第七十一話 茹であがる前の、分岐点になる日
居間のソファに、キューと並んで座っている。
手元の通信機には、ミラさんの配信。居間のモニターでは国の放送が最終戦を流していて、実況と歓声が続いていた。足元の絨毯では、オギーが膝をそろえて座り、モニターの試合を見ている。ドーラはソファの背もたれに両手をついて、私たちの後ろから画面をのぞきこんでいた。
ロミオに頼まれたのは、議場にいるハーン議員の目になることだった。議場の中では、外でどれだけの人が見ているのか、コメントがどう動いているのか、まったく分からない。だから配信が始まってから、私は数字とコメントの流れを短い言葉にして、ハーン議員に送り続けてきた。キューは、配信のコメント欄とは別に、SNSでどんな声が上がっているかを見る係だ。
試合が始まる前、ドーラが「オギー、野球の試合を映してもいいかい」と聞くと、オギーは少し黙ってから答えた。
「すっげぇつらいことがあったけど、やっぱ俺、野球好きなんで。最後の試合、ちゃんと見届けたいッス」
そのオギーは今、絨毯の上で画面に顔を近づけたまま動かない。モニターの中では試合が進み、客席からはため息まじりの声が上がっていた。
「あいつ、今日はまだ一本も打ててない」
オギーの声に、私もモニターへ目を向けた。
野球カフェで見た二戦目のルーキーは、打席に立つたびにホームランを打った。ところが、モニターの中の今日のルーキーは空振りばかりで、タイミングがまるで合っていない。守備でも、見せ場になるプレーは一つも出ない。
国はルーキーを次のオギーにしたいのだから、今日の試合も、ブルードルフィンズが勝ってルーキーが活躍するように、コントロールされているはずだ。
おかしい。どういうことなのかしら。
けれど、今の私の役目は試合を見ることではない。通信機の右半分に映る議場は、休憩に入ったところだった。議長席は空のまま、議員たちが次々に席を立っていく。それなのに、傍聴席にだけは人が入り続けている。
「ハーン議員、姫さんが送った三つの疑問に、そのまま答えてたな」
キューが、通信機から目を離さずに言った。
「ええ。私の言葉が、ちゃんと届いたのね」
声が、少しはずんでしまう。
「朝は元気なかったのに、今は嬉しそうだな」
「……気づいてたの?」
「そりゃ気づくって。朝から、ずっと画面を睨んでたしな」
キューには、いつも見抜かれてしまうな。
「ロミオには内緒よ。本当は、みんなと同じ場所で戦いたかったの。ロミオたちは議場やスタジオで戦っているのに、私は安全な場所にいて、あまり役に立てていない気がして」
キューが通信機から顔を上げて、私のほうを向いた。
「そうかな?」
「だって、私がしたのは、数字とコメントを送っていただけで」
「情報戦で肝心なのは、的確にポイントを拾って、必要な人が使える形で渡すことだよ。姫さんは今日、ずっとそれをやってた」
自分の仕事を、キューが戦いの言葉で認めてくれた。役に立っていないと思っていた今日一日が、急に意味のあるものに変わる。
「……ありがとう、キュー。そう言ってもらえると、すごくうれしい」
そう言うと、キューが笑った。
ふだんのにやりとした笑い方じゃなくて、目尻が下がって、歯がのぞく、飾り気のない笑顔だった。
────こんな笑顔、初めて見た。
目が離せなくなって、気づけばじっと見つめていた。
「ん? どうした、姫さん。俺の顔、なんかついてる?」
「な、なんでもないの」
キューは首をかしげて、通信機の画面に視線を戻した。
私も通信機の数字に目を戻したけれど、さっきの笑顔ばかりが浮かんでくる。
キューって、あんなふうに笑う人だったのね。
もう一度だけ、そっと横顔をうかがう。そこで初めて、顔色が朝よりも少し青白いことに気づいた。再刻印のあとから、キューはときどき、こうして頭を押さえるような顔をする。あの再刻印さえなければ、今ごろキューはスタジオで、パックの隣に立っていたはずなのに。
私はソファの端に畳んであった膝掛けを広げて、キューの膝にかけた。
「頭、痛くない? 無理しないで、横になっていてもいいのよ」
「い、いいって、姫さん! そういうの、ほんと、大丈夫だから」
キューの顔が、みるみる真っ赤になった。
膝掛けをかけられたまま、背筋をぴんと伸ばして固まっている。
かわいい!
年上なのに、かわいいなんて変かしら?
いつもパックのお世話をしているけれど、世話を焼かれることには慣れていないのね。
「今日、キューが隣にいてくれて、良かった……」
「……おう」
キューは自分の通信機を少し傾けた。私の画面と並べて、二人で見られるように。
肩が、軽く触れる。キューの顔は、まだ赤いままだった。
画面の端の数字は、二百五十万。休憩が明けたら、採決はどうなるのだろう。
もし、数の力で押し切られてしまったら。
ミラさんの配信の画面で、兎の頭が右へ向いた。空の議長席を映しているモニターのほうだ。それから、狼の頭に向かって、小さくうなずく。狼の頭のパックが、前に出た。飯会の夜、最後に一発ガツンと言ってやると笑っていたのを思い出す。
ずかずかと歩いてきて、カメラのレンズに、狼の鼻先がくっつきそうなほど近づく。それなのに、狼の頭はレンズに向いたまま、なかなか口を開かない。
後ろで、ドーラが「パック……」と小さくつぶやいて、前掛けをぎゅっと握った。
「今日、この国の水道を全て民間の会社に丸ごと任せるかどうか決まるって、知ってたか? 国の権限がなくなり、企業の意向で何もかも決まるって、知ってたか? ちゃんと放送で言ってたよ。それ、見てたか? このままじゃ、茹であがっちまうぞ!!!!」
最初は、低く抑えた声だった。
「知ってたか?」を重ねるたびに熱がこもって、最後の一言で、こらえていたものが一気にあふれた。居間の空気が止まった。腕に、ぶわっと鳥肌が立つ。
いつもふざけてばかりのパックが、こんなに熱いものを胸の内に抱えていたなんて。コメントも、止まった。流れ続けていた文字が一つ、また一つと画面から消えて、空白になる。
数秒たって、最初の一つが、ぽつんと流れた。
『そんなの見てない、やってた?』
続けて、また一つ。
『だって、教えてくれなかった』
『茹であがるってなに?』
『水道代の話?』
『誰か説明して』
『調べた。茹でガエルのことだって』
『ニュースなんて、邪魔な待ち時間だろ』
『だから、茹であがるんだってw』
『議会中継、見てくる』
『#茹であがる』
見てなかった、と認めるコメントが、次々に重なっていく。
エリュシオンの水のことが、ようやく国民に届き始めたのだ。
「キュー、見て」
「ああ。……パックのやつ」
後ろでは、ドーラが前掛けを握りしめたまま、こちらの画面から目を離さない。
足元では、オギーがモニターから目を離して、縛られたミラさんを見つめていた。
「ミラさん、もうちょっとだ」
小さな声が聞こえた。
数字が跳ねた。三百万。そこから三百五十万、三百八十万と上がっていく。
私はすぐに、ハーン議員の通信機に知らせを打った。
『三百万を超えました。コメントが「議会中継を見てくる」で埋まっています。傍聴席に人が入っているのも、画面で見えています』
けれど、三百八十万を超えたあたりで、数字の伸びがゆるやかになった。
画面の中で、兎の頭のロミオがカメラの前に進み出る。
「四百万を超えたら、ここで明かせる最大の秘密を、一つだけ教えよう」
止まりかけていたコメントが、一気に流れ出した。
『秘密って何』
『拡散する』
『四百万いけ』
────お願い、あと少し。
見て。みんな、見て!
+++
兎の頭の中は、自分の声がこもって返ってくる。約束を口にしたとたん、目の穴の向こうで、モニターの数字の伸びがまた速くなった。
隣では、パックが狼の頭のまま、黙ってモニターを見ている。何を言い出すのかと、今朝まで案じていた。止めなくてよかった。
「……ありがとう、パック」
「おう」
短い返事のあとも、狼の耳の先が、まだ小さく揺れている。
議場の中継では、休憩に入った議員席が空いたままだ。それなのに、空席の目立っていた傍聴席が、少しずつ埋まっていく。
国民が、議場に足を運んでくれている。この国の水道を変える採決を、見届けようとする人たちだ。今日のこの光景が、この国の行く先を国民の手に取り戻す、分岐点になればいい。
モニターの下の数字は、三百九十五万。上の数字は、四百万。
「ただいま、三百九十五万。あと少しだ」
スタジオの誰も、口をきかなかった。鹿の頭のグレン氏が、祈るようにうつむいている。熊の頭のハロルド氏は、身じろぎもしない。狐の頭のベアトリス氏が、ミラの横で画面に向かってまっすぐに立っている。
三百九十八。三百九十九。
────四百万。
「約束どおり、一つ明かそう。今日、この国では二つのことが決まる。優勝チームと、水道の行き先だ。そのどちらにも、同じ会社が関わっている」
『同じ会社って?』
『なんのこと?』
戸惑うコメントが、次々に流れていく。
「今、あなたたちは、試合の中継と、この配信に並べた議場の中継を、同時に見ているはずだ。その二つの画面にある共通点を、見つけてほしい」
私は、説明会で配られたボトルを手に取り、三つの水滴を重ねた丸いマークを、カメラに向けた。一瞬、コメントの流れが途切れた。それから、堰を切ったように流れ出す。
『待って。試合中継のCMで、ずっとこのマーク流れてた』
『外野の看板にもある』
『ハーン議員がラベルはがしてたボトル、これじゃん』
『同じ会社かよ』
私はボトルのラベルをはがした。スタジオの照明を受けて、中の水がきらめく。
そのボトルを、カメラの前に置いた。
「この国の水道を守るのは、あなたたちだ。国民のこれからに、期待したい。約束だ。人質を解放しよう」
ベアトリス氏がミラの手首の縄に手をかけると、縄はするりとほどけた。ミラは、ベアトリス氏の腕を借りて、ゆっくりと立ち上がった。最後まで、人質の顔を崩さずに。
スカイが手元を操作すると、配信の画面からスタジオの映像と音声が消えた。残ったのは、議場の中継だけだ。私は兎の頭を外した。こもっていた熱が抜けて、顔に冷たい空気が当たる。パック達も、次々に被り物を外していく。
ちょうどそのとき、議場の扉が開いた。休憩を終えた議員たちが戻ってくる。傍聴席は、ほとんど埋まっていた。議長が議長席につき、木槌を叩く。
「議事を再開いたします。ただいま、議場の外で、野球配信の乗っ取りという重大な事件が起きております。議場の安全の確保と、国民の皆様の生活への影響を考え、本日予定しておりました採決は、延期といたします」
コメントが、一気に流れ出した。
『え、今日は決めないの?』
『ちゃんと説明してよ』
『民間に丸ごと委託って、やばくない?』
『乗っ取りがなかったら、今日決まってたってこと? やべー』
『次の採決も見る』
『#茹であがる』
スタジオの中は、しんと静まっていた。
誰もが、議場を映すモニターのほうを向いたまま動かない。
「延期……?」
最初に声を出したのは、グレン氏だった。
「表向きは、我々の起こした事件のせい、というわけですな」
ハロルド氏が、苦い顔のまま、口の端だけで笑った。
「計画は?」
パックが、こちらを振り向いた。
「狙いどおりだ。採決は延期になった。四百万人が議場を見て、試合と水道が同じ会社につながっていることも知った。ここから差し戻しまで持っていくのは、ハーン殿と、この国の人たちだ」
数字は、まだ増え続けていた。議場に背を向けていた国の人々が、今は議場から目を離さずにいる。スカイが、配信の画面に「配信を終了します」のテロップを流した。数秒おいて、画面が暗く切り替わる。最後まで増え続けていた数字も、そこで止まった。
機材の電源を一つずつ落としていく。モニターの光が消えるたびに、スタジオに静けさが戻ってきた。
肝心の試合の方は、五回の裏、一点差でスノーフォックスがリードしている。ブルードルフィンズ側の席にはため息が重なり、席を立つ人が目立つ。ルーキーの名前を書いた旗も、下がったままだ。ベアトリス氏の隣にいたミラが、私のほうへ歩いてきた。
「ロミオさん、今日のルーキー、見てた?」
「ああ。チェックをしていた」
「国の筋書きなら、ドルフィンズが優勢なまま、フォックスが食らいつく試合になるはずでしょう。ルーキーが活躍して、いつもどおりドルフィンズが勝つ。それが空振りばかりで、守備でも打球がグローブの先を抜けて、先に点まで取られて。あれは、国の思惑どおりに動いた試合じゃないわ」
「私もそう思う。ボールに手が入っていれば、あんな試合にはならない。今日の試合は、明らかに誰もコントロールしていない」
ミラは小さく息を吐いて、スカイの画面に目を向けた。
「ノーマンさんに会いに行ったとき、考えさせてくれ、と言われたきりだったの。引き受けてくれるのか断られるのか、試合が始まるまで分からなかった」
「ノーマン殿は、貴女の頼みに応えてくれたのだな」
「ええ。ダメで元々だったんだけど」
「彼の口から理由を聞きたいものだな」
「そうね」
「今日はミラ殿のおかげで、目的が達成できたと思う。感謝する」
「よしてよ、お礼を言うのはこっちの方だわ」
まだ、この国の問題が解決したわけではない。私たちにできることは限られているが、これからも協力し合うことを約束した。
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スタジオを片づけた後、念の為に全員別々の道を選び、少し遠回りをして家に戻った。窓から明かりがこぼれている。
「ただいま」
パックと声が重なった。
真っ先に顔を出したジュリエットの笑顔は、飯会の夜のぎこちない微笑みとは違っていた。
「おかえりなさい、二人とも」
その後ろから、キューとオギーも顔を出して、口々に「おかえり」と言う。台所から出てきたドーラが、何も言わずに私たちを抱きしめた。腕の中で、パックがもう一度、小さく「ただいま」と言った。
おかえりと言ってもらえる場所がある。それが、何よりうれしかった。
「さあ、ご飯だよ!」
部屋いっぱいに、煮込みの匂いが広がっていた。
長い二十七日が、ようやく終わろうとしていた。




