ込んでしまう。
狼アッシュはようやく目的を遂行しようと、自分の胴体に爪を立てた。
爪が徐々に皮膚へと飲まれ、赤い血脈が胸の中心から広がっていく。
そうやって狼アッシュは、力一杯に、自身の身体を引き裂いた。
パカリと、胴体の皮膚が左右に別れ、中に広がるは黒い空洞。
臓器に当たる部位が全く見受けられない。どこまでも続きそうな真っ黒の空間に、狼アッシュはおもむろに手を突っ込み、そして“何か”を引きずり出した。
青白く、生気の通わない――それは『人間』だった。
すでに命の宿らないそれを放り捨て、新たに身体へ命の源を注ぎ込む。
援の母の体は、徐々に狼アッシュの空洞の中へと押し込まれていく。
「母さんを、放せ……」
狼アッシュの手首に、弱々しい握力が纏わりついた。
体を引きずり、畳の床に血痕を擦りつけながら、援は抗う。
掴んでいる握力が、徐々に強く。
何より狼アッシュでも感じる取れる異様に、援自身は気づいていなかった。
彼の右目が、赤い血管の筋を広げ、僅かに発光していることに。
「母ざんを、放せってんだよおおおおーーっ‼」
危機感が狼アッシュを先導する。
ぎちりと、援の肩から胸にかけて、狼アッシュの巨大な牙が減り込んだ。
「あ、あぐああああああああああああああ⁉」
恐怖と重圧。全身が押しつぶされるような痛み。
ゴリゴリと体内に相手の犬歯が侵入し、アバラ骨や内臓に深刻なダメージを与えていく。
噛みつかれたまま、援は体を持ち上げられ、そして意識は遠のいていった。
(母さん……⁉)
手を伸ばせば届く距離に居るのに。
助けられなかった。
怪物の胴体に全身を飲まれ、もはや顔と手だけが残された肉親を前に、涙を零し悔やむ中。
「た、す、く」
耳を凝らせば分からないほどに。
他の光景や雑音が、時間を止めたように無音と化し、援の頭にこれだけが届けられた。
「生、き、て」
援の母は、狼アッシュの肉の細胞に覆われ、飲まれていった。
「母さん」
沈んでいた意識の淵で、模索し。
本能は、目的を定めた。
あらん限りの抵抗を、と――。
『がぐ、ぎああああああああーーっっ‼』
狼アッシュが奇声を上げて、援から歯を引き抜いた。
溢れ出る援の血しぶきが、周囲を濡らしていく。
しかし援は意に返さず、アッシュの首筋に歯を突き立てる。
狼アッシュからすれば、ほんの小さな傷だ。
にもかかわらず、狼アッシュは悲鳴を上げる。
狼アッシュの血管のように脈動する光の筋が、援に噛みつかれている位置から、どんどん体外へと流れ、“奪われていた”。
『ぐらあが‼』
鉤爪を容赦なく振り下ろし、援を床へと殴りつけ、足蹴りで隣の部屋へと突き飛ばした。
脅威は居なくなった。
狼アッシュは、体に巡るネクタル因子の活性化を悟り、歓喜の咆哮を上げる。




